7
商店街を抜け、坂道を上がって憂晴の家が視界に入ったところでそれは聞こえた。
『……ウサアアアアアアアアアアアア……』
「……、」
聞こえない振りをして、憂晴は少しだけ歩幅を広くする。
「ねぇ、今のって」
「え? 何か聞こえたか?」
「……」
明らかなとぼけっぷりを見て憂晴の気持ちを察したのか、透心はそれ以上追及してこなかった。
家の門に手を掛けた直後、再び声が聞こえてきた。
先程とは違う声だ。
『……ニャアアアアアアアアアアアア……』
「……、」
今度は透心が冷や汗を流す番だった。
「なあ、今のってさ」
「私には聞こえなかったけど?」
「……」
互いの心境を理解しあった二人は、無言で階段を上る。
そして玄関の扉前まで来て足を止めた。
屋内にあるまじき喧噪が、扉越しに伝わってきたからだ。
示し合わせたわけではないが、憂晴と透心は自然と顔を見合わせた。
アイコンタクトを交わし、そっと鍵を開ける。
ガチャ、と大げさな音が響いたが、血気盛んな動物達が気付いた様子は無い。それだけでどんな状況なのかうかがい知れた。
猫の聴覚も兎の聴覚も、人間を遙かに凌駕する。
一言に聴覚といっても、兎は遠くの音を聞き取るのに優れているといったように様々なのだが、一つ屋根の下で聞こえないということはまずない。
「寝室か」
喧噪の出所を特定した憂晴は、透心に持って貰った食材を含めた全ての荷物をリビングに置いた。
そのまま廊下を通って寝室の前で耳をすます。
『……!』
『ウッサッサッサ……今更大人しくしても無駄なのです。年貢の納め時なのです!』
『こ、怖いーのよ……助けて憂晴様……ミア殺されちゃうーのよ!』
『急に態度を変えても――』
「ミア!!」
助けを呼ぶ声に応じ、迷わず憂晴は寝室に飛び込んだ。
しかし同時に、ガン! と何かを小突いたような音が聞こえる。
「う、ウサ!?」
ピョンとウサ耳を立てて動揺する由紀。
だが、そんな由紀の姿が目に入らないくらいに憂晴は動揺していた。
思い切り扉を開け放ったせいで、扉の向こう側に居たヘルマンリクガメの菜々子を突き飛ばしてしまったのと、扉近くに香織の羽根が散乱していたことを同時に知ったからだ。
「あぁっ、ごめん菜々子! って何じゃこりゃ!? 香織!? 香織ぃぃ――――――!! 返事をしてくれぇぇぇぇぇ!!」
「落ち着いて憂晴。窓の淵に留まってるでしょう」
「え」
思いの外冷静だったのは透心だ。
仮にオカメインコがこの家からいなくなったのだとしたら、その疑いをかけられるのは間違いなくミアなので、一刻も早く見つける必要があっただけかもしれないが。
「よ、良かった……香織ぃ……」
憂晴が手を差し伸べると、香織は安心したのか即座に飛び乗ってきた。
足下まで歩み寄っていた菜々子もヒョイと持ち上げて、甲羅に傷が付いてないか確認する。
「菜々子も……大丈夫そうか。はぁ~……。ちょっと、ケージに戻してくる」
「うん」
寝室から出た憂晴は、部屋に入ろうとして床の異変に気付いた。
何か白い欠片のようなものがあちらこちらに散乱していたのだ。
台所を覗き込むと、欠片の本体らしき割れた皿を発見した。
(これも由紀がやったのか?)
香織と菜々子をケージから出したのは間違いなく由紀の仕業だが、わざわざ皿を割ったりするだろうか。
とりあえず皿の破片は何とかすべきだと判断し、一通り掃除機をかける。
本当は掃除機の先端に布を付けて吸う、くらいの処置を取りたかったが、今は問題児への躾が急務だ。
掃除機をしまって再び寝室に戻ると、ミアがベッドの上で正座させられていた。
今更だがミアは元の姿を取り戻していたはずなのに、完全に人間の姿になっている。相変わらず素っ裸だ。
「どうしたんだ?」
「事情を聞いてると――!! ミア、お布団巻いて!」
素っ裸だったミアは蓑虫のように布団でグルグル巻きにされた。
「相変わらず信用ないな……。ま、事情を聞いてるんなら丁度良い。由紀もこっちに来て正座しなさい」
「う、ウサ」
由紀は素直に従った。
この反応を見る限り、悪いことをしたという自覚はあるらしい。
庭の穴掘りのように本能でやったことなら怒れないが、違うのであれば話は別だ。
「台所で皿が割れてたんだけど、あれは由紀がやったのか?」
「ち、違うのです。あれをやったのはミアなのです。由紀はやめるように言ったのです」
「にゃ!? と、突然襲いかかってきたウサギさんが悪いーのよ!! ミアは防衛手段としてお皿を――にゃっ!?」
「つまり割ったのはミアなのね……はあ」
大きな溜息を吐いてミアの失態を嘆く透心。
「いや、それが本当なら事の発端は由紀が襲いかかったせいだ。由紀? どうしてミアに襲いかかったりしたんだ。それもやっぱり、俺のストレスを溜め込んでる影響か?」
だとしたら、やはり怒るわけにはいかない。
その場合の事の発端は、『憂晴の愚痴』以外の何物でもないのだから。
「ご主人のせいなのです。でも、ご主人の愚痴で溜まったストレスとはあまり関係ないのです」
「え?」
「憂晴が悪いのは確か」
透心には由紀がこんなことをした理由が分かっているようだ。
憂晴が納得のいかない顔で透心を見ると、
「ウサちゃんのために言うけど。動物だって人間と同じ。人間と同じように喜ぶし、怒るし……嫉妬だってする」
「嫉妬? ……あ」
動物も嫉妬する。
明確な態度でなくとも、他の動物に構っていると『自分も構って』と催促されることはよくある。憂晴にも当然覚えがあった。
憂晴達が家を出る前。
ミアを元の姿に戻すために思いつきでやったことが、由紀を苦しめていたのだとしたら。
「由紀……」
「う、ウサ」
「ごめんな……悲しい思い、させちゃったか」
優しくウサ耳の間を撫でる。
由紀は気持ち良さそうに目を細めた。口元もヒクヒクさせていて非常にご機嫌だ。
しかしいつまでも撫でてはいられない。
憂晴はピタリと撫でていた手を止め、
「ところで、由紀はどうして菜々子と香織をケージから出したのかな」
「!?」
「香織の羽根があちこちに散乱してるとこ見るに、相当飛び回ってるよな、これ。この部屋で一体何をしてたんだ?」
「ミアが香織を食べようとしたのですっ」
「にゃっ!?」
いきなりミアに矛先が向いた。
「み、ミア? 本当なの?」
「誤解にゃーのよ! ミアはただ、怖がってたインコさんを安心させてあげただけにゃーのよ!」
「って言ってるけど」
「成る程……大体分かったよ。最初はミアも猫の姿だったんだし、香織が慌てるのは当然だ。悪いのは寝室に連れてきた由紀だな」
「……ごめんなさいなのです」
「皿を割って、勝手に菜々子と香織をケージから出した。……それで? 最後の質問に答えてないよな。寝室で今まで何をやってたんだ?」
憂晴達が家を空けてから、実に二時間以上は経過している。
その間、ずっと喧嘩をしていたとしたら、もっと凄惨な光景が広がっているはずだ。
「はいはいは~い! その質問にはミアが答えるーのよ!」
「ん、なら頼む」
「如何にして憂晴様に気に入って貰えるか、特訓してたーのよ」
「へ?」
予想外の答えが返ってきたため、突拍子のない声を出してしまった。
「ミア! それは言わない約束なのですっ」
「そんな約束してにゃーのよ~」
「お前等、仲良いのか悪いのかどっちなんだよ。……まあ、いいや。特訓の成果とやらは見せてくれるのか?」
「む、無理なのです。未完成なのです」
「ミアお墨付きにゃーのよ?」
「さっきと言ってることが違うのです。これはミアの巧妙な罠なのです」
何やら由紀がブツブツと言っているが、憂晴としてはこのまま人参を上げるわけにはいかない。
透心に話を信じて貰う際は大人しくしていたが、この失態でその功績は帳消し。ご褒美を上げるには、何かしらの行動が必要だ。
「由紀。俺がいない間に悪いことをした自覚はあるよな?」
「う、ウサ」
「なら、このまま人参を貰うわけにはいかないよな?」
「!?」
その考えはなかった! とばかりに耳を立てて驚く由紀。
「特訓の成果を見せてくれたら、ご褒美」
「血も涙もないのです。そんなに見たいのなら……しかと目に焼き付けるのです」
すぅはぁと数回深呼吸をして、由紀は真剣な表情を浮かべて憂晴を見上げた。
俗に言う、上目遣いだ。
そして――
「ごしゅじぃん」
「……」
言葉が出なかった。
突っ込むべき所は多々あるが、時間の無駄に思えた。
透心も同じだったようでポカンとしている。
ミアだけは何故かガッツポーズだ。
何を持ってしてこれで憂晴が喜ぶと思ったのか。
百歩譲って今のが『色気』だとしても、憂晴には何の効果もない。
女に甘えられると男は弱い。
それは飼っている動物と飼い主にも当てはまる。
憂晴も、これまでに幾度となくキュンとしている。
だが甘え言葉というのは、仕草と同時に行うことで効果を発揮するのだ。
顔だけやたらと真剣で、身動き一つ取らないまま「ごしゅじぃん」などと呼ばれても困惑するしかない。
皆の反応が悪かったからか、由紀がキレ気味に文句を言ってきた。
「だから言ったのです! 未完成なのです!!」
「由紀。それは完成しても駄目だと思う」
「ウサッ!!」
油断していたところにウサパンチが飛んできた。
心臓を直接殴られたようなハートブレイクショットだ。
「お、おま……人参のことはもう忘れたのか……」
「今のはなかったことにするのです」
「できるか!! もう人参はなし! ずっとなし!!」
「ご主人!?」
ショックで硬直してしまった由紀に、救いの手を差し伸べる人物がいた。
「待って。流石にそれは可哀想」
「そうか? 菜々子と香織をケージから勝手に出して、ミアに襲いかかって、挙げ句主人の俺にウサパンチだぞ? 俺が今日、何発ウサパンチとウサキックを食らったか教えてやろうか」
「それは全部、憂晴の愚痴のせいなんでしょう」
「む、ぐ」
正論過ぎる正論に思わずたじろぐ。
透心に言われずとも理解はしているが、だからと言って散々殴られたことまで自分のせいとは考えられない。
いくらなんでも理不尽だ。
「ちゃんと褒めてあげて、それで人参を上げるべき」
「そ、そうは言ってもだな。今のに褒めるべき箇所があったか?」
「……、もう一度チャンスを上げて」
「結局透心にも褒めるべき箇所なんて見つからなかったんじゃないか……」
呆れつつも概ね透心の提案に賛成した憂晴は、由紀に挽回のチャンスを与えることにした。
「が、頑張るのです」
「透心に礼を言っておけよ? 俺は人参無期懲役にするつもりだったんだから」
憂晴の言葉に難色を示すかと思いきや、意外にも由紀は透心に向き直り、
「……トコ。お前はご主人を猫ばばしようとする泥棒猫だと思ってたのです。実は違ったのです。優しい泥棒猫だったのです」
「!!」
「俺を猫ばば? 何だそれ」
「ふ、深く考えちゃ駄目っ」
「ママもにゃん儀にゃーのよ。ミア、ママにだって遠慮するつもりにゃーのよ? 第一、意識自体されてないんだからまず気持ちを伝えるところから」
「ミア!」
布団にくるまっていたミアを透心が襲撃した。
荒ぶる二人を余所に、憂晴は由紀の再チャレンジを待つ。
さっきと同じ言葉を言っても無駄なことは理解しているらしく、由紀は一丁前に悩んでいるようだ。
やがて何かを思い出したようにポンと手を叩き、
「そういえば、まだ教えて貰ったことがあったのです」
「! ま、待つーのよウサギさん! それをされたら色々困るーのよ!」
透心に抑え込まれていたミアが割って入る。
「止めないでほしいのです。ここが正念場なのです!」
「何なんだ一体……って!」
急に由紀は、ベッドの上で四つん這いになった。
憂晴に、お尻を向けて。
これがテレビならカメラを意識していない最低な行為だが、憂晴にとってはとんでもないサービスだった。
何せ由紀はTシャツ一枚。
買ってきた服は全てリビングに置きっぱなしである。
当然、下着も着けていない。
そんな状態で四つん這いになった由紀は、憂晴の目線からだと色々まずいことになっていた。
「ま、待て由紀! それ以上腰を上げたら見えてはいけないものが!!」
「まだまだなのです!」
下半身の惨事に気付いていない由紀はグイグイと腰を上げ続ける。
化けて出て来た直後の反応を思い返せば、由紀にそれなりの羞恥心が備わっていることは確かだ。
にもかかわらずこの痴女っぷりはどういうことなのだろう。
「やっちゃったーのよ。だから止めてって言ったーのよ。にゃう~、憂晴様もしっかり反応してるーのよ」
「つまりウサちゃんのあれは……ミアが教えたの?」
「にゃ!?」
「ミア! あ、あなたって子は……!!」
「にゃあ! ママ、目が据わってるーのよ!」
透心とミアの会話を聞いて、由紀が恥ずかしげもなくこんなことをしている理由は把握した。
この問題を解決するのは簡単だ。
下半身が見えそうになっていることを教えてあげるだけでいい。
しかしその前に、どうしても助言したいことがあった。
ゆっくりと視覚的に安全な真横に移動し、憂晴は一言だけアドバイスをした。
「さっきの台詞と合わせてやってみたらどうだろう?」
「何やらせようとしてるの!!」
透心の細腕から放たれたパンチは想像以上の破壊力を秘めていた。




