セツ
日が沈み、屋敷が静まるのを待った私は、メモに書かれた内容に従って屋根裏の道を伝い始めた。
向かう先は、今まで誰しもが立ち入ることを禁じられていた……『大祖母の間』。
……ならば当然、標的は大祖母様だ。
――大祖母様を殺す? 私が?
この拝宇の家を、長きに渡って支え続けて来た柱ともいうべき存在。
それが大祖母様だと……私はそう伝え聞いている。
誰にも姿を見せることはないが、確かにこの家に『居る』その存在。
曰くあの叔父も、全てその大祖母様の命で動いていたらしい。
何故、長を殺すのか。誰がそれを望んだのか。
……そんなことは、どうだっていい。
とにかく今、重要なことは。
――少なくとも、これで私の復讐は果たされる、ということだ。
私を苦しめ続けてきた、この家の原点。
邪悪の権化。汚濁の化身。
それを殺すことが出来るならば、間違いようもなく私の気は晴れるだろう。
「ふ、ふふ……」
薄暗い闇の中で、ひそりと笑みを浮かべる。
今の私は、闇より深い黒だった。
「……ここだ」
薄明りを漏らす天板を剥ぎ、私は音もなく部屋に侵入する。
「……?」
少々の疑問を覚えながら、周辺の情報を収集する。
そこは何の変哲もない一室だった。
いや、何の変哲もないというより……文字通り、『何もない』部屋。
高価な壺も、豪勢な芸術品も、何一つ置かれていない。
特筆すべき点の一切ない、無の空間……私の部屋と同じだ。
かつて栄華を極めた拝宇、その長たる大祖母の部屋にしては……質素に過ぎる部屋ではあったが。
逆にその不気味さが、謎に満ちた大祖母という存在への確信に繋がる。
――そして。
「――」
そんな座敷の中央に敷かれた敷布団、その上に座る人の背中。
本でも読んでいるのだろうか。
手元に蝋燭の灯を置いて、上半身を起こしている。
――彼女が、大祖母様。
背中からゆっくりと大鎌を引き抜き、その背後に忍び寄る。
蝋燭で影になって、輪郭しか掴めないが……その姿はやけに小さかった。
まるで……そう、子供のように。
――っ。
ズキリと、脳を刺し貫かれるような感覚。
何かがおかしい、と。
頭の中で警鐘が鳴り響いている。
――うる、さい……。
立ち昇る不安を無理やりに抑え付け、私は鎌を構えたまま歩みを進める。
一歩、二歩……三歩。
……射程に、入った。
「――」
高鳴る心臓。
明滅する視界。
今にも倒れてしまいそうな息苦しさを封じ込めて、私は大鎌を掴む両手に力を込める。
――これで、全部終わり……!
そしてその小さなうなじに向けて、一息に――
「――よく来てくれましたね、シャル」
――突風のように吹き抜けた、その声。
可憐で、華麗で、端麗。
ズキズキと痛む頭の靄が、一瞬にして取り払われていく。
……この、声、は。
「………………セツ?」
違う、そんなはずはない。彼女がここに……居るはずがない。
そうやって理性が否定する一方で、記憶の奥底に封じ込めた姿が……どうしようもなく、目前の影に、ピタリと重なる。
……影が、こちらを振り向く。
「えぇ、わたくしです……お久しぶりですね」
真っ白な長い髪と肌。
花柄の着物に、美しい銀の瞳。
歳の頃は十歳ほどの、まるで雪のように儚げな雰囲気の少女。
――拝宇、セツ。
屋敷の……『幽霊』。
そしてその、正体は……。
「君、は……君が、大祖母、なの……?」
「大正解、です」
寂し気に笑って、セツは両手の指で正解を示す輪を作った。
「あなたがここに来たということは、彼は上手くやれたのですね……本当に良かった」
「な、なんで……どうして!?」
とても信じ難い事実に、私は大鎌を手放し、彼女の肩を掴んで揺さぶる。
小さい……本当に小さい、その体。
成長した今の私には、その姿はあまりに矮小に過ぎた。
加減を間違えれば、たちまち砕けてしまいそうなほどに。
「……どうして? それはあなたが一番、よ~く分かっているはず……そうでしょう?」
セツの華奢な手のひらが、私の胸にそっと触れる。
瞬間、彼女と紡いだ輝かしい思い出が蘇っていく。
――再び光が、差し込む。
「――そうだ……わ、私は……君を連れ出すって……そう、約束……!」
彼女と出かけた、あの一日。
その最後に交わした約束。
違わぬと決めた誓い。
――そうだよ、思い出した! 私はセツを連れ出して、そして家から出るんだ……!
そのために頑張って来た。
心が消え失せるまで、私は殺し続けて来た。
そう、全ては……この日のために。
私は取り落とした鎌を拾い上げ、彼女の前に掲げる。
「ほら見て、セツ……! 私、一人前になったんだ……だから!」
「えぇ、ですから、約束通り」
遮るように言葉を重ね、セツは笑う。
記憶に残る姿と、何も違わないまま。
優しく、小さく、微笑んで。
その暗澹たる告別を、口にする。
「――その鎌で、わたくしを……殺してくださいな」
「――」
刹那、刻が止まる。
――今、なんて……言った?
「じょ、冗談……だよね、そうだろう?」
「……まずは、説明が必要ですよね」
笑顔を崩して、ため息を吐くセツ。
その姿に、今の発言は聞き間違いでも冗談でもないのだと……思い知らされる。
頭を殴りつけられたようなショックで、私が動けないで居るのもお構いなしに……セツは、その説明とやらを始めた。
「家の様子は、ご覧になりましたよね? ……今や、拝宇の家は様々な派閥に別れ、抗争状態にあります。これも全ては、わたくしの至らなさが生み出したこと」
「始まりは小さな不和でした。永い刻の中で薄れゆく血統、新たな介錯の一派である『聖火隊』の台頭、そして……拝宇シャル、あなたという歪み」
「命を絶つ使命を帯びるわたくしたちが、新たな命を生み出すという禁忌。忌み子たるあなたの存在が、家の混乱を加速させていきました」
「やがて内部の勢力は分かれ、睨み合いの様相を呈すようになり……わたくしも止めるために、奮闘はしたのですけれどね。結局、このような形となってしまいました」
一息に喋り切って、セツは再び笑った。
自虐的な笑み。自分という存在の無力さを痛感している、そんな笑みだった。
――そうか。あの日以来、セツが消えたのは……それが原因か。
ひとまず、先ほどのセツの言葉は一旦頭の隅に置いておき……私は、今語られている内容に集中することにした。
結局のところ、私が殺さなければ良いだけの話だ。
彼女が何を語ろうと……私が彼女を殺害することに、同意するはずがないのだから。
「確かに、あれ以降……時折、屋敷から人が消えるようになった気がする。戦闘も度々起こっているみたいだった」
セツが居なくなってそれどころではなかった私は、気にもしていなかったけれど。
――でも、それなら。
「どうして……セツは、狙われていないの?」
「わたくしはほら、このような脆弱な身ですから。下手に動けぬ弱さが故に、後回しにされているだけ。いずれ魔の手はわたくしにも伸びるでしょう」
小さくか細い腕を広げて見せるセツ。
確かにこんな少女の身では、何をどうしたって……一方的に行使される力を前に、抗うことは出来ないだろう。
かつての私が、そうであったように。
「そしてあなたは、この屋敷の何処にも属さないために、見逃されていたというだけの話。わたくしを守ろうとするならば……間違いなく、あなたは殺されてしまう」
私を見上げながら、セツは言った。
その言葉に、少しだけむっと腹が立つ。
「私、強くなったよ。あの男にだって負けないくらい、強く」
「えぇ、知っていますよ。けれどあなたは、まだ人間でしょう……? 今までのあなたが受けて来た訓練は、将来的に天望人となることを見越した模擬戦。不死性も回復力もない人間相手の実戦となれば、彼らはどんな卑怯な手だって使うでしょう……。断言します。あなたでは彼らには勝てません」
「っ……」
何も、言い返すことが出来なかった。
確かに、私は武力の面では相応に強くはなったのだろう。
しかし、セツの言う肉体的なディスアドバンテージは未だ残ったままだ。
人間の体では、彼女を守りながら戦い続けることは出来ない……。
「そもそも、わたくしはここで死ぬ必要があるのです」
顔を歪める私を前に、セツはきっぱりとそう断言する。
「拝宇の最も古き血を継ぐわたくしの死には、家にとって特別な意味があります。そしてもし、この身を殺した存在が明らかにならないままであれば、わたくしの手配した跡継ぎが名乗りを上げ、この争乱を迅速に平定に導く……そういう手筈になっています」
ですので、誰にもマークされていないあなたに殺される必要があるのです……と、セツは付け足した。
――そんな、理由で。
胸の内から、怒りが湧き上がる。
「納得……できるわけ、ないだろう? こんな家の奴らのために、殺されてやるなんて」
大祖母としての役目だとか、古い血筋がどうとか、私にはそういうのは全然分からないけどさ。
私の大嫌いな家の連中のためなんかに、唯一の光のセツを奪わせるなんて……そんなこと、認められるはずがない。
内輪揉めで滅びるなら、勝手に滅べば良いだろう、こんな家の連中は。
正面から戦うことは出来なくても、今の私ならセツを抱えて逃げるくらいは……。
そう心の中で打診を始める私を見て、セツは再びため息を吐いた。
「……まぁ、ここまでは表向きの話です」
セツはそう言うと、すぅっと深く息を吸い込んだ。
蝋燭が切れて、灯火が潰える。
窓際の障子から、薄く月明かりが差し込む。
闇の中にぼうっと浮かび上がる、白い『幽霊』。
その儚き存在が、消え入るような小さな声で、告白する。
「――シャル、あなたという存在を生み出したのは、何を隠そう……このわたくしです」
「――……っ」
無論、実の母として……ということでは、ない。
拝宇の『大祖母』として、拝宇という血を守るため、家を守るため、私を『作る』ことを推進した。
私に『悪意』を教え込むことを了承し、苦痛を与える『訓練』をあの男に命じ。
私の心を、長きに渡って苦しめ続けて来た。
セツは、私が何より最も憎んでいた存在……そのもの、だった。
「一切、言い訳をするつもりは……ありません」
「どう、して……! 言い訳してよ、お願いだから……! 私、セツを……」
――恨みたくなんか、ない……!
私は懇願しながら、か細いセツの体に縋る。
セツは、私の闇の中でたった一つ……輝いていた光だったはずなのに。
その光こそが、私を包む闇を生み出していたなんて。
「嫌だ、嫌だっ……! 嘘だよこんなの……!」
……そう。そんなこと、認めたくはなかったから。
――私は、忘れていた。
屋敷の『幽霊』。
一度も姿を現さない『大祖母』。
数百年間、家に囚われている『拝宇セツ』。
予想できる材料は、充分にあった。
そう。予想、出来てしまったから。
……私は、彼女のことを記憶の奥底に封じ込めた。
ふとした瞬間に脳裏を過る……ソレが見えると、酷く体が震えるので。
見えないフリをした。していた。
光が消えてしまうのは、苦しかったけれど。
光が闇に変わってしまうことは、それよりずっとずっと……遥かに、恐ろしかった。
「あなたを苦しめておきながら、結局わたくしの選択は間違いだった。滅びを呼び寄せる一端となってしまった。全ての責任は、わたくしにあります」
「あああああ!! 黙れ!! 黙れ黙れ黙れ……っ!!!!」
叫びで、喉が切れる。
心が怒りと憎悪で、満ちていく。
涙が零れる度に、美しい記憶も流れて失われる。
私のたった一つの白が、吐瀉物のような汚濁で塗りたくられる。
裏切り。
それは最も単純に、人の心を壊すことの出来る、唾棄すべき行為。
「さぁシャル。早くその鎌で殺しなさいな。わたくしはあなたの『仇』なのですから」
「黙れッ!!!!」
沸騰するような怒りのままに、私は大鎌を手に取る。
――あぁ、そうだよ! 初めからこうするつもりだった!! 殺してやるつもりだったんだ!!
私を虐げた、苦しめた、この屋敷の奴らを全員殺す。
セツがその元凶だというなら、同じように殺すだけだ。
だって私は、そういう風に育てられた。
お前がそう望んだから、こう育ったんだ。
――望み通り殺してやる……っ!! それで、お前が守りたかったこの家の奴らだって、全員殺して……!!
そうして、復讐してやる。
私を生んだ世界全てに。
この全てが黒く染まり切った、地獄のような現実に。
「うあああッ!!!!」
大鎌を振り上げる。
細い首。
落とせる。
いとも容易く。
そのまま滾る激情と共に、一息に振り下ろし――
「――っ」
しかしその凶刃は、彼女の首を裂くそのギリギリの境界で……ピタリと、勢いを止めた。
それは、肉体の反射でしかなかった。
私の理性など、とうに消え失せていた。
ただ、首を断つ最中……僅か視界に入ったその不可思議な光景が、私の肉体を強制的に留めただけだった。
「――なん、でっ……笑ってる、の……」
セツは、笑っていた。
涙ながらに、笑っていた。
怖いはずだ。
永遠の死は、恐ろしいはずだ。
しかし彼女はその死の瞬間に……。
今まで浮かべていたどの感情とも違う表情で、笑っていた。
それは……その、感情は……。
――安心、だ。
「……シャル? どうしたんですか。さぁ早く――」
「答えて! あの日セツは……どうして、私の前に現れたの?」
震える刃を寸前で止めたまま、私はセツに問う。
初めて出会ったあの日。
暗い物置で独り泣いていた私に、差し込んだ一筋の光。
何故、君があそこに現れた?
何故あの男ではなく、君である必要があった?
「――当然、あのままあなたに折れて貰っては……困るからです。家の存続のために」
――目を逸らした……嘘を、ついている。
安定しない目線。
純白の瞳に、薄膜のような影が差している。
――あぁ、そうか。
セツは嘘をつくと……目を、逸らすのか。
私はそれを今、『初めて知った』。
……なら、きっと。
あの幻のような日々の……あの光の日常の中に、その言動に。
――嘘は無かったと……そういう、事だ。
「そうじゃない、だろう? 君は私に、罪悪感を抱いていた……。幼い少女だった私に、虐待という教育を課しているこの家と、自分自身に嫌気が差して……屋敷の『幽霊』として、私を助ける自分になることで……罪悪感から逃れようとした――違う?」
「……それ、は……」
唇を噛み、歪む表情。
ガラス細工のような端正な顔立ちが、一滴の嘘で割れてゆく。
そのまま……しばしの沈黙の後。
セツは観念したように、口を開いた。
「――えぇ、その通り。あなたの前に姿を現したのは、罪悪感からでした。けれど……次第に、それだけではなくなっていって」
セツの顔が上げられ、私の瞳を覗く。
瞳の奥の奥、まるで深海の底に触れるかのように。
「あなたは……数百年の間、お飾りの大祖母として扱われてきたわたくしを、ただ一人……等身大の少女として見てくださった、たった一人の、初めてのお友達」
「……初めて?」
……見覚えのある、目だった。
純粋で、真っ白で、何処までも届く光のような眼差し。
幼い頃の私とよく交わしていた、彼女のいつもの瞳。
けれどそれはあまりに真っすぐで、眩しすぎて……成長した今の私にとっては、『痛いほどの』輝き。
その光の源泉は、きっとこう呼ばれる感情だ。
――『執着』。
「わたくしにとっても、あなたとの時間は救いでした。あなたに惹かれていきました」
共に過ごした、数々の思い出が蘇る。
一緒に本を読んだ。駆けっこをした。髪を解いて貰った。着せ替えっこをした。
そんな記憶の中の私たちは、確かに二人で笑っていた。
「そんなあなたを……わたくしは、苦しめた。苦しめ続けた。耐えられなかった」
やがて渦を巻き始める、セツの瞳。
白いままにうねり、螺旋を描き。
その濁流に押し出されて、灰のような涙が溢れ出す。
――もしかすると、セツは。私がセツを想う以上に……。
私は大鎌を彼女の首から離し、思わず一歩後退った。
「あなたが好きでした。好きなあなたをわたくしは苦しめました。好きな人を壊しました。たった一人の、わたくしだけの、大切な、大好きな、お友達を……」
「セツ……」
両の掌で、セツは顔を抑えて泣く。
小さなその指の隙間から、涙の滝が滑り落ちていく
涙でぐちゃぐちゃになった目で、セツはそれでも私を見続けていた。
――数百年、だ。
数百年間……彼女は、『大祖母』という役割の中で生きて来た。
家の人間には……きっと、そう良い扱いをされては来なかったのだろう。
こんな幼い身では、まともに介錯を行うこともできないのだから。
ただ長く生きている。ただ古くから存在している。
だから偉い。従わなければならない。
そういう『権限』を持つだけの存在。
暗に疎まれ、避けられ……だから、セツのことは誰もが知らないフリをした。
関わろうとしなかった。確かに『居る』のに、まるで『居ない』かのように扱われた。
まるで……『幽霊』のように。
そんな永劫の日々の中で現れた、私という存在。
『大祖母』としての彼女を知らず、『拝宇セツ』という一人の少女として扱った、私という存在は……。
きっと彼女にとって、唯一の希望に他ならなかったのだろう。
恐らく……私が彼女に抱いていた、それ以上に。
――そしてその希望の首を、セツは自らの手で締め続けて来た。
それはどれほどの絶望だったのだろうか。
私には解らない。
たかだか十七年しか生きていない私には、数百年分の責め苦を払うほどの希望と……それを自ら消し潰す、そんな絶望など。
「――どうかわたくしを殺してください、シャル。約束通り……わたくしを、この長きに渡る苦しみから……連れ出して、ください」
……いつかの、その約束。
数百年の呪縛からの解放。
それはただ、彼女の死という形によってのみ果たされる。
それこそが、彼女のたった一つの望み。
彼女自身が救われるための、唯一の方法であり……彼女なりの、贖罪だった。
「他の誰でもない、あなたに……そうしていただきたいのです。あなたの腕の中で、死にたいのです」
「――……」
――沈黙。
心の中で、感情が渦巻いている。
消えぬ憎しみ。恨み。
忘れぬ親愛。愛しさ。
復讐。
友達。
希望。
愛。
「……っ」
きっと答えなど、初めから決まっていた。
あらゆる状況が、たった一つの結論を導いている。
何か他の道はないかと、考える必要もない。
……私の理性は、既に納得している。
これで私の、望みは叶う。
これで彼女の、望みも叶う。
ただ、その結論を実行するためには……あまりに大きすぎる感情の整理が、必要だっただけだ。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………わかっ、た」
たった四文字。
喉につかえていたその言葉を、私は文字通り……吐き、出した。
嗚咽のように。
吐血のように。
喉を切り裂く痛みと共に、もう訂正のできない決断を……口にした。
「――ありがとう、シャル」
再び、セツは華のように微笑む。
あぁ、安心した……そう、言うように。
「……」
仮面を、被る。
拝宇のペストマスク。
介錯という重すぎる儀式から、己の心を守る……防具。
縮まる視界。
希薄になる外界。
代わりに私の心は強くなる。
余計なものは、見えなくていい。
考えなくていい。
ただ、目前の命を終わらせる。
それがこの仮面を身に着けた私の、為すべきこと。
「……」
少女の隣に立つ。
鈴の鎌を振り上げる。
「……っ」
……震えて、いる。
何も感じないのに。
何も考えないのに。
躰が凍り付く。
感覚が消える。
恐怖が蝕む。
冷える、冷える、冷える、冷える。
肉が。
薄れる、薄れる、薄れる、薄れる。
意識が。
――私は、何で、生まれて、しまった、の。
それは、後悔。
自己の存在を、ただ嘆く。
……こんなにも、辛いなら。
いっそ。私の、方が……――
「――忘れないでください」
吹き抜ける、声。
断絶のマスク越しに突き抜けて、鼓膜を震わせる。
「あなたは、ただ殺すために殺すのではありません」
少女は目を瞑ったまま、呟く。
決然と。しかし嫋やかに。
「『人が人として、正しく死ぬため』に……そのために、殺すのです」
――今、気が付いた。
セツという存在が、光……なんじゃない。
彼女もまた、闇に生きた存在なのだから。
「あなたはこの世界でたった一人の、人を救う死神」
彼女が居ると、眩しかったのは。
光に向かって、一緒に歩いてくれていたからだ。
いつだって、私の手を引っ張って。
私に……光り輝く世界を、見せてくれた。
「どうかそのことだけは……忘れないでくださいね」
――光が、見える。
温かな囁きで、心は保たれた。
怯え震える私は、既にいない。
……最期の最後まで、私は彼女に救われた。
「――うん、忘れないよ」
私は人を殺す、死神。
でも殺戮者ではない。
復讐者でもない。
――私は、介錯人だ。
救うために殺す。
拝宇の理念を……君の理念を、体現した存在になる。
「ありがとう……さようなら、セツ」
「えぇ……さようなら、シャル」
「「――たった一人の、私だけの友達」」
――リリ――ン……。
……花が、散った。
「……ぅ」
よく知った感触。
けれど、決定的に、何かが違う。
「あ、ぁ……」
目前で、少女の形は崩れてゆく。
数百年という長き刻。
人ならざる神秘の力によって保たれていた、若き肉体は。
それを断つ刃によって、砂のように解けて消えて行く。
まるで土に還るように。
再び自然の輪廻に加わるように。
超常は超常によって砕かれた。
そして人は、本来あるべき姿へと戻るのだ。
「――これが、『種』」
布団の上、残された塵積もり。
その中で、僅かに発光する光の粒。
かつて宇宙より降り注ぎ、今や全人類を不死たらしめた……『種』。
――僅かに、花の香りが残っている。
「……」
息苦しい仮面を剥いで、大鎌と『種』を手に、私は立ち上がった。
そのままよろめきながら、部屋の外に出る。
「……雪」
相も変わらず、外は一面の銀世界だった。
けれど寒さは感じない。
どうも、私の温度センサーはぶっ壊れてしまったらしい。
さっきから体が熱くなったり震えたりで、忙しなかったからな。
こうなるのも仕方はないだろう。
「……?」
ふらつく足取りで、ただ歩く。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。
何故歩いているのかも、分からない。
私は、何処に居る?
「うっ……」
何か障害物に足をひっかけて、私は正面から転倒する。
幸い、降り積もった雪がクッションになったおかげで、痛みはなかった。
「あ、しまった……」
上体を起こすと同時に、手の中から『種』が失われていることに気が付く。
何故ソレが重要なのか、いまいち実感を伴わないまま……私は雪の中から光る小さな粒を探す。
「――良かった、あった……」
探し続けること、数分。
赤くかじかむ指先で、その『種』を拾い上げる。
……ほんのりと温かい。
――あぁ、そうだ、思い出した。これを呑むんだ。
誰かがそう言っていた。そうしろと。
そうだったはずだ、確か。
「――んぐっ」
枝豆ほどの大きさのそれを口に含み、一息に呑みこむ。
温かさが喉元を通り過ぎ、腹の中にポツリと墜ちる。
――その、瞬間。
「あ、あ……」
肉の内側から、根が伸びるように熱が伝播していく。
明らかな違和感ではあるのに、しかし不快感はない。
柔らかな春の毛布を思わせる温かさが、全身を包んでいく。
この優しい感覚は、誰かを思わせる。
――そう、だ。これは……。
「セツ……っ!!」
そうしてようやく……彼女の死を、私は現実として理解するのだ。
ただ『種』のみを残し、塵と消えた少女。
私が殺した、友達。
「う、ぐ……あ」
全身を迸る熱と共に、体表に長らく刻まれていた傷痕が癒えて行く。
まるで彼女のように、肌が白く美しく整えられる。
これが、天望人。
不死たる神秘の力。
……けれどそんなものは、今の私にはどうでも良かった。
「ああああああああああああああ!!!!!!」
何だって良かった。
体に熱が宿ると同時、内側から溢れ出したこの激情を……ただぶつけられるものがあれば、何でも。
たまたま手元には凶器たる大鎌があって。
近くには大岩が転がっていたので。
「殺した……殺した殺した殺した殺した殺した殺した」
何度も何度も、大鎌の先端を打ち付けた。
その度に火花が散って、一面の銀世界を僅かに赤く照らした。
セツはもう、二度と蘇らない。
あの微笑みを私に向けることもない。
全て奪ったのは、この私自身だ。
そう、他の誰でもない。
この、私が。
「――殺した!!!!」
一際強く、両腕を大岩に向けて振り下ろし……瞬間。
破裂するような金属音と共に、大鎌の先端が割れて弾け飛ぶ。
切っ先が頬を掠めて、その痛みで私はようやく冷静さを取り戻す。
「そっか。もう……居ないんだ、セツは」
今度は背中側から雪のクッションに倒れ込み、私は光の根に満たされた夜空を眺める。
――もっと……何か、すっとすると、思ってた。
彼女を殺すことには、納得できる理由があった。
正当な、感情もあった。
だからそれを乗り越えて、ひとたび首を落としてしまえば……きっと、気持ちは楽になると。
そう……思っていた。
――でも全然……そんなことはなくて。
「……っ」
頬を、冷たい涙が伝う。
既に、折れた切っ先に付けられた傷は治っていた。
セツが遺した『種』の力で。
――これから彼女は、私と一緒に……私の中で、生き続けるんだ……。
――……なんて。
そんな風に都合良くは……どうしても、思えなくて。
「――会いたいよ、セツ……」
しんしんと降り続ける雪の向こう。
遥か遠い月を眺めながら、私は独り……もう二度と埋まることのない虚しさを胸に、何処にも届かない言葉を吐くのだった。




