教室
僕のクラスの池澤優花が死んでから今日で丁度二週間になる。相変わらずクラスの雰囲気は重いままだ。楽しく笑い合ったり、和やかに語りあったりするのを禁じられてしまった僕たちは、ただ必死に日々を暮らすことだけを強いられていた。クラスメイトには、うつむいたまま過ごす奴、そいつの話題を出してコソコソ話す奴、それを不謹慎だと言う奴というように、いろんな奴がいた。僕はと言うと何も出来ずに変な顔をすることしか出来なかった。どうすればみんなの気を悪くしないかだけを考えて、申し訳なさそうな顔をして、机に座って本を読んだ。
池澤優花はいわゆるムードメーカーというやつだった。よく笑うひとで教室で彼女の笑い声を聞かない日はなかった。学校行事はもちろん、クラスでの小さな出来事でも中心にいて、みんなの笑いを誘っていた。
彼女の死の知らせは電話で受けとった。クラスの連絡網だった。死因などは一切語られず、ただ明日は普通通りに学校へ行くこと、クラスメイトは通夜だけでなく告別式にも参加することだけが淡々と伝えられた。
告別式は雨の日だった。重苦しい空気に包まれたそこにはぴったりの天気であったのだろう。移動するときに、傘をささないで髪の毛をぐっしょり濡らした女性が僕の前をぼうっと通るのを見た。その横顔は、例の彼女とよく似ていた。顔には幼さも残っていたが、その女性はとても老けているように見えた。森の奥深くでひっそりと息をして暮らす老婆のようだった。
しばらくして、その女性が彼女の母親だということを知った。予想はしていたはずだが、告別式のときは何かを考えることさえしていなかったので、それを知ったときは「それはそうか、そうだろうな」という感想を頭の中で唱えていた。
告別式の翌日には新聞の地方版に池澤優花の名前を見つけた。彼女の死の詳細を語るそれを見つけた瞬間には思わず、飲んでいたミルクをむせさせてしまった。そして、次の瞬間にはミルクを飲み込むのにすごく時間がかかったのを覚えている。重大すぎる事実を知ったとき、他の何かをしているなんて僕には何だか変なことのように思えたからかもしれない。
僕の通う中学はとても田舎にあって、あまり大きくもないので、好きな女の子を教えようものなら翌日には黒板に面白おかしく相合傘を書かれてしまうようなコミュニティの狭さだ。そして、昔から発展しないで固まったままの息苦しさを持った人間関係がある。クラスで目立つ奴らの機嫌を取って過ごす僕なんか、きっとその中の典型なのだろう。それに、噂をされるのは嫌いなくせに、気がついたら僕も噂に混じったりするのだからこれらに文句も言えない。
しかし、中学校に不満はあったものだいたいは充実して学校生活を送っているのも事実であった。それは池澤優花のようなムードメーカーのおかげでもあったが、僕のクラスの仲田誠一先生のおかげでもあったはずだ。誠一先生は今年で30歳になる社会科の先生だった。若々しく、生徒に対して親切に指導するほか、ホームルームでは毎回興味深い話をしてくれたり楽しいレクリエーションなんかをしてくれた。僕も、みんなも誠一先生を慕っていた。もちろん彼女もそうであっただろう。それだけでなく、誠一先生は他の教師、近所のおばさんなど誰にでも好かれた。
4時間目の終了のチャイムが鳴った。いつもならすぐに聞こえてくるはずのあの声が聞こえてこなくなったことに、僕は少し変な顔をしてみせた。しかし、僕のことを見るひとなんてものはいないので、僕はまた変な顔をした。トントンと音を鳴らしながら階段を降りて給食の食管を取りに向かった。窓の向こうでは雨が降っていた。あの日から雨の日ばかり続いているような気がする。黒く暗い空から降ってくるそれは、綺麗なものなのだろうか、それとも汚いものなのだろうか。
さすがのみんなも給食を食べているときは、控えめではあるが雑談をした。僕もそれに合わせて笑ってみたり、顔をしかめてみたり、様々な顔をした。噂話は相変わらず人気なようで、僕はタイミングよく頷いたりした。食事が大抵終わって、クラスの目立つ奴が僕より少しナヨナヨした奴をからかった。その目立つ奴のことが好きな女子はそれを見て目を輝かせていた。僕はと言うと、今日のカレーも小麦粉がたくさんだったと考えながらみんなの顔をちらちらと見て残りの食事を掻き込むため、スプーンを動かした。僕の隣のナヨナヨした奴は渇いた笑い声をほんの少し吐いて俯いた。
午後の授業は美術の授業のため、教室の鍵を閉めてみんな移動した。渡り廊下を通らないといけないため、一部の女子は髪が乱れるだのなんだのボヤいた。僕の脳裏にまた彼女の顔が浮かんだ。そういえば彼女の髪は少しだけ癖毛だったと思い出した。柔らかそうだったあの髪には、永遠に触れることはないのだと思った。
今日の授業はスケッチだった。グループになって友達をモデルにし、鉛筆でそれらを描いた。机の位置は教室と同じだった為に、僕らのグループは給食のときと同じで、クラスの目立つ奴、女子数人とナヨナヨした奴、そして僕だった。しとしとと降る雨の音が聞こえるくらい、教室は静まっていた。鉛筆を動かす音が僕の集中をより強めていた。
カラン、と鉛筆の落ちる音がして、プツンと集中も切れたのだろう。クラスの目立つ奴はナヨナヨした奴の絵を覗き込んだ。口元を緩ませ、目をいやらしく女子へと向けた。そして会話が始まり、それは不協和音のような笑い声に変わった。僕は顔をあげてそちらを見た。すると、女子の一人と目があってしまったためにすぐにまた俯いてしまった。担当の教師が職員室へ行ってしまったようで、ここにはみんなしかいなかった。不協和音が大きくなっていった。僕のグループだけでなく、目立つ奴の友達たちも集まってナヨナヨした奴の絵を覗き込んだ。そのうちの一人が大声で「これは傑作だな」と言った。
そのとき、美術室の前の扉が開いて教師が入ってきた。隣のクラスで授業をしていた教師のようだった。みんなは注意を受けるとすぐに自分の机へと戻りスケッチを再開した。だが、僕はすぐにそれをすることができなかった。僕はまたみんなのことをそっと見た。ナヨナヨした奴を発見したときに、僕の目は止まった。彼は首を垂れて、細い腕はスケッチブックを覆っていた。わずかではあるが腕を震わせていて、さらによく見ると彼は肩も震わせていて、僕はようやくそこで彼が泣いていることに気がついた。「池澤さん」彼の口はそう言った。鉛筆の音の中で、その声は誰にも届くはずのものではなかった。だが、ナヨナヨした彼の嘆きは偶然ではあったが僕に深く突き刺さってしまったのだ。
僕は泣いた。すべての授業が終わり、誰もいなくなった教室で、僕は泣いた。様々なことが脳内を駆け巡った。給食のグループでは池澤優花と僕たちが同じグループだったこと、もちろん美術の授業のときも同じグループだったこと、彼女はクラスのムードメーカーで正義感溢れるひとだったこと、僕らの美術の時間、隣の教室ではいつも社会の授業が行われていたこと、その授業の後にはいつも僕らと、隣の教室から出てきた誠一先生が並んで教室に戻ったこと。それらすべてが、僕の頭の中を駆け巡った。
新聞の記事というのは、誰が見てもわかりやすいように書かれるもので、もちろんそのためには淡々とその出来事が書かれる。いつも池澤優花を見てばかりいた僕が、彼女が誠一先生を慕っていたことを知らないはずもなく、誠一先生もまた彼女を特別可愛がっていたことだって知っていた。一度だけだが、放課後に彼女たちが資料室に二人で入って行くのを見かけたことがあったし、「そういうこともあるのだ」と僕はきっとそのとき変な顔をしたし、だから、当然こんなことがあっても決しておかしくないのだと思った。だが、僕は新聞に対して違和感を覚えたのだ。誠一先生は中学教師であるし、池澤優花は市内中学校女生徒であるし、何も間違ってはいないはずだ。彼女が死んだことも事実だし、誠一先生がその彼女との別れ話のもつれで彼女を結果的に殺したことも、ありのままがそこには書かれていた。それなのに僕の中の違和感は消えなかった。「あの誠一先生がそんなことするはずがない」という、クラスのある女生徒の言葉を思い出した。「僕だって」そうつぶやいた。僕はずっと泣いていた。泣き終わっても雨は止んでいなかった。
僕の大好きだった二人は共に教室から消えた。