【おまけ】久我晃平の回顧録 後編
* * *
その日の授業が終わり、俺はいつものように部室に向かっていた。校舎から部室棟へ向かう途中の中庭。そこに知った顔を見つけて足を止める。
(小柴?)
一番端のベンチに近づいてみれば、そこに座っているのは確かに小柴だった。だが彼女が俺に気付く様子は無い。以前のように考え事にふけっているのではなく、転寝していた。その証拠に頭がぐらぐらと安定感無く揺れている。
俺は空いている隣に座り、小柴の頭をそっと自分の肩にもたれさせる。すると首の位置が安定した為か、小柴はスースーと気持ち良さそうな寝息を立てた。肩から伝わる彼女の体温、ほのかに香る爽やかな花の香り、無防備な寝顔。おまけにこの時間は人気が無く、俺は思わぬ収穫に頬を緩める。
疲れているのか、全く起きる様子の無い小柴の頭をそっと撫でた。さらさらと揺れる黒髪は滑らかで触れているだけで気持ちが良い。しばらくそうしていると小柴の表情が緩んだ。寝ているのでなければ彼女が俺の前でこんな顔をすることなど無いだろう。存分にその表情を眺めた後、遠くからこちらに歩いてくる人の声が聞こえて撫でていた手を離した。
すると小柴の口から小さな声が漏れる。
「や……もっと」
…………。お前今なんて言った?
動揺しながら彼女を見れば、ぎゅっと俺の服を掴んでくる。
(ヤバイ。可愛い)
現実ではありえない小柴の甘え方。顔が熱くなるのが自分でも分かる。しかし人の声はどんどんこちらに近づいてくる。付き合ってもいないのに、バカップルのような振る舞いを人前でなんて出来る筈が無い。いつまで経っても俺が頭を撫でないからか、小柴の表情が翳った。それに罪悪感を感じる俺は相当イカレてると思う。
その時、小柴が俺に身を摺り寄せ、更に服を掴む手に力を篭めた。まるで逃がさないと言っているかのように。
(それはこっちの台詞だ。馬鹿。
急激に湧き上がる愛しいという感情。気付けば俺の口からは笑みが零れている。だが残念なことにタイムリミットが来てしまった。もうそろそろ小柴を起さないとまずい。
「小柴」
肩に手を回して揺すってやる。肩を抱いているような格好になるが、まぁこれくらい良いだろう。すると僅かに身じろぎした後、小柴の瞼が緩慢な動きで開いた。
「小柴、起きたか?」
「どわっ!!」
意地悪く耳元で囁いてやれば小柴が馬鹿でかい声を上げて俺から離れる。真っ赤な顔をしてこちらを見上げるその表情に俺は内心ほくそえんだ。振り回されるだけなんて俺の性に合わない。たまにはこれくらいの反撃許されるだろう。
きょろきょろと辺りを見渡す小柴。状況を把握しようとしているようだ。すると何故か小柴は残念そうに呟いた。
「……やっぱ夢か」
「は?」
俺の耳に届いていた事に驚いたのか、慌てた様子で小柴が弁解を始める。お前一体何の夢を見てたんだ。まさか大野部長の夢じゃないだろうな。
「あ、いやいや。気にしないで。っていうか、いつからここにいたの?」
「30分くらい前」
「何? もしかして私ずっと寝てた?」
「あぁ」
「起してよ!」
「だから起しただろ。バイトはいいのか?」
「へ?」
小柴は間抜け面で腕時計を見る。時間はもういつも小柴が大学を出る時間を越えていた。
「わ!! もう行かなきゃ!! じゃあね!」
「おう」
小柴は慌しく荷物を掴み、校門に向かって走っていく。だが、急いでいる筈なのに何故か途中で立ち止まった。
「久我――!!」
ベンチから立ち上がった俺に小柴は満面の笑みを向ける。
「起してくれてありがと――!!」
その時の俺はどんな顔をしていたのだろう。大きく手を振って再び走り出す小柴。時間が無いくせにわざわざ礼を言う為に立ち止まったお前のことを益々愛しいと思ってしまったなんて、きっとお前は想像すら出来ないだろう。
やっぱりお前が好きだよ、小柴。俺に諦めるという選択肢を与えなかったお前が悪いんだからな。覚悟しておけ。
* * *
翌日。俺は間抜けな小柴の顔を見ていた。部室のドアを開けたまま固まっているのだ。まぁ、この状況は仕方ないのかもしれない。俺の目の前に立っている後輩の川田が泣いているのだから。俺が川田をフッた事など説明しなくても分かるのだろう。
このまま何も知らなかった事にして立ち去りたいと思っている小柴の考えなどお見通しで、逃げる事など許さないと俺は小柴に視線を投げかける。するとそれに気付いた彼女は諦めた様子で中に入ってきた。
だが、引き止めておいて後悔もする。もし小柴がこのまま川田の味方をしたら俺としては大打撃だ。
小柴は川田と気まずそうに挨拶を交わし、そのまま川田は何も言わず出て行った。それをしょげた様子で見送る小柴。パタンッとドアの閉まる音が聞こえると、立ったままの俺の顔を見た。
「……ごめん」
「なんで謝るんだ」
「なんか、タイミング悪かったみたいだから」
「別に、お前のせいじゃないだろ」
川田とは遅かれ早かれこうなっていた。そのせいでお前がヘコむのはおかしい。やっぱり川田を応援していたのか、と思うとムカついた。
すると微妙な空気だった部室の中に柔らかい声が入ってきた。
「こんにちは~」
「あれ、部長。珍しいですね」
顔を出したのは大野部長。それに応えたのは先程とは打って変わって明るい声を出した小柴。何だお前、俺に喧嘩売ってんのか。そんなに部長が良いのかよ。まぁ、言葉にすれば間違いなく『良い』と答えるんだろう。それが分かっているから余計に腹が立つ。
だが、良く見てみればそこの居るのは部長だけではなかった。その後ろに俺も何度か校内で見かけたことがある部長の彼女が立っていたのだ。
「うん。昨日ここに忘れ物しちゃって。青いファイル見なかった?」
「あ、もしかしてあれですか?」
「あぁ! あったあった」
忘れ物を小柴が指差した棚に取りに行く部長。それを待っている部長の彼女に小柴は笑って会釈している。片想いしている相手の恋人に微笑みかけることが出来るなんて、小柴は随分と心が広い。俺だったら到底無理だ。
「それじゃ、2人ともまた来週のサークルでね」
「はーい。お疲れ様でーす」
にこにこと部長達を見送る小柴。なんだかやけに嬉しそうだな。普通ヘコむ所だろう。気を使っているわけでもなさそうなその様子に違和感を覚える。
ドアが閉まり2人の姿が見えなくなると、俺は小柴を見下ろした。
「……なんで笑ってんだ?」
「え?」
「今部長だったろ?」
「うん。部長だったね」
うん、じゃないだろ。だからなんでそんなに普通なんだよ、お前は。
「うん、て……」
「え? 何?」
「お前、何考えてんだ?」
「へ? 何よ、さっきから?」
すっとぼけた反応を返してくる小柴。やっぱり俺はこいつが何を考えているかさっぱりだ。もう直球でいくしかないだろう。
「部長が好きなんじゃないのかよ」
「好きだよ」
「なら!」
「好きな人が幸せそうだったら嬉しいでしょ?」
当たり前でしょ、と小柴は言う。
いやいや、ちょっと待て。そうすると、お前はそう言う意味で部長を好きなんじゃなかったわけか? 部長の一番になりたい訳じゃなくて、憧れだとか尊敬だとかそんな意味でしかなかったのか? 散々俺を振り回しておいて、何だそれは。
安心と腹立たしいのが入り混じり、なんだか良く分からなくなって俺は溜息をついた。すると何故か小柴はむっとして口を尖らせる。
俺はその表情がやけにムカついて、気付けば本心を漏らしていた。
「紛らわしいんだよ……」
「ちょっと何よ、さっきから。やけに機嫌悪いわね」
あぁ、機嫌なら悪いさ。お前の言動に一喜一憂していたのが馬鹿みたいだ。
俺は無言で小柴の腕を引き、自分の胸元に引き寄せた。彼女は簡単に俺の腕の中に納まる。そうか。こんなに簡単な事だったのか。
「久我?」
戸惑いの表情で俺を見上げるその目も、ふっくらとした唇も、俺を呼ぶその声も何もかが愛しい。
「もう遠慮しないからな」
「は? 何言って……」
言い終える前に小柴の口を塞いだ。びくっと小動物のように震える体。数瞬してやっと腕を突っ張り俺の胸を押し返そうとするが、俺は彼女の後頭部を手のひらで押さえ、逃げる事は許さない。
初めて触れた彼女の唇の柔らかさが俺を夢中にさせる。当然一度や二度で終わる筈がない。呼吸の合間に離れてもすぐに唇を追いかける。これは俺のだ。全部俺のだ。
存分に堪能した所で俺はわざとリップ音を立てて顔を離した。すると呆けていた小柴の顔が見る見る赤く染まっていく。
「…………な、なななな」
俺を男だと認識したその表情に、俺はようやく満足した。無意識に口元に笑みが浮かぶ。
「また明日」
そうだ。明日まできっとお前の頭の中は俺の事で一杯だろう。今度は俺がお前を振り回す番だ。お前はずっとずっと俺の事だけ考えていればいい。
俺は振り返らずに部室を出た。驚くほど心は軽く、明日が来るのが待ち遠しい。これからどうやって小柴を攻め落としてやろうか。それは心躍る悩みだった。
すると廊下に出て部室から離れていく俺の背中を追うように小柴の叫びが部室棟に響く。
「絶対無い!!!」
ピクッとこめかみが引きつる。
ホントお前はいい度胸してるよ。けど、俺は絶対お前を逃がさないからな。
END




