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「ただいま、なのです」
ニュッと玄関から顔を覗かせたのは、初めての無断且つ単独のお出かけから帰ってきた由紀だ。
時刻は既に夜の七時を回っていたが、どうやら鍵の掛かった扉の前で立ち往生していたらしい。
由紀にはインターホンを鳴らすという知識が欠けているのだ。
当然怒るに怒れず、ご飯の時間までには門の前にいたこともあって不問とした。
「おかえり。気付くの遅れてごめんな。夕飯作っててノックが聞こえなかったんだ」
「気にしてないのです。それよりも、由紀はご主人に聞きたいことが」
「ん……あれ? その靴、どうしたんだ?」
由紀が履いているのは見慣れない女物の革靴だった。
「これはトコに貰ったのです。代わりにサンダルを上げたのです」
「そういえば靴は買ってなかったっけ。それ、新品だろ。わざわざ買いに行ったのか? だとしたら透心にお金払わないと」
「違うのです。トコが未来を見据えて買っておいた革靴なのです。でも発育が止まって結局使わなくなった靴なのです。……あ、これは秘密だったのです」
「……触れない方が良さそうだな」
いずれ着られるようになると考えて買っておく、という経験は憂晴にもある。
結果的に必要無くなったときの空しさといったらない。
「ま、とりあえずご飯食べろよ。菜々子と香織にはもう上げたし、一緒に食べよう」
「ウサ」
憂晴は由紀の手を引いて食卓に着かせ、すぐに皿を持ってお納戸に向かった。
新品の牧草とペレットフードを適量皿に盛り、再び食卓に戻る。
テーブルの上には先程憂晴が作った焼きラーメンが置かれている。その隣に由紀用の皿を置いて、両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきますなのです」
食べる前の挨拶など小学校の給食以来だったが、由紀の前ということでつい無意味な見栄を張ってしまった。
「はい」
牧草を一掴みして由紀に差し出す。
「……、」
「どうした? あ、お箸使って食べたいとか? だったら今度、由紀専用の買いに行くか」
「違うのです。何だかご主人が変なのです」
「変?」
「由紀は勝手に外出して、ご主人に内緒のお話をしてたのです。それなのにご主人は優しすぎるのです。不気味なのです」
酷い言われようだった。
由紀が抱くイメージ上の憂晴は、頭に角でも生えているのかもしれない。
憂晴からしてみれば、由紀の両手はボクシンググローブに見えるのだが。
(元の姿に戻りたいとは言ってたけど、現状じゃそれが難しいのは目に見えてる。なら、由紀は今のままの姿で外の世界を知っていけば良い。俺はそのためのサポート役に徹しよう。もっと寛容にならないとな……由紀の主人だからこそ)
「ご主人の視線が生温かいのです。気色悪いので即刻元に戻ってほしいのです」
「そんなこと言われてもなぁ」
牧草を置いて由紀の頭をウサ耳ごと優しく撫でる。
「……うん。由紀は良い子だな」
「う、ウショい!!」
手を振り払われた。
「ウザイとウルサイに『キショイ』が加わった!?」
「はむはむはむはむ!!」
由紀はヤケクソとばかりに牧草を貪り始めた。
あっという間に皿の上にあった牧草とペレットフードは底を尽き、憂晴が手に持っていたものも由紀の口に吸い込まれていく。
「キーキー! もっと持ってくるのです!」
「牧草なら良いけど」
「それで良いのです! 人参も添えるのです!」
「勢いで言ってもそれは駄目」
「!?」
翌日の学校で、自分の席に座った憂晴はひたすら困惑していた。
昨日は引け目を感じていたせいで、守永由紀とコミュニケーションを取ることができなかった。
なので今日は自分から声を掛けようとしたのだが、顔を合わせるや否や逃げられてしまったのだ。
登校中の生徒をスルリスルリと躱して廊下を爆走する様を、憂晴はただ呆然と見送るしかなかった。
彼女は昨日、すっかり元気を取り戻していたはずだ。
たった一日であの辱めから立ち直って、何事もなかったかのように友達と談笑していたのだから。
(あれって、やっぱり無理してたのかな? それとも、昨日帰ってから何かあったのか)
仮に演技していたのだとしても、今その演技を解かなければならない何かしらの理由がある?
守永由紀は新入生美少女ランキング二位。
彼女はそんなこと気にしていない様子だったが、ここに来て意識しだしたのだろうか。
あまり憂晴と仲良くするのはよくない、などと女友達に吹き込まれた可能性もある。
新入生の美少女ランキングを決めるのは、恐らく男子生徒の投票だ。
新入生のデータが事前に新聞部に渡っていれば、在校生の票を集めることは難しくない。
そしてその基準となるのは――容姿。
ランキングというものは定期的に行われるからこそ盛り上がる。
新入生美少女ランキングが更新されるのであれば、恐らく次は校内美少女ランキングと名を変えて大々的に行われるだろう。
今度は容姿だけでなく、品行方正、成績など様々な観点からランク付けがされる。
その中で、男子の投票に最も影響するのが『彼氏の有無』だ。
もっと言えば、仲の良い男子がいるというだけでマイナスイメージになり得る。
守永由紀が美少女ランキングで高順位を維持するのには、自然と憂晴は邪魔になる。
(なんて、そんな子じゃないか。そういう、鼻に付くような女子って透心も嫌いだしな。あいつが胸張って友達って言える女の子が、美少女ランキングなんて気にする訳がない……お?)
思考が透心の友人関係に向かったところで、もはや日課となりつつあるメールが届いた。噂をすれば影とは、頭の中で考えたことでも有効らしい。
(何々……『ウサギもネコも可愛いけど、キツネも可愛いと思う』? 何だ、これ。なぞなぞか? 何かの暗号? それともメッセージ?)
守永由紀の不可思議な反応の直後に送られてきた、透心からの摩訶不思議なメール。
何か重大な意味が隠されているに違いない。
そう確信した憂晴は、朝のホームルームが始まってもそのことだけをずっと考えていた。
机に肘をついて、ボーッと目の前にある教卓を見つめながら。




