月下に踊る
「……ハッ――」
……それはまるで、月下の舞踏のようだった。
直撃すれば一撃で重傷は避けられない咬撃を、シャルはすり抜けるように回避している。
暗闇の中で間合いを見切り、黒衣を翻しながら最小限のステップで。
しかも回避と同時に、大狼の攻撃に対しナイフを沿わせることで、少しづつダメージを与えているようだ。
相手の膂力の方を利用することで、シャル自身は回避に集中しながら、しかし着実に手傷を負わせている。
美しい銀白の毛並みが、徐々に彼自身の血で赤く染まって行く。
「す、すごい……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
本当ならばもっと心配しなければいけない所なのだけど、シャルのその姿には、心配など全く必要ない余裕さすら感じさせた。
もしかするとシャルは、今までもこのようにして一人旅の道を切り拓いて来たのかもしれない。
ただ一人、己の強さのみで。
「ガルルル……」
痺れを切らしたのか、傷だらけの大狼は一度低く身を屈め……そして月光の夜空へと大きく跳ねた。
そしてそのまま、シャルに覆いかぶさるように飛び掛かる。
小手先の回避など意味を為さない、圧倒的な範囲による攻撃。
「――待っていたよ」
しかしそれを前にして。
シャルは何やら不敵に呟くと……大狼と同様に一度大きく身を屈めた。
――そして。
「フッ……!」
片足を鋭く垂直に蹴り上げ、飛び掛かる大狼の下顎に直撃させる。
月を背景に交錯する、二つの影。
テコの原理によって、その一つである巨影が、空中でぐるりと一回転する。
そしてそのまま、大狼は後頭部から地面に叩きつけられた。
「――!」
轟音と共に、悲鳴にも思える大狼の鳴き声が響く。
それもそのはずだ。
あれほどの大きな体、頭から地面に叩きつけられたらただでは済まない。
その巨大さ故に避けられない自らの質量によって、大狼は地に伏したのだ。
ショックによって身動きが取れない大狼に近付き、シャルは背中の大鎌に手を掛ける。
「――『ベル』!」
――リリ――ン……。
それが、大鎌の名前であるということは直ぐに分かった。
引き抜くと同時、大気に擦れた刃が奏でた音が、鈴の音色のそれによく似ていたから。
切っ先の欠けた大鎌、ベル。
それを手にした少女は、正しく死神と呼ぶに相応しい姿だった。
仰向けに倒れる大狼の下顎を踵で抑えつけ、少女はベルを振り上げる。
「――っ……!」
そして――一閃。
再び鈴の音が鳴り響き……鮮血と共に、ゴトリと大狼の首が墜ちる。
「お、終わった……?」
隣のアダムスを振り向く。
彼はまだ、信じられないといった形相でその光景を見つめていた……。
――そしてボクは、彼のその姿の奥……茂みの中に光る、幾つもの瞳を見た。
――子供?
茂みの奥に薄っすら見えたのは、子狼たちだった。
ごく普通の、小さな子犬のような狼の子供たち。恐らくは先ほどの大狼の子なのだろう。
彼らも先の光景を見ていたのだろうか。茂みの中で、怯えるように震えている。
その姿は、少し罪悪感のようなものを感じさせるようなものだった。
もしかすると、あの大狼は……子狼たちを獣避けのお香から守るために、その発生源を潰しに来ただけだったのかもしれない……。
――いや、でも……ちょっと待って?
「……? どうしたんだい、ポット君……」
ボクの視線に気付いたアダムスが、同様に茂みを見る……。
――あぁ、そっか。子供がいるってことは。
「――ッ!」
――『つがい』がいるってことだ。
ボクの気付きと、アダムスの行動はほとんど同じタイミングだった。
小さく声を漏らしたアダムスが、手に持ったマチェットナイフを捨ててボクの体に覆いかぶさる。
そして茂みの奥から飛び掛かって来たもう一体の大狼、その獰猛な顎の中に……両足が吞み込まれる。
「――がっ、ああああ!!」
「アダムスさん!!」
悲鳴、鮮血、衝撃。
アダムスは苦痛に表情を歪ませたまま、その肉体を浮き上がらせた。
銀の大狼はアダムスの足に喰らい付いたまま、ブンブンと無造作に首を振る。
「ぐっ、やめ、があっ!?」
目の前で、何度も地面に叩きつけられるアダムス。
それと同時に血しぶきが辺りに散らばる。
――アダムス、さん……?
アダムスの血と大狼の唾液が混じる、温かくぬめった液体が頬を滑る。
ボクは眼前で起きる異常に対し、何も出来なかった。
ただその光景を眺めていた。
やがてアダムスは、肉体をシェイクされ続けるその勢いのまま……。
――引き千切れて、木の幹に叩きつけられた。
「ルルルル……」
大狼は尚も止まらず、追撃をかけようとアダムスに近付いていく。
「――うぅ……」
――まだ、生きてる……!
アダムスは呻き声を上げながら、半身だけで身をよじらせていた。
しかし当然、両足を失った状態で逃げられるはずもなく。
欠けた足の先端からドクドクと血が流れだし、草むらをただ赤く染めていく。
「ポット! アダムス!! ……くそっ!!」
こちらの様子に気付いたシャルが駆け出すが、遠すぎる。間に合わない。
目まぐるしく流れていく状況で、沸騰したボクの頭は一つの結論を導き出す。
――ボクが、助けないと……!!
目覚めてからずっと、助けられてばかりで。
今だって、彼に庇われてしまった。
こんなことばかりじゃダメだ。
動け。
動けよ、ボク。
して貰ってばかりじゃなくて、ボクだって誰かを助けたいんだ。
今しかないんだ。
今動けないと、アダムスさんは食べられてしまう。
助けられるのは、ボクしかいない。
「――ボクにだって、出来るはずだ……!」
ガクガクと震える両脚を抑え付けて、ボクは立ち上がる。
そしてそのまま駆け出して、煙を発する箱……獣避けのお香を、その震える手に取った。
「これでも、喰らえ――!」
そして中身ごと、今まさにアダムスに迫らんとしていた大狼に投げつける。
いくら効果が半減しているとはいえ……至近距離なら相当に効力は上がるだろう。
これで逃げ出してくれれば……。
「グルル――!」
大狼は足元に落ちたお香から溢れ出した煙に反応して、すぐさまその場を飛び退く。
――良かった、とりあえずアダムスさんは……。
そう思ったのも束の間。
「――」
その黄金の瞳が、真っすぐにボクを射抜いているのを見て……。
――逃げられない。
そう理解してしまった。
瞬間に、影が迫る。
「――ポット!!」
つんざくようなシャルの叫びと共に、ボクの視界が慌ただしく揺れた。
――何、が……。
起きたのか、理解より先に襲い掛かる痛み。
「あ、がはっ!!」
悲鳴の代わりに、口から赤い液体が零れ出る。
目を見開くと、そこにあるのもまた黄金の瞳。
満月のようなその鋭い瞳孔が、触れ合うような距離でボクのそれと重なる。
ゆっくり視界を下に向けると、そこでは大狼の牙がボクの肉に突き刺さり、夥しいほどの血潮を溢れ出させていた。
……そしてその場所は、間違いようもなく、ボクの心臓に当たる所で。
先の一瞬で、胴体に喰らい付かれ、心臓を貫かれたのだと……そこでようやく状況を把握した。
そしてそんな把握など、もはや何の意味もないのだということも、同時に理解する。
――ボクは、知ってるな、この感覚を。
徐々に体が凍てつき、冷え切っていくような感覚と同時に、ボクはそんなことを思う。
痛みという危険信号は、人を生かすためのものだ。
生きられないほどの傷を伴った時点で、許容を越えた痛みはもはや痛みとしてすら認知されなくなる。
苦痛が苦痛でしかなくなることがないように。
今ボクが感じているのは、多分それだ。
心臓に穴が開いてしまって、命がそこから溢れ出して。
もう終わることが確定してしまっているから……痛みを、痛みとしてすら受け容れられない。
ただ冷えて、迫る終わりに身を委ねる感覚。
これと同じ感覚を、以前ボクは味わったことがある。
それを今……思い出した。
「――ット! ――ソ、ダメ――……! ――ムス――!」
何やら大きな音がして、ボクの体が転がったような気がした。
耳元で誰かが何かを言っていたようだけど、よく聞こえない。
――眠たいな。
意識がもう、保てない。
視界が真っ赤に染まり、やがてその赤も冷たい黒に塗り潰されていく。
――そして。
ボクは、二度目の死を経験した。




