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放課後、積極的に男子生徒に声を掛けて部活の話なんかも聞いていたら、憂晴が家に帰る頃にはすっかり日が暮れていた。
幸い、まだ夕飯まで三十分ほど時間がある。
そこで憂晴は、かねてより考えていた由紀用のケージの撤去を開始した。
無残に破壊されてから今まで放置していたのは、初めて買ったケージだけにそれなりの思い入れがあったのと、こんな場所でも由紀が寝床として活用していたからだ。
懸念すべき事項はまだまだ存在するが、この先由紀は人として生きていくことになるかもしれない。そうなったら、この家そのものが由紀のケージとなる。活動範囲も劇的に広がる。
使わないのであればいつまでも部屋に置いておく訳にはいかない。
移戯憂晴という少年は、夏が去れば扇風機はしまうし、冬が過ぎれば炬燵もしまう。
名残惜しいが、必要無いものは片付けなければ。
「菜々子~。香織~」
部屋に入って、開口一番にケージ越しに話しかける。
動物に人間の言葉は理解できないと由紀に暴露されてしまったが、これはコミュニケーションの一貫だ。言葉が分からなくとも、話しかけることに意味がある。
由紀は朝から透心の家に行っている。
近所とはいえ、たった一日でもう道を覚えてしまったのが微妙にショックだったのは内緒だ。
せめて送り迎えくらいはさせて貰いたかった。
「さて、と」
改めて由紀のケージを見る。
何度見直しても蓋はない。
辛うじてケージとしての体裁は保っているが、所々がひん曲がっているので見栄えはとことん悪い。乱暴者の飼い主がケージに八つ当たりしていると勘違いされかねない。
かといって、修理するくらいなら新しいケージを買った方が良い。
だが今の由紀に新しいケージを買うとしたら、とんでもなく大きなケージが必要になる。
それだったら、いっそのこと新しいベッドを買って、そちらで寝ることに慣れてもらうべきだ。
「よっ、と。……はは、なんか組み立てたときを思い出すな」
ひん曲がった柵を一つ一つ解体していく。
解体した四つの柵を土台の上に重ねて持ち上げると、結構な重さに思わずよろめいてしまった。
「ちょっと待っててな。これ外に出してきたらご飯にするから」
菜々子と香織にそう言い残し、憂晴は廊下を通って玄関の扉の前に立った。
両手が塞がれていたので一旦解体したケージを足下に置き、改めて扉を開ける。
そこで由紀と目が合った。
「っ。び、びっくりした。帰ったんならインターホンを鳴らそう?」
「……」
「透心の家までの道は一発で覚えたくせに、なんでこんな簡単なことが……って由紀? 何を見てるんだ?」
由紀の視線の先を辿ると、そこには解体されたケージがあった。
「ご主人……それは……由紀の……」
「ああ。もういらなくなったからさ。捨てるんだ」
「―――」
「結構重いから、良かったら手伝……え!? な、何泣いてるんだ」
一切瞳を閉じることなく、ポロポロと涙を流す由紀。
その表情からは、絶望や喪失、悲哀といった感情が見て取れる。
まるで死期を告げられたかのように顔面蒼白だった。
「お、おい。由紀?」
「ゆ、由紀の家が」
「家? い、いや、確かに家だったんだろうけど。これからは別の」
「由紀はもういらない子なのです! 家と一緒にご主人に捨てられるのですぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!」
涙の残滓を撒き散らしながら由紀が向かった先は――庭。
未だ由紀の掘った後がそのままになっている、荒らされ放題の庭。
慌てて憂晴も後を追うが、
「うぉい!? これ以上庭で何を……あぁっ! 掘るな掘るな! ――っぷぁ!? 掘った土を俺に向かって投げるな! 頼むからその手を止めてくれぇぇぇぇ――――――――!!」
数分後。
庭は取り返しの付かない損害を被ったものの、どうにか由紀を宥めることに成功した。
由紀の手は案の定ボロボロになってしまったので包帯を巻いていると、またしても由紀の赤黒い瞳から一筋の涙が滴り落ちた。
「心と体が痛いのです……」
「わ、悪かったよ」
ケージを捨てるのは気が引けたし名残惜しくもあったが、それは全て憂晴の気持ちだ。
使っていた張本人の了承なしに捨てようとしたのは確かに無神経だったかもしれない。
憂晴は由紀の声を聞けるのだから。
「家と一緒に、由紀もポイッと捨てられるかと思ったのです」
「馬鹿だな……そんなことする訳無いだろ。慣れない一人暮らしをしてでも由紀達と一緒に暮らすことを選んだってのに。これ以上家族が減るなんてまっぴらごめんだ」
「う、ウサ」
「よし、と。じゃあ菜々子と香織にご飯上げてくる」
包帯を巻き終えて席を立つ。
すると早速由紀の手が憂晴の服の裾を掴んだ。
まだ力を入れるには痛いはずだが、いつもの自分優先アピールだ。
「その手じゃご飯を持つのも痛いだろ。俺が後で全部食べさせてやるから、少しの間だけ我慢しなさい」
「……ご主人はずるいのです」
「え?」
「何でもないのです。さっさと行ってくるのです」
由紀の許しを貰い、なるべく急いで菜々子と香織にご飯を用意して部屋に入る。
本当ならここでコミュニケーションを取りたいところだが、由紀の機嫌を損ねるのも良くない。
菜々子と香織……特に香織の視線が刺々しい気がしたが、動物相手に自意識過剰を発動するのはどうかと思い、すぐに気のせいだと自分に言い聞かせた。
帰り際、お納戸で由紀のご飯を用意して食卓に戻る。
「お待たせ」
左手にペレットフード、右手に牧草を持って由紀に差し出すと、真っ先にペレットフードにがっつき始めた。
歯と舌が当たって微妙にくすぐったい。
「食べながらで良いから、さっきの話の続きをしても良いか?」
「ウサ」
「あのケージ、由紀が出てきたときに壊れちゃっただろ。由紀はもう人間の姿なんだし、寝るときは寝室のベッドの方が良いと思ってさ」
憂晴の言葉を聞いた由紀はピタリと動きを止め、
「由紀を寝室に追いやるつもりなのです?」
「え?」
「寝室と言うことは、ご主人と離ればなれになるのです。その間に菜々子や香織とウサウサする気なのです?」
「……一応、俺の傍にいたいとは思ってくれてるんだ」
「当たり前なのです。由紀はご主人が大好きなのです」
「! そ、そっか……それは、嬉しいな」
お墨付きをもらえたことで、憂晴の心はとても晴れやかだった。
憂晴とて、由紀を寝室に追いやる気などない。
ただ、人間の姿のままではいつか必ず不便に思うようになる日が来る。
そうなったときのために準備をしておこうと思っただけだったのだが、あくまで傍にいたいと言ってくれるのなら考えを改めるべきだ。
「新しくベッド買うか」
「ご主人の部屋にそんなスペースはないのです」
「シングルベッドなら由紀のケージをどかせば何とか置けるさ」
「いらないのです。由紀はあのままで良いのです」
「今だって、体を丸めないと収まりきらないじゃないか。あんなとこで毎日寝てたら骨が曲がっちゃうぞ」
「由紀は……もうすぐ元の姿に戻るのです。だから平気なのです」
「え?」
モシャモシャと再び口を動かし始めた由紀とは対照的に、今度は憂晴が固まってしまった。
それは要するに、憂晴の恋に決着を付ける算段が立ったと言うことだ。
「透心達と色々考えてくれてることは知ってたけど……突然だな。別に、急いで元の姿に戻らなくても良いんだぞ」
「戻ったら何か不都合があるのです? ご主人は今の由紀の体にメロメロなのです?」
「そんなんじゃなくてだな……」
由紀の裸にドギマギしていたのは紛れもない事実なので、否定するにできなかった。
「もうすぐ元の姿に戻れるって、つまり時間を掛けて守永さんと仲良くなっていくような手段じゃないってことだろ。一体俺に何をさせるつもりなんだ?」
偶然とか関係無しに、キスをすること自体に疑問を抱き始めていた憂晴は、自分のあずかり知らぬ所で勝手に話が進められていることが恐ろしかった。
決して心がチキンな訳ではない。
「それについては寝るときに話すのです。ご主人は追加で人参を持ってくるのです」
「……生憎両手が塞がっててな」
「ご主人の口は何のためにあるのです?」
「少なくとも人参咥えるためじゃないわ!」




