エピローグ:俺なりに―――
逸未市市立病院外科。
水島銀次はそこに収容された。
その情報を父から聞いた妹、水島刹佳はそこの二〇七号室を訪れた。
彼女ともう一人、銀次にとって特別な存在であろう少女、椎名桜子を伴って。
「私はここまででいいから。刹佳ちゃん行ってきなよ」
と頑なに言い張る腰まで伸びるウェーブのかかった茶髪と祖父譲りの蒼い瞳が印象的な顔立ちをした桜子を引っ張って無理矢理病室に入る。
「ここまで来たんだから会っていこうってば! 桜子ちゃん!」
そんな事を言いながら、個室の中に連れ込むと彼女も諦めたようで、すんなりついて来た。
そして、ベッドで上半身を起こして、窓の外を見る兄を見た時に彼女の脳内で、とある光景がフラッシュバックした。
それは桜子も同じようで、二人とも言葉を失ったようにその場に立ち尽くしてしまう。
その光景は、あまりにも十一年前の彼の光景とそっくりだった。
桜子の両親が死んだ時の彼の状況と酷似しすぎていた。
しかし、二人のそれが勘違いである事を知る。
何故ならば、銀次本人が彼女たちを振り返ったからだ。
それを見て、ホッと安堵する二人。そんな二人を見て、彼は言った。
「あなた達、誰でしょうか?」
そう、彼女たちは勘違いをしていた。
それは酷似していたのではなく、さらに酷い状況であるのだと。
記憶喪失。
この反応から二人が読み取れた事は、その四文字の単語に繋がっていた。
「う、嘘…でしょ?」
桜子が今にも泣きそうな声で、呟くように言う。
「――――何がでしょうか?」
しかし、彼女の望む反応は返ってこない。ただただ水島銀次であった者は不思議そうに首を傾げる。
その反応を見て、刹佳は耐えきれずに病室の外へと飛び出して行ってしまう。
それでも、桜子はこの現実を否定したかった。
「お、覚えてないの? お父さんの事も、お母さんの事も? あんたを守って、死んでしまったのに?」
「そうなんですか? 僕に、そんな事があったなんて」
しかし、反応はやはり覚えていない人間の反応。いわゆる「他人事のよう」だった。
その時、桜子は一つの事項に思い当たる。
『汝の意志するところを行え。それが法の全てとならん』
あんな事を言ってしまったから、これが起こったのだとしたら。
そんな思考に陥って、自分を責めようとした。その時だった。
「くっ。はははは、なにこの世の終わりみたいな顔してんだよ桜子」
声に、顔を上げると。
腹を押さえて心底可笑しそうに笑う昔馴染みの姿があった。
そして、桜子は気付く。
「――――やられた。あんた、騙しやがったわね?」
「汝の意志するところを行え。それが法の全てとならんってな。お前のそうゆう顔を見るために俺は生きてんだよ」
そうして、桜子が教えた言葉を語り始める眼鏡を掛けた少年。
その言葉に、カッとなって桜子は思いっきり握りしめた右拳を彼に向かって振り下ろした。
「ぶべらッ!!」
ゴンッという鈍い音が響く。
痛々しそうに鼻を押さえる銀次をそのまま桜子は抱き締めた。
まるで、自分の恋人の無事をその身で感じるかのように。
「良かった。ホントに良かった」
その言葉に、彼も反省したのか。桜子の背中をトントンと安心させるように叩きながら「悪かったよ」と謝っていた。
「大丈夫だから。俺はちゃんとここに居る」
「そんなの――――わかってる」
言いながら離れて、桜子は部屋を出て行こうとする。
「売店で飲み物とお菓子買ってくる」
そうして、また部屋には銀次一人になった。
◆◆◆
桜子が部屋を出てすぐ、部屋に入ってくる人物がいた。
「あれで良かったのか? 後で自分が辛くなるだけだろう?」
それは紅い髪を腰まで伸ばした女性だった。
彼女は最近、精神科医の名目で彼の元へと通っている女性で、名前は明石稜子というらしい。
「君、本当は何も覚えてないんだろう?」
「――――別に何も覚えてないわけじゃありませんよ」
桜子の前では咄嗟に嘘を吐いたが、俺はあの日以来記憶喪失に陥っていた。
医者は一時的な物だと思うが、いつ治るのかまではわからないと言っていた。
しかも、その喪失は限定的な者であり、思い出や出来事に関する記憶であるエピソード記憶だけが著しく欠如しているらしかった。
つまりは、知識などは残っているという事で、今までの「経験」に繋がるような記憶だけがない。
それでも記憶に残っているのは三つの光景があった。
桜子の両親が俺を守って死んでしまい、桜子が泣いている光景。
壊れてしまった俺を救ってくれた人に会った時の光景。
そして、俺が事故に会う前の今は誰かわからなくなってしまった少女の、泣きそうな顔。
あとの事柄は覚えていない。
父の顔も、母の顔も、妹の顔も、姉の顔も。いるという事はわかっているのに、思い出せない。
桜子だけは、あの光景に映っていたし、知識の中にもその人となりは明確に知っていたし、それに桜子と一緒に来た少女が名前を言っていたからわかっただけなのだ。
そして、俺が解決したらしい事件は。犯人であった桑原慶介が逮捕され、終わりを迎えた。桑原慶介は子供を殺した動機については「子供を好きになってしまったから」と供述していた。その最中には俺がどうなったのかを気にしていたらしい。そして、「ごめん。ありがとう」と俺に伝えてほしいと刑事に頼んだらしい。と上代という刑事が俺に向けたメールを寄こしてきたのだった。
さらに言うのならば、「ありがとうございました」と見覚えのない子供を二人連れた綺麗な女の子が見舞いにも来てくれたりした。いや~我ながらスゲェ奴だったんだな。
「それで? これからどうするんだい?」
考えてみれば、この紅い髪をした女性も、どこか俺を助けてくれた女性に似ている気がする。
「稜子さんって俺と会ったことあります?」
「ないよ。私の姉はあるけどね」
ああ、なるほど。
「蒼い髪をしているのがお姉さんですか」
「――――ふぅん。少しは覚えているみたいだね。そうだよ」
「そうですか」
なるほど、これで一つ謎は解けたわけだ。
「それで、質問に戻るがね。これからどうするつもりだ?」
「――――わかりません。けど、俺は「水島銀次」を続けようと思います」
そこが俺の戻る場所だと思うから。
「そうかい。なら、退院したらこの住所を訪ねてきなさい。バイトでいいなら雇ってあげるから」
共犯者も必要でしょうしね。と言いながら、稜子さんは名刺を渡してくる。
その住所は、前に俺が住んでいたらしい町だった。
「わかりました。退院したら会いに行かせていただきます」
俺の返答に、満足したのか。踵を返して稜子さんは部屋を出て行こうとする。
その背中に。
「ありがとうございます」
と声を掛けた。
その言葉に、ピタッと稜子さんは止まって、やがてヒラヒラと手を振るだけで病室を出て行った。
それと入れ違うように、桜子が入ってくる。
「今の人、知り合い?」
「んん? ああ、そうだよ。知り合い」
名刺をポケットに隠して、俺はまた「水島銀次」の仮面を被る。
俺も、オレも、帰る所はきっとそこだと思うから。
「退院したらさ」
「うん?」
「お前ん家に世話になってもいい?」
「いいよ~。じゃあ、お祖父ちゃんに言っとくわ」
「よろしく」
すんなり、引っ越しの許可も取った事だし。
俺は友達を守って、死んでしまった水島銀次が生き返るまで、俺なりに彼を演じるとしようか。
表現殺人・了