初害
あれから、数年。
勉強と訓練……ただ繰り返されるその毎日を続けながら、私はやっぱり窒息寸前の日々を過ごしていた。
そんな中でも、セツと過ごす時間だけは唯一私の安らぎだった。
『訓練』を終えると、何処からともなく現れる真っ白な少女。
いつも優しい笑顔を携えたまま、私を楽しい世界へ引っ張ってくれる。
毎日、色んなことをして遊んだ。
お喋りをしたり、屋敷を探検したり、本を読んだり……。
私が元気な日には、運動をしたりもした。
けんけんぱやけん玉……あとベイゴマとかも楽しかったな。
他の全てが苦しみに満ちた生活の中で、その楽しい記憶だけが脳裏に焼き付いている。
『シャ、シャル~……わ、わたくし疲れ……ぜぇぜぇ……ま、待ってください……っ』
駆けっこをやったら絶対に私の方が速かった。
運動神経の良さは私がセツに唯一勝てるところで、密かな自慢だった。
『あら? シャル、今日は寝ぐせがひどいですね。髪は女の子の命ですから、大切にしましょうね』
花柄の櫛で、私の髪を優しく解かしてくれた。
お姉ちゃん……というものが居たりしたら、こういうものなのかなって、思ったりした。
『……わ、よ~く似合っていますよ。え? 私も、ですか? ……ふふ、とっても嬉しいです』
着せ替えっことかも、やったっけ。
セツは何を着ても綺麗で、華やかで……ちょっと羨ましかった。
『――シャル』
夕暮れ刻の僅かな時間だけ、彼女は現れる。
探そうと思っても、絶対に見つけられない。訓練が終わるといつの間にか傍に居て、ボロボロの私にただそう呼びかける。
セツは絶対に自分の事を話さなかった。聞いてもそれとなくはぐらかされて、すぐに次の話題に移ってしまう。
私以外の誰かと居るところは見たことがないし、私以外の誰かが彼女について話すところも見たことがない。
『屋敷の幽霊』……その自称に違わない、どこか存在感のない彼女は……いつか本当に消えてしまいそうだった。
――居なくならないで。
口にしてしまうと、不安が重みを持ってしまう気がして。
私はその言葉を押し隠したまま、重なり合う僅かな毎日を過ごしていた。
……そんなある日。
白壁に囲まれたこの息苦しい中庭で、相も変わらず私はナイフを手に、あの男と対峙していた。
「――チッ……!」
振り下ろされた拳が頬を掠める。
耳元で巻き起こった旋風が、遠鳴りのように鼓膜を震わせた。
「……っ」
怯まず股下に潜り込み、軽く刃を構えながら滑走する。
「……ぐっ……う!」
通り過ぎ様、切り裂かれる男の大腿。
――浅い……っ!
薄く濡れた刃の先端を確認しながら、私は素早く立ち上がって体勢を整える。
「ちょこまか動きやがって……!」
「……」
怒りの滲む声を上げる男の顔を、じっと見据える。
――目だ。
目を見ておけばいい。
そうすれば次に何をしてくるかが分かる。
『思考』、『認知』、『行動』。
攻撃には必ずこの順序がある。
まずどうやって攻撃するかを『思考』し、攻撃をどこに行うかを『認知』し、そして実際に『行動』する。
第一の『思考』が読めれば大きなアドバンテージだが、読みを外すと確実に攻撃を喰らってしまう。
天望人と人間、男と女、大人と子供という肉体的不利を背負う私にとって、一手のミスが命取りとなる『思考』の読みに賭けるのはリスクが大きい。
――だから私は、第二の『認知』に全神経を割く。
攻撃を避けることにおいて重要なのは、その攻撃方法ではなく、攻撃箇所だ。
打撃であろうが足技であろうが、狙われる場所に当たりさえしなければそれで良い。
「こいつ……っ! 当たらねぇ……!」
避ける。避ける。避ける。
黒く濁った瞳。
ずっと私を蔑んで来たその悪意が、他の何よりも私に教えてくれる。
私のどこを壊したいのか……そしてそこから導かれる、私が生き残るための術を。
――何だか……。
「今日は、行ける気がする……」
思わず漏れ出た、その呟き。
それを聞いた男の目に、逆上の兆しが見える。
――あ、これ……終わり、だ。
「舐めんなよッ……!」
そこからはまるで、私の思考は一本の線で繋がっているみたいだった。
何をどうすれば良いのか、考えるまでもなく分かる。
その線に倣って、ただ肉体が動きを模倣する。
怒りによっていつもより大振りとなった一撃を避け、僅か生じた男の無防備な隙。
吸い寄せられるように、ナイフを持った右手が動く。
その行動に一切の迷いはなかった。
ただ思考の線に導かれるようにして……私は、男の顎の下から脳天に目掛けて、ナイフを突き入れた。
「――あ……!」
ズプリ、と。
明確に何か、壊してはならないものを刃が貫いた、という感触。
気持ち悪いと、真っ先にそう感じた。
でもきっと、それは私の待ち望んでいた感触に違いなかった。
「……う、ぅ……!」
暗い穴底から溢れ出した、濁流のような赤黒さが手のひらを包む。
飲み込まれてしまうようで、恐ろしくて手を離したいのに、何故か指先は固まったまま動かない。
「――」
脳髄を破壊された男の体が、ガクガクと痙攣している。
開かれた眼がぐるりと一回転して、閉じられることなく止まる。
これが、絶命。
単なる意識の断絶ではなく、生命活動の停止による強制的シャットアウト。
やがてその肉体は力を失い、押しつぶされるようにして私は男と共に地面に倒れた。
「……終わっ、た……?」
男は動かない。
それは既に、肉の塊というべき存在。
故に問いかけに答えはない。
ただそこに、在るだけ。
赤い熱が私に滴って、全身を染める。
やがて冷めるその熱に抱きしめられて……私は初めて、この肉から安心と温もりを感じた。
「――……は、はは……! やった……! 私、やったんだ……!!」
殺した。
やっと殺せた。
ずっとずっと殺してやりたかった。
憎かった。
嫌いだった。
痛かった。
怖かった。
逃げたかった。
……逃げられなかったから、殺した。
やっと……やっと叶った。
「――シャル……」
いつの間にそこに立っていたのだろうか。
眩い太陽を背景に、表情の見えないセツが私を見下ろしている。
「あ、セツ!」
私はどうにか人形を押しのけて立ち上がり、彼女に笑いかけた。
「ほら、見てよ! やったんだ、私! ついに殺せたよ!」
だくだくと血を流し続ける肉を指差しながら、私はもう片方の手でセツの手を取ろうとする。
「……っ」
しかしセツは身をよじって、私の手を避けた。
その真っ白な瞳に、僅か差し込む影。
――っ……!
鼓動が早鐘を打つ。
その影の名前を、私はよく知っているから。
今まで、彼女から一度も感じたことのなかった感情。
それは間違いなく……『嫌悪』、だった。
「――あ、ごめんなさいシャル……! えっと、汚れてしまっていますから。まずはシャワーを浴びませんか?」
「え、あぁ、そっか……うん、そうだね」
男の血で真っ赤に染まった自分の全身を見下ろして、無理やりに納得する。
……確かにこのままじゃ、いつもみたいに遊ぶどころじゃない。
――そう、だよ。セツが私を嫌うはずないじゃないか。
あいつを殺せたこと、きっと喜んでくれるはず。
褒めてくれるはずだよ。
「……」
伸ばした手を降ろして、私は歩き始めたセツの背中を追った。




