1:発端
――――二〇一〇年。五月中旬。
翌日は俺、水島銀次にとって、とてもラッキーな日になった…はずだった。
五月になって、だんだんと暑くなってきた気候に合わせて制服が生地の薄い夏服への移行期間に入って少し経った日の放課後だった。
「水島君。ちょっと…良いかな?」
ホームルームが終わってすぐ、同じクラスでもトップの可愛さを持つ美少女、河原由愛が声を掛けてきたのだ。
河原由愛といえば、入学当初にして学校一の美女ではないかと噂され、昨年のミスコンで堂々と優勝を果たし、名実共に学園のアイドルになった人物である。
軽くパーマの掛かったセミロングの茶髪と少しあどけなさが残る「可愛い」と言えるほど整った顔立ちが特徴で、今まで数々の男から告白を受け、断り続けているという難攻不落の女でもある。
性格は、聞く限りでは誰にでも優しい性格で、口調は文法的に正しくない言葉はあまり使わない。別な意味での丁寧な言葉遣いであるらしく、文武両道、才色兼備とは彼女のためにある言葉である、と豪語する奴がいるほどである。まぁ、テストも成績も高位だし、部活は剣道部と弓道部を兼部しているというのに両方の大会で優勝するほどの腕前だとか。どこまで本当かは知らんけど。
「え…?」
そんな彼女が話しかけてくると同時、クラスの男の動きが全員遅くなり、心なしか耳が大きくなったように見えた。
まぁ、今の誘い方は「告白」の時の誘い方に似てるからな。男なら誰でも期待しますよ。
そう、俺以外はな。
俺は期待なぞしない。何故ならば、今まで「告白」などというステキイベントは告白をする相手に対して、少しでも好感度を有する人物が贈られる物であると、正しく理解しているからだ。そして、そう言った事を踏まえて考えると、俺はあてはまるわけがない。
何故か。それは、俺が今初めて、河原由愛と話したからである。
同じクラスで「おはよう」「さようなら」も交わさない程度の仲の人間に告白する奴がいるだろうか、いや、居たとしてもそれは天文学的な可能性に近いはずだ。
よく恋愛小説だったり、それに準ずるマンガだったりにある、一目惚れという現象は、それこそ運命的なめぐり合わせでもない限り起こり得ないモノなのだから。
そんな運命的な巡り合わせなど期待する方がおかしいだろう、と俺は自分でも長いな、と思う一秒の思考に決着をつけて、返答を返す。
「んーっと。なに? ここじゃできない話?」
「…うん。あまり知られたくない話だから」
大きくなったクラスメイト達の耳がその言葉にぴくぴくと反応する。
藤本に至っては、俺をまるで親の敵のような目で睨んでいる。アイツ、自分はモテるくせに他人を僻んでんのかよ。とんでもねぇな。
などと思いながら、俺はクラスでもっとも日の当たる窓辺の最後列という位置の効果故に、その場の誰もが気付けなかった現象に気付けてしまった。
一滴、一粒と言えるほどに小さなモノではあったが、確実に彼女の瞼から落ちた、涙に。
驚いて、河原さんに気付かれないように顔を覗く。
目元が腫れていた。それほどに泣いたのだろう。先ほどの涙はその時の名残のような物かもしれない。
そんな事を思い、席を立つと。河原さんの背中の向こう側に、仲のいい同級生の女子、桑原愛生が手を合わせているのが見えた。
それはサイン。意味は、「ごめん、後よろしく」
彼女とは授業のサボり仲間で。俺と同様、最低限の手入れしかしていない黒髪のロングヘアが特徴である以外はすべて平凡な容姿をしている愛生とは一年の初期に知り合った。それからは、教師に見つかった時のためにちょっとしたサインを決めていたのだが、こんな所で使う日が来るとは思わなかった。
というか、それは本来逃げる時のために使うモノだろう。いや、逃げたのか。
彼女の「話」というヤツに、どう対応していいかわからなくなったのかもしれない。
一瞬で俺の脳は事態を理解し、対応を取る。
「わかった。んじゃ、屋上行こうか」
河原さんにしか聞こえないくらいの小声で言って、愛生に指を上に向けたサインを出す。意味は当然、「屋上行くぞ」だ。
我が高校の屋上という場所は、やけに充実している。
床に敷かれた人工芝の地面。地面に固定されたテーブルと椅子。
そんな屋上は、この季節、誰にも聞かれたくない会話をするにはうってつけだった。何故ならば、風が良い感じに吹いてくれて声をかき消してくれるからだ。
「んで、話って…なに?」
屋上に用意されたベンチに三人そろって座って、しばらくしてから俺は思い切って尋ねてみる。
俺と愛生に挟まれる形で座った河原さんが不安そうな顔をこちらに向ける。どうやら話しても大丈夫なのかどうかを確かめているらしい。というか、顔綺麗だなー。
「困った事があるんでしょ? 誰にも言わないで済む用事なら誰にも言わないから言ってみ?」
できるだけ、いつも通りに、フレンドリーに接する。
「由愛。コイツの親父さん、刑事だから。なんかしら知ってるかもしんないじゃん」
と、親父の話が出た所で、河原さんが口を開き、
「…実は、水島君に相談があるんです」
震える声で、絞り出すような不安に塗れた感情を吐露した。
◆◆◆
ここからは少し回想というか、河原由愛の話を聞いて、俺がまとめ上げた話を語る事にする。
まず、彼女には下に二人、姉弟がいるらしい。
高校二年生の河原由愛と五つ離れた小学校六年生の妹、河原由枝。そして、その由枝と三つ離れた弟の河原由乃というらしい。
三人は仲が良く、かなり円満な家庭環境の中で育ち、学校のない日はいつも一緒にいたという。
だが、ちょうど五月に入る直前の、四月の末の事だったらしい。
そんな彼女の妹と弟が、朝起きたら失踪していた、という事件が起きたのは。
最初、警察は失踪という事ですぐに捜索活動を起こしてくれたらしいが、やはり大きな組織は一つの事件にいつまでも人員を割くわけにいかない。結果、二日間の捜索活動も空しく、彼女たちは家出という事で各所に張り紙がされるだけになった。
だが、しかし。それから四日、五日経とうとも彼女たちが見つかる事はなかった。
姉である河原さんも、両親も、前日に二人から悩んでいるなどの相談は受けておらず、いつも通りの生活をし、いつも通りにベッドに入ったのだそうだ。
そして、次の日には消えていた。
忽然と、まるでトイレに起きる感覚でベッドから起きて、抜け出したかのように、一切不審な点がない失踪事件。
そんな事件に、警察は家出と決めつけ、本格的な捜査には移ってくれない。
そして、彼女の妹と弟が消えてから、既に二週間が経過しているらしかった。
◆◆◆
「もう、手遅れかなって…思うんですけど、それでも…諦めきれなくて…うぅっ」
最後はもう、嗚咽の混ざった言葉だった。
消えて二週間も経つ少年少女。
「あの子たちの、遺体でも良いんです。探し出してくれませんか?」
必死に泣きそうなのを堪えて、彼女はそう訊いてくる。
そんな彼女を見て、目を合わせると。痛いほど彼女の気持ちが伝わってくる。
「わかった。その代わり、生死は保証できないよ」
言葉に出すと、彼女はやっと泣き崩れ、愛生の胸の中に顔を埋めた。
こんなん、本当は警察の役目なのになぁ。
などと心の中でボヤきながら、呟く。
「不審な点がなさすぎる失踪事件…ね」
その単語に、少しだけ心当たりがあった。