その断崖に架け橋を 男装拳士エストの人助け放浪記
たとえ世がきな臭くとも、いや、世情に怪しげな雰囲気が感じられるからこそ、都市国家ヴァンダクトの夜はにぎやかだった。
それは場末にある労働者向けの酒場、黒森の大熊亭でも同じだ。日中の過酷な労働に疲れた者や、夜の闇へ潜みに行く前の者達が思い思いに騒ぎ、叫び、酒を浴び、食べ物を食らっている。
きしむ音を立てながら出入り口の扉が開き、夜の冷たい空気と共に来客が一人入ってきた。
店員である太った熟女が音の方に顔を向ける。既に酔っ払っている見知らぬ客を見つけ、厄介そうな奴が来たと嫌そうに顔をしかめた。
「……いらっしゃい」
やる気のなさそうな声で迎えられた来客は、若く背の高い男だ。20歳程度に見える。青年と言って差し支えないだろう。
短い銀髪は全て後ろへ撫なで付けられ、秀でた額がよく見えている。癖毛らしく、後頭部の髪はところどころ跳ねていた。
顔立ちは整っており、線は細い。色白だが、今は酔いにより顔が赤くなっている。
切れ長の目も飲酒により赤く充血していた。半分閉じられているため、青灰色の虹彩はおおよそ隠れている。
薄い唇は不機嫌そうに引き結ばれていた。
この酒場にいる他の客のものよりも汚れていないシャツとズボンを着ているが、あからさまに継接で補修された箇所もあることから、金持ちではなさそうだ。
誰が見ても酔っ払っていると判断できるこの青年は、実のところ、別の酒場から追い出されていた。ふらふらと町を歩き、2軒目としてたまたま目に入った黒森の大熊亭に入ってきたのだった。
酔っ払い特有のおぼつかない足取りで、店の奥の空いているテーブルへ向かう。
テーブルやイスの合間を歩く最中、青年は座っていた女の背中に腕をぶつけてしまった。
「ああん? なにすんだい」
青年の方を向き、ガンを飛ばしてきた女は、縦に切られた傷跡を左目に持つ、30歳は過ぎているであろう筋骨隆々の戦士だった。その胴部には薄汚れた皮の鎧よろいをまとっている。
善良な一般人であれば、兵士か傭兵崩れであろうゴロツキと思しき女に凄すごまれればすぐさま謝るところだ。
だが銀髪の青年は、一言も謝罪を述べずに通り過ぎ、空いていた席に着いた。
「エールをくれ」
青年のぞんざいな注文を聞いた店員は、彼の望みの品を持ってくるためというよりは、起こりそうな騒動から逃げるために店の奥へ引っこんだ。
「てめえ、あたしを舐なめてんのかい? ああ?」
語気荒く、柄の悪い女性が立ち上がる。170センチと女性としては背の高い彼女は、座っている青年を強く睨にらんだ。
青年が淀よどんだ目を女へ向ける。暗く鬱々とした目は、対面する女ではない何かを捉えかけていた。
――ああ、全てが鬱陶しい。こんな世界など――
「なんだい、喧嘩売ってんのかい?」
無礼な男を痛めつけてやろうと、女は足を一歩前に踏み出した。
巻きこまれまいと、周囲の客が慌てて席から立ち上がり始める。
そんな一触即発の空気が流れる両者の間に、小さな影が割りこんだ。
「ごめんごめん、コイツ、ちょっと嫌なことがあって荒れてるんだ。代わりにボクが謝るから、許してやってほしい」
小さな影は、土色の外がい套とうで肩から足元まで体をすっぽりと覆った、若木のようにほっそりとした体付きの少年だった。年の頃は16歳くらいだろうか。
肩に付かない程度の長さの緑髪はふわふわの巻き毛で、丸く大きな灰色の目をしている。黄褐色の肌の、幼く善良そうな顔立ちの若者だ。
自分より頭半分ほどは背の高い女性と向き合い、申し訳なさそうな顔で謝罪を口にする。
「そっちにいるお友達の分も含めて、エール5杯でどうかな?」
少年はその童どう顔がんを、女性が座っていた席の方に向けた。
人相の悪い男女4人が険悪な顔で事の推移を見ている。
「お願い、お姉さん。この通り謝るから、ボクに免じてコイツを許してやって」
善良そうな顔に懇願され、女は思案した。
ここで騒ぎを起こせばこの店には入りづらくなる。謝罪をされたので面子は保たれる。今は懐も寂しい。
「……気前のいい友達に感謝するんだな、ガキ」
ゴロツキの女はそう言い捨て、仲間の待つ席に戻った。
「ありがとう。おばちゃーん、こっちのテーブルの人達にエール5杯お願い! ボクのおごりで!」
周囲の客達には、騒動が起きなかったことに安あん堵どしている者もいれば、残念がっている者もいた。
彼らが自分の席に座り直すのに紛まぎれ、少年はミルクが注つがれている自分のジョッキを手に、不機嫌そうな青年の正面の席に腰かけた。
青年は、勝手に同席してきた者を不審そうに見ている。
「はじめまして、ボクはエスト。キミは?」
「……イルディス・ペリオット。俺はあんたに感謝するべきなんだろうな」
「別にいいよ。ただのお節介だから」
緑髪を揺らしながらエストは楽しそうに笑った。
それを見ても、青年イルディスの不機嫌そうな表情は変わらない。
二人の間の微妙な空気など知らない店員が酒のジョッキを運んでくる。
まずはゴロツキ達の、食事の空き皿が重ねられているテーブルに木製のジョッキを5杯。
そしてイルディスに1杯。
店員に支払いを求められ、エストは自分のそれなりに膨らんでいる布袋の財布から、気前よくエール5杯分の銅貨を支払った。
イルディスは酔いで手元が狂い、もたつきながらも、少し膨らんだ布袋から1杯分の銅貨を渡す。
「まいどあり」と気のない声で言い、店員は去っていった。
運ばれてきたエールを、早速イルディスはあおる。一気にジョッキの中身が半分に減った。
「ねえ、キミは何をそんなに悩んでいるんだい? ボクに話してみない? もしかしたら何か手伝えることがあるかもしれない」
ジョッキをテーブルに置いたイルディスの目が細められる。
「なぜ俺が悩んでいると思う?」
「だってキミ、つまみも何も頼まないでお酒だけ注文してる。酒を飲むときの作法も守らずにいるのは、ひたすら酔いたいからじゃないかい? ボクにはキミが酒神の信奉者には見えないから、何か酒を飲んで忘れたくなるような事情があるのかなと思ってね」
ニコニコと童顔に笑みを浮かべたまま、エストはイルディスの返答を待った。
「……いいだろう、そんなに知りたいのなら教えてやる。俺は3日後、結婚をする。一度顔を合わせただけの相手とな。親なしが良家のご令嬢に婿入りするんだ、こんなに素晴らしいことはないだろう?」
くつくつと自虐的に、喉のどの奥で押し殺すようにイルディスは笑う。
「なるほど、望まぬ結婚をさせられそうなんだね。……いいよ、この“架かけ橋”エスト、キミが苦境を乗り越える手助けをしようじゃないか」
えっへんと、エストは薄い胸を張る。
それをイルディスは鼻で笑った。
「あんたが? はん、ご令嬢との結婚に先んじて、あんたが俺と愛の神フィメリアの前で誓いを立てて、重婚は無理だとでも言うのか?」
ぱちくりと、エストは童顔の大きな目を瞬かせた。
「どうして分かったんだい? ボクが女だって。確かに男としては背も低いし声も高いかもしれない。けど、男の子っぽい喋しやべり方をして外套で体を隠していれば、バレることなんてないのに」
イルディスは馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らした。
ジョッキの中のエールを飲み干し、語り出す。
「男と女は体格が違う。外套で隠していようが、立って動いていればその下にある体付きは推測できる。肩幅の狭さ、臀でん部ぶの丸さ。それで男のふりが露見しないとでも?」
エストはふるふると首を横に振った。
「普通は露見しない。キミのように注意深く観察できる人なんてまれだ。キミってすごいよ!」
大きく丸い灰色の目が興奮で輝いている。
エストはイスから立ち上がり、机に手を突き、退廃的な雰囲気をまとう男の方へ身を乗り出した。
「そんなキミの不幸はやっぱり放っておけない。依頼料を少しまけてあげるから、ボクに頼んでよ。望まない結婚はしたくないから、手を貸してくれって」
イルディスは自信にあふれたエストの態度に、段々と腹が立ってきた。
何も知らないくせに、自分ならこの状況をなんとかできるとでも思っているのかと。
その苛いら立だちに酔いが交じり、彼に普段なら絶対言わないだろう言葉を吐かせた。
「やれるものならやってみろ」
「うん! やってみせるさ」
嬉しそうに微笑んだエストは、イルディスの方へ右手を伸ばした。
青年は眉まゆをひそめる。
「契約成立の証に、ね?」
渋々と、イルディスは自分の右手を伸ばした。
エストがその手を取り、優しく握手をする。
こうして、“架け橋”の二つ名を持つ男装の乙女と苦境にある青年の間に契約が結ばれたのだった。