タクマとナナミ
この時代、月と火星には日本人コロニー(居留地)があって、そこに11歳になった少年と少女が住んでいました。月にいる少年の名はタクマ、火星にいる少女の名はナナミです。二人は頑丈で密封されたドームの中の町に住んでいます。町全体が回転しているので、遠心力で地球上で感じる重力と同じ環境で暮らしています。両方のドームの中には小さなお宮があって、朱色の鳥居が建っています。あるとき、遠く離れたタクマとナナミがそれぞれの小さい鳥居の前を通りかかったとき、同時にお宮に向かい手を合わせ、おがみました。親から教わった習慣です。その時二人は、鳥居の向こうに誰かがいるような気がしましたが、詮索せず家へ帰りました。
タクマは、月の黒い空の同じ位置にいつも浮かんで見える大きな地球を眺めるのが大好きです。太陽光が当たる面の満ち欠けや雲の流れを見ていると、宇宙が生きているように思えるからです。
ナナミは、火星と地球の距離を確かめることが日課です。時には地球が太陽の前を横切って小さな影絵のように見え、そのときは地球の存在を強く感じます。
火星は24時間37分の周期で自転しているので、火星コロニーから見る地球は、太陽と同じように空を移動します。地球が太陽の反対側にあるときと火星と同じ側にあるときでは、距離が大きく違い、通信するための時間が変化します。大接近時には、電波の速さで約3分、太陽の向こうに離れたときには約22分もかかります。その変化は約780日ごとに繰り返します。タクマがいる月は地球のすぐそばにあるので(電波の速度で1.28秒)、火星と月との通信は、地球と通信するのとほぼ同じです。火星から見て、遠くて小さく弱々しく見える太陽と、もっと小さい地球は、火星コロニーの住民にとって、かけがえのない心のよりどころです。
でも火星の住人たちは、太陽や地球から遠く離れて心細く感じないよう、火星ワールド自体が光り輝くための、いろいろな楽しみや催しを作り出しています。例えば、地球の重力の38%しかない火星の重力を逆手に取って競技場の中を飛び回るスポーツやダンスやアクロバットは遠く高く跳べるのでスリリングです。これにAR(拡張現実)を組み合わせると非常にエキサイティングになります。宇宙服を着て二輪や四輪のビークル(乗り物)に乗って、いろいろな地形を走ったり跳んだりする遊びや競技もあります。また希薄な大気でよく見える夜空の星の観測や星空を祝うお祭りもあります。先端技術を使った光の彫刻、迷子になりそうな大きな植物園や水泳用のプールもあります。生活を楽しむために熱心に工夫するのが、火星住人の特徴なのです。
何年か経ったある日、タクマとナナミは親元を離れ、地球で二年間勉強するためにコロニーを出発することになりました。ナナミの場合、地球との往復に1年以上かかるので、宇宙船の中にも学校があります。
タクマとナナミは同時期に地球で生活することになり、地球の豊かな自然と多様な文化に触れました。そして偶然にもある大きな神社で二人は出会います。二人とも地球の生活にすっかり溶け込んでいましたが、お互いに何か親しみを感じて話し始めました。初めて会ったはずの二人でしたが、どこか懐かしい感じがしました。タクマが「どこかで会ったことがあるような気がする」と言うと、ナナミも「そう、私もそんな気がするわ」と言いました。
二人は他の仲間たちといっしょに地球のいろいろな文化を学び、さまざまな食べ物を経験しました。タクマは本物の鮨を楽しみ、ナナミは和菓子の美しさに魅了されました。二年が過ぎる頃には、地球での新しい友達と別れるのが名残惜しく感じるほどでした。
ある日、二人がそれぞれのコロニーにあるお宮の話をしていた時、鳥居の向こうに誰かがいるような感覚を二人とも持ったことが分かりました。「あの時、確かに誰かがいたような気がした」とタクマが言うと、ナナミも「私も同じだった」と答えました。
それぞれのコロニーに帰る時が来ると、二人は再会を約束し、宇宙ネットのアドレスを交換し、地球での思い出を胸に抱いて旅立ちました。
月に戻ったタクマは、コロニーの仲間たちに地球の味を伝えたくてたまりません。地球で覚えた鮨の作り方を試してみようと決心します。火星に戻ったナナミは和菓子を再現することを夢見ました。二人とも、新しい挑戦に胸をおどらせながらも、鳥居の向こうに感じたあの不思議な感覚が忘れられません。
地球の元旦にあたる日に、タクマは再びお宮を訪れました。鳥居の前に立つと、彼は心の中で願いました。
「またナナミに会いたい。そして、あの不思議な気配の正体を知りたい」
すると、鳥居の向こうに微かな光が揺らめくのが見えました。タクマはその光に引き寄せられるように、一歩一歩進んでいきました。
同じ頃、火星のナナミもお宮を訪れていました。彼女もまた、鳥居の向こうに何か特別なものがあると信じています。
「タクマと再会したい。そして、あの感覚の意味を知りたい」
彼女が心の中でそう願うと、鳥居の向こうに薄明かりが現れました。ナナミはその光に導かれるように、前へと進みました。
月と火星で二人が同時に鳥居をくぐると、不思議なことが起こりました。タクマとナナミの視界が揺らぎ、ふいに風のざわめきに包まれました。目の前の風景が風のように揺れ動き、気付けば足元の石畳のまわりには柔らかな草が生えています。空には淡い光が揺らめき、目の前には、鎮守の杜が広がっています。そして、その中にお宮があり、二人を待っています。タクマとナナミはいつの間にか、並んで立っていました。互いに目を見合わせ、驚きと喜びの表情を浮かべました。
お宮の前で二人が二礼二拍手一礼をすると、優しげな神様の声が聞こえました。神様は二人に向かって静かに語り始めました。
「お前たちが感じたあの不思議な気配…それは時空を超えて響き合うお前たちの魂の呼び声だよ。お前たちは遠く離れた場所にいても、心で繋がっているのだよ」
神様は続けました。
「お前たちの強い願いが、この宇宙に新たな絆を生み出したのだ。これからもお前たちが互いに助け合い、夢を追い続けることを願っているよ」
タクマとナナミは神様に感謝の気持ちを伝え、境内を歩き、学校のことやコロニーで起こっていることを話しました。宇宙での距離など関係ありません。そして気付くと一時間以上も話していました。二人は再び鳥居をくぐり、それぞれのコロニーに戻りました。
そしていつもの生活が始まりましたが、二人の心には新たな希望が芽生えていました。月と火星、遠く離れた場所に住む彼らが再び会える日を夢見て、毎日を大切に生きていくことを誓いました。二人は、地球で味わったお鮨と和菓子を再現するために、材料の調達方法に挑戦し、作り方に工夫を重ねて、それぞれの世界の食文化を豊かにしていきました。
そして、お宮の鳥居の前に立つたびに、あの日の神秘的な体験を思い出し、二人はいつも心で繋がっていることを確信します。遠く離れた場所にいながらも、二人の絆は決して切れることはないのです。
<終わり>