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僕の純文学作品集

危篤の義父が、僕に託した最後の願い

作者: Q輔

 チチ キトク スグ ワラエ


 勤務中に、個人のスマートフォンにラインメールが届いた。妻からだ。まったくもう、昭和の電報じゃないっつーの。そもそも「すぐ笑え」ってどういうこと? そこは「すく帰れ」でしょう。君の実の父でしょうが。不謹慎でしょうが。笑えない冗談はやめろつーの。妻のプロフィール画像の向かい、苦言を呈する。それから、早退届けを上司に提出し、タイムカードを押して速やかに退勤した。


 義父が、危篤だ。


 一年半ほど前に、悪性リンパ腫という癌が見つかり、医者から、既にステージ4であること、余命一年であることを宣告されていた。ところが、気骨な義父は、闘病を前向きに続け、お義母さんの献身的な看護も相まって、宣告された時期を半年過ぎても、すこぶる元気だった。肌の色艶も良く、瞳もギラギラと輝いていて、僕は、ひょっとして癌を克服したのではないかと秘かに思っていた。


 しかし、五月に入って、病状が急変した。癌の進行により、肺炎を併発したのだ。普通に呼吸をすることが困難になった義父は、顔や体に様々な医療機器を装着され、見る見るうちに痩せ細り、ほんの半月で、いつ逝ってもおかしくないという状況に陥った。


「私は、お母さんを連れて、タクシーで、ひと足先に病院に行く。九輔きゅうすけは、子供と一緒に来てね。お父さんは、延命治療を拒否しているし、たぶん今夜のうちにコロっと逝くと思う。最後に孫の顔を見せておかないとね」


「君ねえ、先ほどのメールといい、今の『コロッと逝く』という発言といい、憎まれ口を叩くのは、ほどほどにしなさいよ。僕は辟易へきえきしていますよ」


「ほんとよね~、自分でも嫌になちゃう。いったい誰に似たのかしら~」


 妻は、一週間前から実家に泊まり込み、昼間は義母と一緒に病院に行き、義父に付き添うという生活を繰り返していた。僕は妻との電話の後、自宅に戻って私服に着替え、下校した中学一年生の長女と小学校三年生の次女と一緒に、車で義父の入院先へ直行をした。



 義父は、まだ生きていた。


 特別治療室に入ると、義父の酸素濃度測定器の数値が70%代になっているとのことで、看護師が様子を見に来ているところだった。義父は、ベッドに横たわり、とても苦しそうに眠っている。僕は、これほど苦しそうな人間の寝顔を初めて見た。


「もう、自分で正常に息をすることが出来ないのよ。先生が言うには、この苦しさを例えると、海に溺れて死にかけているような状態がずっと続いているのだって。だから、痛みを和らげるために、モルヒネを使用しましょうって。でも、モルヒネを使うと、意識が朦朧として、もう言葉は普通に話せないし、ここがどこで、誰が誰だかも判断出来なくなるから、意識が正常な今のうちに、家族との面会を済ませておいて下さいって」


 義母が、丁寧に義父の病状を教えてくれた。本来であれば、特別治療室への小学生以下の入室は禁止なのだが、主治医の判断で、次女にも特別に入室の許可が出た。この病院側の配慮を目の当たりにして、僕は、義父の死をいよいよ覚悟した。


「お義父さん。僕です。九輔です」


 悔いのないように会話をしておこう。義父のガリガリになった左腕を指でつんつんと突くと、義父は、ゆっくりと目を覚ました。


「…………おお、九輔か。おい、お母さん、俺にサングラスを掛けてくれ、九輔が来ると眩しくて敵わん。ああ、眩しい。おお、眩しい」


 父は、憎まれ口の名人だった。


 昔から、みんなでファミレスに行けば、料理が遅いのに耐え兼ねて店員を呼びつけ、「腹が減って死にそうだ。この店はあれか、弁当持参で料理を待たねばならんのか?」と言うような人だった。今だって、全身に医療機器を装着され、虫の鳴くような声しか出ない状態にありながら、僕の坊主頭を見ては、「眩しい、眩しい」と、せせら笑っている。


「お爺ちゃん、元気になってね」


 重症患者を前に怯えながらも、中学一年生の長女が、勇気を出してベッドに歩み寄り、義父に優しく声を掛ける。義父は、思春期真っただ中の長女の顔をしばらく凝視した後――


「顔が怖い」


――これが、長女と義父との、最後の会話だった。


「お爺ちゃん、死なないでね」


 今度は、姉の背後に隠れていた小学三年生の次女が、べそをかきながら、声を掛ける。


「太ったか? 顔パンパン」


――これが、次女と義父との、最後の会話だった。


「お父さん、今日までありがとうね」


「いろいろあったけど、楽しかったな」


 似た者同士ゆえに反りが合わず、顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしていた妻と義父が、珍しく親子の会話らしい会話をしている……と思ったら――


「俺が死んだら、我が家のことは、浩一(妻の弟)がやるから、お前はいっさい口を出すな」


 義父は、空間クリエイターという職業で成功をしている自分の息子を、昔から悲しいほどに溺愛していた。やばい。妻の眉間に、名刺二枚ぐらい挟めそうなほどの深いシワ。


「はあ? お父さん、いつまであの放蕩息子ほうとうむすこを信じるわけ? 浩一こういちが、一度だってお父さんのお見舞いに来た? 一度だって親孝行をした? 何から何まで、姉の私に任せっきりじゃないの!」


「お前が出しゃばるからだ。もうお前は引っ込んでいろ」


「きぃー、腹立つ! ちょっと看護師さん、一刻も早く、こいつにモルヒネを投与してやって下さい! 通常の二倍の量でお願いします!」


――これが、妻と義父との、最後の会話だった。


「不思議なものですね、お義父さん。あなたが憎まれ口を叩くたびに、酸素濃度測定器の数値が、どんどん良くなっている。ほら、あっと言う間に、90%代だ。このまま憎まれ口を叩き続けたら、完治するかもです」


「おい、九輔、見え透いたご機嫌取りはやめろ。俺は、今日明日で死ぬ。間違いなく死ぬ。――俺は、お前の一族のことが心配でならん。俺の一族には息子の浩一がいるから安泰だが、お前の一族は、もっとお前がしっかりしないと、いつか滅亡するぞ」


 心の底から余計なお世話です。どういった意図で言っているのか、さっぱり理解しかねます。「一族滅亡」なんて言葉を軽々しく人に言わない方がよいですよ。と流石に喉まで出かかったが――


「ご鞭撻べんたつありがとうございます。浩一さんを見習い、くれぐれも一族を滅亡させないように、粉骨砕身努力します」


――と頭を下げた。


「九輔、お前に折り入って頼みがある。死に行く者の最後の頼みだ。どうか聞いて欲しい」


「何でしょう?」


「俺は競馬がしたい。明日は地方競馬の開催日だ。でも、こんな体では、競馬場には行けないし、パソコンもスマホも使えない。お願いだ、俺の馬券を代わりに買ってくれ。競馬は俺の唯一の趣味だった。死ぬ前にもう一度だけ競馬がしたい。もちろん、全レースに賭けるなんて、わがままは言わない。明日の第一レースに俺の競馬人生の全てを賭ける」


 義父はそう言うと、義母に指示をして、病室の引き出しにある自分の財布から現金を僕に渡した。握らされたのは、千円札たった一枚。


 お義父さん、今日死ぬかもしれない人間が、明日の馬券を買ってどうするのですか。死を悟ったようなことを言いながら、内心は生きる気満々ではないですか。しかも、掛け金が千円とは、ケチ臭いにもほどがある。どうせ死ぬのです。あの世にお金は持って行けません。僕なら、悔いのないように、ドカーンと全財産を掛けますよ。


 思いきり罵ってやりたかった。かつて仰ぎ見た厳格で尊大な義父が、せつなく、わびしく、それでいてどこか滑稽に、ベッドに横たわっている。得も言われぬ腹立たしさが、胸中をグワングワンと渦巻く。僕の義父との今日までの思い出の全てが「死ぬ間際に義理の息子に馬券の購入を頼む哀れな義父」という中途半端な笑い話の中に一気に凝縮されてしまったような気がして、あまりの情けなさに、僕は涙を流した。


 お義父さん、あなたは、出逢った頃、無職で、貧乏で、世を舐め腐った若者だった僕を、まるで実の息子のようにかわいがってくれた。いつだって本気で叱ってくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれた。お義父さん、僕はね、周りが何と言おうと、あなたを尊敬していたのですよ。


「……1―3―8」


「え? 聞こえません。もう一度、お願いします」


「第一レース、三連複、1―3―8だ。頼んだぞ」


――これが、僕と義父との、最後の会話だった。


 それから義父は、しばらく義母と会話をした後、にわかに苦しみ出し、昏睡状態に陥った。事前の打ち合わせの通り、医療麻薬であるモルヒネが、粛々と投与された。


 おや? 妻が帰り支度をしている。お義母さんと一緒に病室に泊まって、お義父さんを見送ってあげなくてよいのかい?


「お別れは済んだ。お父さんへの恩は生前に全て返したという自負もある。もういつ死んでもらっても、私には一片の悔いもない。だから今夜はあなたと家に帰ります。いささか疲れました。自分の布団でゆっくり眠りたい」


 妻は、自分の布団を待てず、帰路の車内で、泥のように眠った。



 翌日曜日。妻を病院まで送り届け、その足で地方競馬場に向かった。それから、昔からギャンブルにいっさい興味のない僕は、場内をうろつく酔っ払いのおじさんたちに尋ねてまわり、なんとか義父に頼まれた馬券を購入することが出来た。その数分後、妻からの電話――


「……逝ったよ」

「いつ?」

「たった今。死にたてホヤホヤ」

「あのねえ、冷たくなった人間をホヤホヤなんて言っては駄目ですよ。本当に君は誰かさんにそっくりだね」

「おほほ。ごめんあそばせ。娘ですから」


 病院へ戻り、義母と妻の三人で、死後の手続きや、葬儀屋の手配を淡々と始める。すると、義父が入院してからというもの今日まで一度も姿を見せなかった義弟夫婦が、血相を変えて病室に駆け込んで来た。「お父さん、ごめん!」「最後にひと言、声を聞きたかった!」と叫び、亡骸なきがらにすがりついて号泣をしている。どうして、このたぐいの人たちは、わざわざ悔いが残るような行いをしては、わざとらしく悔し涙を流すのだろう。諸事情はあるだろうが、親への感謝の気持ちは、本人が死んでから病室に駆け付け、亡骸なきがらに伝えたって意味がないのだ。愛は生きているうちに。僕は、冷ややかにそう思った。


 告別式の最後に、僕は、父に頼まれた馬券を棺桶に収めた。レースは済みましたが、この馬券が、ハズレ馬券か、はたまた万馬券か、僕にはまるで興味のないことです。これはお義父さんの馬券です、どうぞ、あなたが、あちらで確かめて下さいな。


 その後の親族会議で、義弟夫婦が、両親の遺産相続権の全てを放棄する代わりに、僕たち夫婦に、義父の死後の手続き、及び、将来的な義母の老後に係る諸々の手続き、介護、扶養の全てを委託したい、と申し出てきた。


「あの~、僕が言うのも何ですが、お義父さんは、浩一さんに多大な期待を寄せていました。これは、お義父さんの意向に背くことになるのでは?」


「堅いなあ、お義兄さん。もっと頭を柔らかくして考えましょうよ。父から、母の面倒を見て欲しいという正式な遺言が合ったわけではありません。お義兄さんは、遺産を総取り出来る。俺は、親の老後の世話を手放し、空間クリエイターの仕事に専念出来る。お互いウィンウィンじゃないっすか?」


 なにがウィンウィンだ? 義母の老後に掛かる費用は、いかに甘く見積もっても、遺産では、トントンか、あるいは赤字だ。それに僕の家では、僕の親の老後の世話が控えているのだぞ。しかし、他でもない妻を産み育ててくれた義母が、妻のそばで余生を過ごしたいと望んでいるらしい。結局僕は、義弟夫婦の申し出を承諾した。


 親族会議を終えた夜。自宅のリビングで、夫婦でお茶を飲んでいると――


「ねえ、あなた。……生前は父がいろいろとお世話になりました」


「ななな、なんだよ、突然あらたまって。やめてくれよ。お義父さんにお世話になったのは僕のほうだよ」


「……母のこと、ご迷惑お掛けします。これからもよろしくお願いします」


「おいおい、気色悪いな。君らしくないぞ。何か悪いものでも食べたのかい?」


――なんと、あの恐妻が、大声で泣き出してしまった。すると、泣き声を聞きつけて、二階の子供部屋にいた娘二人が、階段を駆け下りて来る。


「ママが泣いている! まさか、パパが泣かせたの?」


「ママを泣かせると、私たちが許さないわよ! 謝って! 今すぐママに謝って!」


 違う、違う、違うっつーの。それにしても、泣いている妻を見るのは、何年ぶりだろうか。張り詰めていた気持ちが、つい緩んだのかな。ふふふ。しおらしい妻も、たまには良いものだな。


 お義父さん、人生というのは、おかしなものですね。あなたの心配の種であったこの僕が、どういうわけか、あなたの家を背負うことになりましたよ。うっかり滅亡させちゃうかもしれませんが、その時はごめんなさい。


 四十九日の折には、位牌の義父に向かい、そう憎まれ口を叩いてやろうと思っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] お義父さんなりの息子への餞別だったのでしょうね。 たった千円だとしても、ギャンブルに縁遠い男が、もう無駄になるのだしと着服せずに、バカ真面目に買ってきてくれると信じている。 そんな信頼を「…
[良い点] 納得して死んだというと語弊がありますが、死ぬことを本人も家族も理解したというか、湿度が低い文章が気に入りました。 最期のときに馬券を千円分買っていたというのはとても良いシーンだなと思いまし…
[一言] 苦しくても最後まで自分らしさを貫いたお義父様に拍手を送りたいです。 亡くなった悲しみはもちろんありますけれど、良い最期だったんではないかと。
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