3.私の糸
その日最後の授業が終わり、校舎から生徒達が一斉に外へ出ていく。そのまま家に帰る友人達と別れた私はのんびり部室へと向かっていた。
自分の前を行き来する大学生達。人が多ければ多い程、当然見える糸の数も多い。太さや長さ、色の違う様々な糸が人と人を繋いでいる。
私は糸を見ることが出来ても触れることは出来ない。例えば大好きな大野部長の彼女に嫉妬してそれを切り離したり、逆に誰かと誰かの糸を無理やり固結びしたりするような、糸に干渉することは出来ないのだ。そのお陰で目の前を赤い糸が横切っていたとしても歩く邪魔にはならず、触れても体をすり抜けるだけ。
ふと自分の左手を見て思う。大学生ともなれば皆それなりに恋人がいたり、片想いをしていたりと左手の赤い糸が存在している。けれど私の左の小指からはそれがない。当然自分の糸は見えないのだから当たり前なんだけど、多分見ることが出来ても意味が無いだろう。私は本気の恋をしていないのだから。
いつか私にも運命の相手とやらが現れるのだろうか。本当にそんな相手はいるのだろうか。皆の糸を眺めているといつも頭に浮かぶこの疑問。けれどその答えを導き出せる筈も無く、大抵ヘコんで終わるのだ。
そんなことを考えている内になんだか部室に行く気がなくなった。行けば久我と美紀ちゃんの糸を見ることになる。今日は2人を応援する元気も無かった。
お昼の時間にいつも人で溢れている中庭も放課後はほんとんど人気が無い。私は端のベンチに腰を下ろし、息を吐いた。再び自分の左手を眺める。
(私に恋愛なんて無理なんじゃないのかな……)
糸が見えてしまうせいで、恋愛は全て他人事に思えてならならなかった。それでもこうしてヘコんでいるということは、それなりに恋愛願望はあるのだ。だってそうだろう。繋がった糸を持つ男女を見て、いいなぁと心の内で呟いてしまうのだから。どうやったら心と心が繋がるような、そんな相手を見つけられるのかな。
いつか来るであろう未来。見えない私の赤い糸。その先は一体誰に繋がっているんだろう。
(うーん。気持ちいい~)
頭を撫でられるのは好きだ。だからと言っていい歳こいた自分が親から頭を撫でてもらえる筈もなく、けれど心地の良い温度を感じてうつらうつらしていた目を開ける。すると視界に入ったのは大きな手。……いや、大き過ぎる。何これ。
自分の顔をすっぽり掴んでしまえるほどの大きな手が今度は私の背中を撫でた。慌てて振り向けばそこにあったのは真っ黒な毛並みを持った背中。そしてその先についている長い尻尾。
(尻尾??)
そう心の中で呟くと同時にそのしっぽが左右にユラユラ揺れる。ご機嫌と言わんばかりのその動きに唖然とした。そう、そのしっぽの持ち主は他でもない私だったのだ。慌てて自分の手元を見ればそこにも黒い毛並みで覆われた小さな手が2つ。裏返して見えるのは灰色の肉球。
(……なんだこれ?)
猫だ。迷うことなく猫だ。何故か黒猫になっている私は、デニムを穿いた男の人の膝の上でだらんと横になっている。自分を撫でる手が大きすぎると感じたのは、私が猫になっているせいだったのだ。なぁ~んだ、そっか! などと暢気の事を考えている暇などないのだが、私はこの不可思議な現象の正体をすぐに見破った。
(夢でも見ているんだわ。だから猫なのね)
そうと分かれば遠慮する事はない。手の主よ! 思う存分私を撫でるがいい!!
その気持ちが伝わったのか、遠慮がちに撫でていた手にほんの少し力が篭る。あ、良い良い、その力加減。背中も良いけど、やっぱり頭も撫でて欲しいな。あ、そう、そこ。
しばらくそうして撫でられていると、ふっとその手が離れた。
(やだ、もっと……)
そう思って顔を上げれば、その手の小指から赤い糸が延びているのが見える。決して短くは無いその糸。きっとこれはもう誰かと繋がっている糸なのだ。
(あぁ。この人も私のじゃないんだわ)
それが分かって寂しくなった。自分を撫でてくれたこの手は自分だけのものではないのだ。猫になってもこんな寂しさを感じるなんて、現実って厳しい。いや、これは夢だから現実じゃないか。
仕方なくその膝から降りようと立ち上がる。けれどそれを手の主によって阻まれた。その手は自分から離れようとした黒猫、もとい私を抱き上げたのだ。
(わわっ。ちょっと待って!!)
急に不安定な体制になって、慌てて目の前の服にしがみつく。すると手の主がふっと笑ったのが分かった。その表情が気になって私は顔を上げる。その視線の先には――
「小柴、起きたか?」
「どわっ!!」
耳元で囁かれた声に驚き、慌てて目を開く。すると私の隣にはいつの間にか久我が座っていた。周囲を見渡せばそこは夕暮れに染まる中庭。私がいるのは端に置いてあるベンチ。そして何故か隣に座っている久我。
「……やっぱ夢か」
「は?」
猫になって撫でくり回されていたなんて言える筈も無く、私は慌てて話を逸らす。
「あ、いやいや。気にしないで。っていうか、いつからここにいたの?」
「30分くらい前」
「何? もしかして私ずっと寝てた?」
「あぁ」
「起してよ!」
「だから起しただろ。バイトはいいのか?」
「へ?」
反射的に腕時計を見る。針が指し示しているのは16時時38分。17時から始まるバイト先は大学から歩いて15分。着替える時間も入れるとかなりギリギリだ。
「わ!! もう行かなきゃ!! じゃあね!」
「おう」
慌ててベンチに置きっぱなしだったバッグを掴み、校門に向かって走る。その途中で忘れ物に気付き、私は足を止めた。振り返れば久我がベンチから立ち上がった所。彼のバイトが始まるにはまだ時間があるから、これから部室へ向かうのだろう。
「久我――!!」
離れた所から私が叫べば、久我が顔を上げる。
「起してくれてありがと――!!」
いくら慌てていたとはいえ、お礼くらいはちゃんと言いますよ。軽く手を上げてそれに応えた久我に一度手を振ると、私は再び走り出す。その後ろで困ったように笑った久我の表情は残念ながら見ることが出来なかった。
* * *
翌日の放課後。部室のドアを開けたポーズのまま、私は冷や汗をかいていた。空気を読むのが特技の私が最悪の場面に居合わせてしまったのだ。ヤバイ。これはヤバイ。さり気なく踵を返そうにもばっちり当事者、私よりも先に部室に来ていた久我と美紀ちゃんにドアを開けたところを見られている。見て見ぬフリはやっぱりダメかしら? あ、ダメですか。そうですか。
二人の刺さるような視線を感じながら、仕方なく私は中に入ってドアを閉めた。
「こんにちは~……」
「…………」
「……こんにちは」
無言で目を逸らす久我。そして弱々しく返事をしてくれた美紀ちゃん。その目には涙が浮かんでいる。私は咄嗟に彼女の左手の小指を見た。先日までは鮮やかな赤色をしていた彼女の片想いの糸が今はだらんと垂れ下がり、細くなって色もくすんでいる。
(あぁ、やっぱりそう言う事か)
何も言えずに居るしかない私の横を通って美紀ちゃんは部室を出て行ってしまった。
久我と2人きりになった部室の中。いつもと同じように席に付く事が出来なくて、私は間抜けにも入口近くに突っ立ったままだ。居た堪れなくなって、重い空気を放っている久我に声をかけた。
「……ごめん」
「なんで謝るんだ」
「なんか、タイミング悪かったみたいだから」
「別に。お前のせいじゃないだろ」
そうは言ってもこちとら空気が読めるもんで、無神経にへらへら笑うことも出来ないっつーの。
私は久我に聞くことはしないが、多分、いや絶対美紀ちゃんは久我に告白したのだ。そして久我は、それを断った。その証拠に美紀ちゃんの糸は細く元気が無くなり、想い人が彼女ではなかった久我の糸は逆に昨日よりも太くなっている。彼の中で悩みの原因の一つがなくなったからだろう。それは多分美紀ちゃんの事だったのだ。彼女のアプローチは分かりやすかったから、久我も薄々は彼女の想いに気が付いていたに違いない。
すると私達の重い空気を破るように穏やかな声が入ってきた。
「こんにちは~」
「あれ、部長。珍しいですね」
現れたのはいつも水曜日に顔を見せない大野部長。するとその後ろにもう一人、女の人の姿が見える。写真部員ではないその人物は落ち着いたピンクブラウンのストレートの髪に、ドット柄のワンピースを着た部長の彼女だった。二人は私と同じ心理学科の先輩でもあるので、同じ校舎で見かけることが多い。互いにほんわかした雰囲気が良く似ていて、私の憧れでもある。
「うん。昨日ここに忘れ物しちゃって。青いファイル見なかった?」
「あ、もしかしてあれですか?」
機材がしまってある棚にぽつんと置かれている鮮やかな青いファイルを指差すと、部長は「あったあった」と言ってそれを手に取った。ドアの所で部長を待っていた彼女さんと目が会い、会釈すると彼女もにっこりと笑って頭を下げてくれる。
うわ~~。癒されるぅ。さっきまでの重苦しい空気が嘘のようだ。美紀ちゃんのような可愛らしさとはまた違う、大人の余裕を持ったお姉さん的な、その胸に飛び込んで甘えたくなるような感じ。部長が戻ってきて2人が並ぶと更にその雰囲気が増す。いいよねぇ。私はあの2人の子供に生まれたかったよ、ホント。
「それじゃ、二人ともまた来週のサークルでね」
「はーい。お疲れ様でーす」
ひろひらと手を振って2人の先輩カップルを見送る。パタンと扉が閉まると、後ろから訝しげな声がした。
「……なんで笑ってんだ?」
「え?」
「今部長だったろ?」
「うん。部長だったね」
何を言っているんだろう。どっからどう見ても部長だったじゃないか。私の知っている限り久我は眼鏡もかけないし、コンタクトでも無かった筈だ。まさかこの歳で急に老眼になったわけでもあるまい。
首を傾げる私に向かって久我は変な顔をする。
「うん、て……」
「え? 何?」
「お前、何考えてんだ?」
「へ? 何よ、さっきから?」
何を考えているのか分からないのはこっちの方だ。するとガタッと音をさせて彼は寄りかかっていた机から離れた。こっちに近づいてくるけど、なんだか顔が怖いぞ久我!!
「部長が好きなんじゃないのかよ」
はい? それって今更確認するようなこと? 今まで散々そうだと言ってきたじゃないか。
「好きだよ」
「なら!」
「好きな人が幸せそうだったら嬉しいでしょ?」
何を言っているんだ、とばかりに言い返す。そりゃあ、彼女に嫉妬するような本気の恋じゃないよ。でもさ、やっぱり部長のことも部長が好きな彼女さんのことも好きだもん。ずっとずっと幸せで居て欲しいじゃないか。
すると今度ははぁ、と深い溜息をつかれた。ちょっとちょっと、本人を前に溜息をつくなんて失礼な。むっとして口を尖らせる私に、久我は不機嫌そうにポツリと零す。
「紛らわしいんだよ……」
「ちょっと何よ、さっきから。やけに機嫌悪いわね」
突然、ぐいっと強く引かれた腕。そのせいであまりに近くなった久我との距離に私は固まってしまった。こうして見上げると久我の背の高さに改めて気付かされる。私も女子の中では背が高い方だが、それでも10センチくらいは違う。ずっと見ていたら首が痛くなりそうだ。
「久我?」
「もう遠慮しないからな」
「は? 何言って……」
言い終わる前に久我の顔が覆いかぶさってきた。彼の大きな手のひらがいつの間にか私の後頭部を抑えていて逃げる事も出来ない。気付けば温かく柔らかい感触が自分の唇に触れていた。
(あれ…これって……)
間近にある久我の顔。離れたと思ったら再び唇を覆う感触。一度や二度じゃない。何度も何度も触れては離れ、最後にちゅっとリップ音をさせて久我の顔が遠のいた。
「…………な、なななな」
その触れ合いがなんだったのか。散々好き放題やれられた後でやっと理解した私の顔がカーッと熱くなる。それを見た久我は満足そうにニヤリと笑った。
「また明日」
それだけ言って、奴は自分の荷物を持ちドアへ向かう。同時にカバンを持った左手が私の目に入った。久我の小指。鮮やかで迷いの無い太く赤い糸が真っ直ぐに伸びている。私に向かって。
思わず自分の左手を見た。私には見えない自分の指の糸の先。それはもしかしたらもしかして……
久我に繋がってるの、かも?
バタンッと部室のドアが閉まる。その音に我に返った私は真っ赤な顔のまま叫んだ。
「絶対無い!!!」
END
繋がる糸の先。最後までお付き合いいただきありがとうございます。
いつにないテンションで書いたお話でしたが、最後まで楽しく執筆できました。
久我はむっつりSです。いつもはソレを外に出さない彼ですが、好きな子の前でだけSっぷりが発揮されます。真奈は負けず嫌いなので、多分この二人は簡単にはくっつかない気がします。それでも真奈に本命がいないことを知った久我はSのワザ(?)を駆使して彼女を追い詰めるのでしょうね。おー、コワ。
二日くらいでバーッと書き上げた話なので、誤字脱字も多いかと思いますが、ちょこちょこ訂正入れていきます。読みづらかった方いらっしゃったら申し訳ございません。
赤い糸の先のお相手を見つけた方も、そうではない方もこの話を楽しんでもらえていたら嬉しいです。
拙いお話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
2011/10/15 橘