後編 あなたを殺して、私も死のうと思ってたのに
王宮警備の騎士が二人、静かに歩み出た。
アマーリエは真っ青な顔で、それでも周囲の視線に気づいて顎を上げ、引き攣った笑みを保ったまま、会場を後にした。
その背を見送りながら、ローゼリアはまだ、呆然としていた。
会場にどよめきが広がる中、手袋の中で握り締めていたガラス瓶の冷たさだけが、現実の感覚として残っている。
(……婚約、破棄した?)
(今……?)
(今夜?)
頭の中で何かが空回りしている。
六年間の計算が、すべて狂った。
今夜、エルハルトを殺すつもりだった。
今日が二人の命日だと思っていた。
でも彼は今、自分の意志で、婚約を破棄した。
つまり——
「ローゼリア」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
エルハルトが、目の前に立っていた。
夜会服の青がこんなに近くに見えるのは、いつぶりだろう。
整った顔立ちに、普段は見えない疲労の影がわずかに滲んでいる。
それでも彼の目は今、あの遠い場所を見ていなかった。
まっすぐに、ローゼリアを見ていた。
「少し、外に出よう」
彼の手が差し伸べられた。
ローゼリアは、反射的にその手を取っていた。
静かなテラスに出ると、夜会の喧騒が遠くなり、庭園の闇と星空だけが広がっている。
冷たい夜風が頬をなでるけれど、ローゼリアはまだ、少し呆然としていた。
エルハルトは手すりに軽く手をついて、夜の庭を眺め、背を向けたまま、しばらく何も言わず。
ローゼリアも黙っていた。二人の間に流れる沈黙は、しかし不思議と不快ではない。
子供の頃から、こうして黙って並んでいることが多かったから。
「驚いただろう」
「……はい。大変驚きました……」
エルハルトが口を開くと、ローゼリアは素直に答えた。
「ずっと、機会を待っていた。証拠を集めるのに時間がかかった。彼女はなかなか慎重でね。口でも手でも、自身に証拠が残らないように動く」
「……知っています」
「だろうな。あいつは、君のことを特に、念入りにやっていた」
エルハルトが振り返ると、ローゼリアは小さく目を伏せた。
そうだった。
アマーリエの嫌がらせの中で、ローゼリアへのものは特に執拗だった。
ドレスを汚される程度なら可愛いもので、縁談の妨害、友人関係への介入、流言飛語。
一度などは、馬車の車軸が細工されたこともあった。
御者が『音がおかしい』と馬を止め、車輪の下から出てきたのは、削られた軸と折れかけた楔だった。
あれは運良く気づいたから事なきを得たが、もし気づかなければ——
「君に向けられた害だけは……他のことは許せても、それだけは許せなかった」
ローゼリアは顔を上げると、エルハルトが、彼女を見ていた。
その目に宿っているものを、ローゼリアはうまく読めない。
いや、読めないのではない。
読んだ上で、今の状況を信じることができないだけだ。
「ローゼリア」
「……はい」
「君が好きだ」
夜風が吹いた。
遠くで音楽が再開された。
ローゼリアは三秒ほど、完全に思考が停止した。
「ずっと、言えなかった。婚約がある間は言うべきではないと思っていたし、言ったところで君を困らせるだけだとも思っていた。でも、今夜——」
「……どうして」
「ローゼリア?」
「どうして、今なんですか。私は……私は、あなたがあまりに辛そうだから。来世で幸せになれたらと……」
エルハルトが、固まった。
しまった、と思った。喉の奥がきゅっと縮む。
言葉が、引き返せないまま落ちていく。
「あなたを殺して、私も死のうと思ってたのに!」
沈黙が落ち、夜風だけが無遠慮に吹き続ける。
ローゼリアは、ガラス瓶を差し出した。
「ワインに入れようと思っていました。無苦痛の毒です。あなたが飲んだ後、私も飲む予定でした」
「そうか」
エルハルトは、ローゼリアの手からそっとガラス瓶を取り上げた。
そして手すりの向こう、暗い茂みの中へと静かに投げ捨てた。
「理由を聞いてもいいか」
「来世で幸せになれると思いました」
ローゼリアは真剣に答えた。
「この世では、あなたはずっとあの方に縛られていて、私はずっとあの方に邪魔されて。でも来世なら、身分も婚約もなくて、ただの男女として出会えるかもしれないと」
「……来世で幸せになりたいなら、今世を生き切ってからにしてほしい」
「でも——」
「それに、今世でも十分に幸せにできると思うが」
エルハルトは、ローゼリアの両手をとった。
冷たい夜気の中で、彼の手だけが温かかった。
指の節が少しごつごつしている。
剣の稽古で固まった、騎士の手だ。
ローゼリアはその感触を、ずっと昔から知っていた。
この手が、何よりも好きだったから。
「六年間、待たせた。ずっと側にいてくれた。嫌な思いをさせ続けた。それでも離れなかった。君がいたから、俺は正気でいられた」
「……それは、幼馴染として当然のことで——」
「当然じゃない」
きっぱりとした声だった。
「車軸を細工されたことが判明したとき、俺は初めて彼女への怒りより先に、恐怖を覚えた。君がいなくなるかもしれないという恐怖を」
エルハルトの声が少しだけ揺れた。
「これからは俺が君を幸せにする。今世で。この手で。来世まで待たせない」
ローゼリアは息をのんだ。
エルハルトの目が、まっすぐにローゼリアを捉えていた。
遠い場所を見ていたあの目が、今は完全にここにある。
ローゼリアは、何も言えなかった。
胸の底に蓋をして、感じないようにしてきた何かが、じわじわと溢れ出してくる。
泣くまいと思った。でもだめだった。
一粒だけ、涙が頬を伝うと、もう止められない。
「……あなたを殺そうとした女に、そんなことをおっしゃるんですか」
「そうだ。君に殺されるなら本望だが、心中は認められない。……これから俺は、一生をかけて君を幸せにするつもりなんだから」
エルハルトは言って、それから小さく笑った。
「それに、さすが俺の幼馴染だ。殺しに来るときも毒を選ぶとは、手を汚させないつもりか」
「当たり前です。あなたの手を汚させるつもりは——」
エルハルトの指が、ローゼリアの涙でぐちゃぐちゃになった頬をそっと拭う。
それだけで、ローゼリアは何も言えなくなってしまった。
翌朝、ローゼリアが自室に残してきた手紙を回収したのは、もちろん彼女自身だった。
封も開けずに暖炉に投じる。
炎がゆっくりと紙を食べて、灰になる。
ローゼリアはその炎をしばらく見つめてから、深く息を吐いた。
ガラス瓶は、昨夜のうちにエルハルトが処分してくれた。
あの後、テラスで二人で随分長く話して、夜会の終わりには侍従長が困り顔でエルハルトを呼びに来るほどだった。
婚約破棄の後処理で忙しいのに、と思いながらも、手を離しがたくて、ローゼリアもずっと傍にいてしまった。
来世で幸せになろうとしていた計画は、あっけなく白紙になった。
代わりに、今世で幸せになる約束をした。
それがまだ少し、夢のようで実感が薄い。
(でも)
ローゼリアは窓辺に立ち、朝の光の中に手を差し伸べた。
昨夜握っていた彼の手の温度が、まだ残っている気がした。
来世を夢見ていた間、今世の幸福をずっと見落としていた。
いや、見落としていたわけではない。
望んではいけないと思って、目を逸らしていた。
与えられるはずのないものとして、最初から諦めていた。
けれど昨夜、エルハルトは言った。
「俺が幸せにする」
それは宣言だった。王太子の重い宣言。
ローゼリアは少しだけ笑った。
もともとエルハルトは、約束を守る男だ。
子供の頃、転んで泣いているローゼリアに「泣くな、笑わせてやる」と言って、下手な物真似を続けて本当に笑わせてみせた。
真剣な顔でやるから余計におかしくて、泣いていたのを忘れるほど笑った。
あの頃と変わらない、不器用だが誠実な男。
その男が今、来世ではなく今世で幸せにすると言っている。
(……まあ)
ローゼリアは窓辺から離れ、身支度を整えながら一人ごちた。
(来世の計画は、百年後に改めて立てることにしましょう)
エルハルトが言ったように、今世を二人で寿命の限り、精いっぱい生き切ってから。
それでも飽き足らなければ、来世でもう一度出会えばいい。
扉を叩く音がした。
「ローゼリア様、殿下からお使いが」
「すぐ参ります」
ローゼリアは鏡の中の自分に向かって、もう一度だけ小さく笑った。
昨夜とは違う、軽い笑みだった。
毒の入ったガラス瓶はもうない。手紙は灰になった。
来世の計画は白紙になった。
代わりにあるのは、温かい手の記憶と、根拠のない確信だった。
ローゼリアは扉を開けて、昨日で終わるはずだった、今世の続きへと踏み出した。
王太子エルハルトとローゼリア・フォン・クラインハルトの婚約が発表されたのは、翌春のことだった。
貴族たちは色々と噂した。
昨夜の劇的な婚約破棄から半年も経たないうちに、と眉をひそめる者もあった。
しかしエルハルトは「六年待った」と涼しい顔で言い、ローゼリアは「私もそのくらい待ちました」と返して、それ以上何も言わなかった。
披露の夜会で、エルハルトはローゼリアにダンスを申し込みながら、小声で言った。
「来世の計画は、まだあるか?」
「白紙にしました。今世が忙しくなりそうですから」
「それでいい」
「でもひとつだけ」
「何だ」
「できるなら、来世でも、幼馴染から始めたいですね」
ローゼリアは少し笑った。
「次もあなたが転んで泣く私を笑わせてくれるなら、その方が」
「俺はあのとき笑わせたんじゃなく、君が俺の物真似を笑ったんだ」
「それが笑わせたということでは?」
エルハルトは一瞬黙り、それから仕方なさそうに笑った。
音楽が始まると、二人は踊り出した。
来世の話はまだあるが、今世の二人には、今夜も続きがある。
それで十分だった。
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