虚栄の交わり
「――さ、服を脱いでください」
更衣室に辿り着くなり、セツはおもむろにそう言った。
「洗うくらい自分で出来るよ……」
「背中側まで血がベットリですよ。まぁ任せてくださいな」
「うぅ……」
先に着物を脱ぎ始めたセツを見て、私も渋々服を脱ぎ始める。
セツと一緒にお風呂に入るということは、別段初めてというわけではないのだけれど……どうしても少し、苦手だった。
「では入りましょうか」
そう言って微笑むセツは、やっぱり本当に綺麗だから。
汚れ一つない、真っ白ですべすべの肌。
一糸まとわぬ姿となったことで、その美しさはより際立っている。
見ているだけで、目が眩みそうだ。
――それに比べ、私は。
体は血濡れていて、全身生傷だらけ。
世界中に嫌われている私は、心までが真っ黒で。
セツとは何もかもが正反対……。
その差を嫌でも見せつけられる。
私とセツは、同じじゃない。
全然、これっぽっちも、同じなんかじゃない……。
セツのことは未だに全然分からないけれど……でもきっと、それだけは確かだ。
どうしてもそんな事を考えてしまうから、一緒にお風呂に入るのは……あまり好きじゃなかった。
浴室に入り私が椅子に座ると、セツはシャワーを手に取って意気揚々と背後に回った。
「お背中流しますよ~」
耳元で囁くような言葉と共に、セツの細い指が背中に触れる。
「――ひゃっ」
……思わず、変な声が漏れてしまった。
――こうやって急に触れられるのも……苦手、なんだよなぁ……。
セツはよく私の手を取ってくれるから、面と向かって言えたことはないけど。
もちろん、セツに触れられるのが嫌いというわけではない……でもやっぱり私にとって、人の手は怖くて痛いものという認識は拭えていないから。
だからこうして不意に触れられると、どうしても反射的に体が反応してしまう……。
「――!」
――ん?
「……セツ?」
なんだろう……。
ちょっと、セツの様子が変だ。
急に固まって……なんだか、鼻息が荒いような……。
「――可愛い~~~っ! ねぇもう一回! もう一回聞かせてくださいな『ひゃっ』って!」
「ちょ、ちょっとセツ……ひぅっ!?」
突然首筋をなぞった冷たい感触に、喉が反射的に声を上げる。
「わぁ! 本当に可愛い……」
私の悲鳴を受け、セツは更に興奮したように呟いた。
――これは……まずい予感がする……。
その直感に違わぬように、今度はセツの腕が私の腰の両隣から前面に回される。
「さあさシャル殿、お痒いところはありませぬか~?」
そして蛇のように私の全身を這いずり回り始める、彼女の腕。
背中に、セツの胸がぴたりと密着している。
顎が肩に乗せられて、頬と頬が触れ合う。
彼女の長い白髪が耳元にかかって、くすぐったい。
まるで雪のように冷えた彼女の肌の感触が、私の神経を鋭敏に尖らせている。
――本当に何やってるのセツ……!?
無理やり意識を閉ざそうとしても、骨を伝って鼓膜に響くセツの鼓動が、否応なしに私に現状を認知させる。
体表で蠢く二つの細い腕。
左の手は腹部を滑り落ち、大腿の内に潜り。
右の手は胸部を登り、二の腕を伝って指先を絡めとる。
「……っっ!」
これ以上興奮させないように、私は必死に声を抑え込んだ。
が、その気配すらもはや逆効果で。
「ほれほれ~」
私を試すように、セツの指先はより際どい部分を責め始めた。
「んぅ、うぅ……」
重なる心音。
指先が触れて、離れて。
手のひらが伝って、滑って。
生乾きの血が、肌と肌で擦れ、粟立っている。
徐々に呼吸は浅く荒く。
やがて感じていた冷たさは消え、熱は均一に融け合う。
「……なんか、変な気分になってきましたね……」
「セツが変なことするから、でしょ……!」
「そうですか? ふふ……」
悪戯っぽい熱い吐息。
脳がくらくらする。
――何をしようとしてたんだっけ……なんかもうよく分からなくなってきた……。
私を包む彼女の肢体に目を下ろす。
柔らかくて、艶やかな白が赤く濡れている。
汚く、黒く、醜いもので染まっている。
私のそれを嫌がらず、受け入れてくれている。
……だから。それがたとえじゃれ合いに過ぎないとしても。
重なっている時間は、まるで同じになれたような気がした。
恥ずかしさの裏で、そのことが何だか心地よくて……だから私は、身を委ねてしまっていたのだ。
……けれどやっぱり、それは『気がした』だけで。
「――痛っ……」
不意にセツの指先が、傷口に触れる。
今日出来たばかりの、新鮮な生傷。
その傷の痛みが、引き摺り下ろすように意識を現実に呼び戻した。
「あ……ご、ごめんなさいシャル……」
「あぁ、うん……」
――……そう、私とセツは同じじゃない。
急速に凍てついた思考が、先刻の結論を再生する。
どれだけ彼女が寄り添ってくれても。
この傷だらけの体と心には……絶対にセツでは届かない。
彼女は、綺麗すぎるから。
セツのことは好きだ。
誰も彼も大嫌いなこの屋敷で、唯一そう感じられる人だ。
ずっと一緒に居たいと……そう思う。
――でも、分かってる。
多分、私とセツは……住む世界が違う。
セツは遊び方を知っている。楽しいことを知っている。優しさを知っている。
全部、私の知らなかったことだ。
私の住む世界では、教えられなかったことだ。
だからそれを知っているセツは……私とは、違う世界に生きている人なんだ。
「――殺したんですよね、シャル」
触れてしまった傷口を労わるように撫でながら、セツは突然そう切り出した。
「……そうだよ」
傷は、痛いと感じた瞬間に辛くなる。
痛みに慣れている間は、何も感じないのに。
今撫でられているその傷は、そうやって癒そうとされる方が、ずっとずっと痛かった。
「さっきは……ごめんなさい、シャル。あなたの手を避けてしまって……」
謝罪しながら、セツは私を抱き締めた。
その可憐な白い腕は、私の浴びた血で赤く染まっている。
一度は忌避したはずの、赤い血で。
「少し怖かったんです。笑っていたシャルが、少し……」
殺すとか、傷付けるとか。
セツはそういう世界には居ないから。
被害者ではなく、加害者になった私が……。
そしてその加害を善しとする姿が、怖かったのだろう。
「でも分かっています。シャルはずっと、そうするために何年も……頑張って来たんですものね」
セツの言葉は、多分言い訳だった。
心が抵抗を示す事実を、受け入れるために並べられた建前。
私が人を殺したということ。
人を殺す術を身に着けたということ。
そしてそのことを喜んでいる私を……受け入れるために。
――無理を、させている……。
さっきまでの行動は、きっと彼女なりの贖罪だった。
穢れた私と触れ合うことで、私に抱いた嫌悪を飲み下そうとした。
……でも、私だって分かっている。
加害者となった私を、セツは決して喜んではくれない。
褒めてもくれない。
ただ、否定しないだけだ。
それを理解した時、「よくできましたね」という言葉を期待していた……そんな自分の醜さが、気持ち悪くて。
「――う、ぅ……」
自然と、目から涙が溢れてしまっていた。
「シャル……」
「ごめん、セツ……。でも、殺さないと痛いんだよ。殺せば殴られないんだよ。なら、そうするしか……そう『し続ける』しかないじゃないか……!」
――そう、私は。
殺すことを善しとしなければ、生きていけない。
……だって、これで終わりなんかじゃないのだから。
「――天望人は死なない……だからあの男は数日後には目覚めて、また訓練が始まる。初めからそういう話だった」
介錯の家系……拝宇の人間として、人の殺し方を学ぶ。
何度も殺して学ぶ。
体が何の抵抗もなく、人殺しを受け入れるようになるまで。
何度も、何度も、何度も。
そのために、あの男は私にナイフを持たせているのだから。
「だから私はあいつを、これからもずっと殺し続けなきゃいけないんだ……! 痛い思いをしないで済むように……!」
「……えぇ、そうですね。シャルはまだ戸口に立っただけ。これからの訓練は、きっともっと過酷になるでしょうね……」
シャワーの音と共に、血がタイルの床面へ流れ堕ち、伝う。
赤黒さによって塗り潰されていた、私の傷口が徐々に露わになる。
全身に刻まれたその痕。
こんなことを、いつまで続ければいいの?
いつになればこの傷は消える?
もう、痛い思いをしなくて済む?
「……もう嫌だよ、セツ……逃げたいよ……」
「それは……」
セツの声が震えている。
吐き出すべき言葉は何か、選ぶように。
嘘か、真実か、感情か……。
「――出来ません……。あなたが一人前の拝宇の介錯人となるまで……あなたはここから逃げられない。逃げられないんです……」
そして彼女が選んだのは、多分『真実』だった。
「一人前の、介錯人……」
痛みに慣れ。傷を恐れずに。心を壊し。
死を望む天望人の永遠の生を、何の感傷もなく絶つ。
共感があってはならない。迷いがあってはならない。
もしそこに共感があれば、迷いがあれば……拝宇は何時だって、自らその命を絶ててしまうから。
そして実際、そういう不完全な介錯人ばかりだったから、拝宇の家は凋落した。
世界中で、生に苦しんでいる天望人を救済する……その使命を持つ拝宇の血を、途絶えさせるわけにはいかない。
そのために私は作られた。
禁忌を犯してまで、新たな生命として産み落とした。
ただ人殺しをするためだけの、永遠の殺戮マシーン。
それこそが、一人前の介錯人としての理想の姿だ。
私はそうなるために生きている。そうなるために、教育と食事を与えられている。
――だけど。
「私、そんなのになりたくなんてないよ……」
そういう風に私が出来上がった時、確かに私は解放されるのだろう。
家を出て……喜びも悲しみもなく、ただ世界中の人を殺して回るのだろう。
……それをする私は、きっと死んでいるのと同じだ。
「私、本当は――」
顔を上げて、セツを見る。
そのダイヤモンドのような、美しい瞳を見つめる。
吸い込まれるような、白銀。
視界を埋め尽くす光。
……私の、光だ。
ずっと、そんな彼女と一緒に居られたら。
「っ……」
でもそれを口にして……「出来ない」と言われてしまうのが怖くて。
私は、続く言葉を閉じ込めた。
「……」
それから、汚れを落としきってシャワー室を出るまで、会話は続かなかった。
セツはずっと思いつめたような表情で、何かを考えている。
そのことがただ気まずくて……「今日はもう遊ぶ気分じゃないだろうから、ここで別れよう」……私がそう提案した時だった。
「――シャル。あの人はしばらく目覚めないはずなので……明日は空いていますよね?」
いつの間にか、いつも通りの微笑みを取り戻していたセツが、私にそう問いかけた。
その奇妙さに戸惑いながらも、私は首を縦に振る。
「え? う、うん……多分」
「それなら、明日は一日遊びませんか? こっそり屋敷を抜け出して、街に降りてみましょう!」
拝宇の屋敷の外……丘を下った先に、城下街があることは知っていた。
何度か、そこから来た商人が屋敷に出入りするのを見たことがある。
「街に……? 行ってみたいけど、でも……」
この屋敷から出ることは出来ない。
屋敷を取り囲む高い塀は子供の私たちでは乗り越えられないし、門前には四六時中監視の目がある。
私を嫌っているくせに、この屋敷は私を逃がすことは絶対にしないよう出来ている。
それに、屋敷の外とは言っても結局あそこも拝宇が管轄している領地だ。
仮に抜け出せたとしても、すぐに連れ戻されてしまうだろう。
そうなったら何を言われるか……。
「大丈夫です! わたくしに任せてくださいな!」
トン、と自身の胸を叩いて、セツは言った。
その姿に、幾度目かの既視感を覚える。
――本当に、凄いなぁ……セツは。
私が怖がったり、不安がったりしている時、セツはいつも自信満々に私にそう言ってくれた。『大丈夫、任せて』……と。
そして実際、正しいのはいつだってセツの方だった。
……だから私も、信じてみようって……そう思えるんだ。
「分かった……行こう、セツ」
「よーし! それでは準備をしなくてはいけませんね……明日着ていく服とか、今日のうちに選んでおきましょう!」
私の手を取って、セツは意気揚々と歩き始めた。
……やっぱり、セツは私とは全然違う。
前向きで、ひたむきで、勇気があって。
私の知らないことを沢山知っていて。
汚くて、嫌われていて、迷ってばかりの私とは……全然。
――でもだからこそ、いつだって私の手を引いてくれるんだ。
その眩しさに照らされて、私の世界はほんの少し、輝いて見えるのだった。




