前編 来世で私が幸せにしてさしあげるのに
「……早く死ねばいいのに。そうしたら、来世で私が幸せにしてさしあげるのに」
ローゼリア・フォン・クラインハルトは、今夜、人を殺そうとしていた。
王都随一の豪奢な夜会場、白大理石の柱には金細工が絡み、天井から下がるシャンデリアの灯りが貴族たちの宝石を煌めかせる。
音楽は甘く流れ、香水と蜜蝋の混ざった空気が漂う中で、ローゼリアは一人、その意志を手袋の中で隠していた。
標的は決まっている。
王太子殿下エルハルト・フォン・ヴァルデンベルク。
彼女の幼馴染にして、この国でもっとも美しく、もっとも不運な男。
(あなたを今夜、殺します)
ローゼリアは心の中でそう呟き、長い夜会のスカートを少しだけ持ち上げながら、会場を見渡した。
目が合えばすぐにわかる位置にいるはずだ。
そう、彼女はこの夜会の隅々まで把握していた。
幼い頃から、ずっとそうしてきたのだから。
エルハルトの姿を探すより先に、彼の婚約者の声が耳に届いた。
「ちょっと、あなた。そんな端の方でこそこそしていないで、給仕でもしてきたらどうなの。その方があなたには似合うでしょう?」
金切り声とまではいかないが、よく通る、嘲りを乗せた声。
振り向かずともわかる。
アマーリエ・フォン・シュヴァルツベルク公爵令嬢。
ローゼリアは静かに扇を閉じ、ゆっくりと振り返った。
そこには案の定、薔薇色のドレスに身を包んだアマーリエが、侍女たちを引き連れて立っている。
栗色の巻き髪、整った顔立ち、完璧な微笑みの裏に刃を隠した女。
王太子の婚約者として六年間、この社交界に君臨し続けてきた生粋の悪役令嬢である。
「シュヴァルツベルク公爵令嬢。ご機嫌麗しく存じます」
「そうね。さっきまで麗しかったけど、今はもう違うわ。あなたがいる場所では空気まで薄汚れて感じるのだから」
侍女たちがくすくすと笑う。
ローゼリアはその笑い声を遠い雨音のように聞き流した。
もう慣れている。
六年間で、蔑んだ視線も嫌味も、衣装に「うっかり」ワインをこぼされることも、全部。
アマーリエは、エルハルトの周囲にいる者すべてを敵とみなしていた。
殊にローゼリアのように幼馴染として親密な間柄にある者は、なおさら。
それでもローゼリアが今まで耐えてきたのは、ひとえにエルハルトのためだった。
婚約者の横暴に黙って耐え続ける彼が、この苦しみから解放される日を、ずっと待っていた。
だが。
もう、待つのをやめることにした。
今夜、この手で彼を解放しようと思ったのだ。
死によって。
来世なら、きっとうまくいく。
この泥沼のような縛りも、身分の差も、積み上げられた因習も、何もかもない場所で、ただ二人でいられる。
そう思えば、少しだけ心が軽くなった。
「それでは、ごきげんよう」
ローゼリアは再び礼をして、その場を離れた。
アマーリエの背後に刺さる視線を感じながら、彼女は会場の奥へと歩いていく。
そして、見つけた。
エルハルトは、会場の中心にいた。
夜会服の濃紺に、肩に下がる金糸の飾緒。
伸びのいい背丈に、整った顔立ち。
まるで絵から抜け出たような姿で、しかし彼の目だけがいつも通り、どこか遠い場所を見ていた。
幸福でない人間の目。
その目をずっと傍で見続けてきた。
何度も目を背けたかった。
けれど、エルハルトが耐えているのに、自分が少しでも支えられたらと思ってしまった。
王命で結ばれた婚約。
彼は優しすぎるから、きっとこのまま結婚して、生涯苦しめられる人生を送ることになる。
訴えれば揉み消される。抗えば彼が傷つく。——だから私は、終わらせる手段をこれしか残せなかった。
(ごめんなさい、エルハルト。でも、もうこれしか手段が残されていないの)
ローゼリアは握る拳の中に小さなガラス瓶を隠し持っていた。
調合師から手に入れた、苦みのない、素早く効く毒。
ワイングラスに入れてしまえば気づかれない。
飲み干した後、自分も同じものを飲む。
苦しまずに眠るように逝けると聞いた。
『来世で待っています』
そう書いた手紙も、すでに自室の机に残してきた。
愛する人との死への旅路すら、恐れることはない。
深く息を吸い込み、一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
会場の空気が変わった。
音楽が途切れ、人々のざわめきが波のように広がる。
ローゼリアは足を止め、視線を向けた。
エルハルトが、アマーリエの前に立っていた。
側近たちがその背後に控え、いつもと違う、何か決意を帯びた空気が彼を包んでいる。
会場中の目がそこに集まっていた。
「アマーリエ・フォン・シュヴァルツベルク」
エルハルトの声は静かだった。
静かだが、よく通る。
まるで緊張した弦のように、張り詰めた静けさを持つ声。
「婚約の解消を申し渡す」
会場が静寂に包まれた。
誰も、何も言えなかった。
ローゼリアも、息を呑んだ。
アマーリエは一瞬固まり、次の瞬間、顔色を変えた。
「な、何をおっしゃっているのですか。理由もなくそのようなことを——」
「理由ならある。この六年間、貴様が周囲の者に行ってきた数々の非道についてだ。使用人への暴力、他家の令嬢への嫌がらせ、虚偽の噂の流布。証拠はすべて揃っている」
側近の一人が、分厚い書類の束を取り出した。
ローゼリアの目には、それが何年分もの記録の集積に見えた。
「これ以上は、一分たりとも看過できない」
「わ、私は何もしていません!すべて誤解で——」
「アマーリエ。聞こえなかったか?」
エルハルトの声がひと際静かになった。
たったそれだけの言葉が、剣のように空気を切った。
アマーリエが口を開きかけ、しかし言葉を失う。
「もう一度言う!!アマーリエ・フォン・シュヴァルツベルク!貴様との婚約はこの場で破棄する!!」
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