勇気の踏み台
オレのいる荷台の角度がゆっくりと、確実に、止まることなく崖側に傾いていく。
馬がブモゥと息を吹きながら必死に踏ん張っているけども、脱輪した荷台の重さに負けてずり落ち始めている。
荷台の扉のほんの少しの隙間から、底なしの谷底がこちらを覗いている。
マジかよ! このままだと崖底に真っ逆さまだぞ!!
「おっさん! このままじゃ落ちちまうぞ!」
転がって崩れた体勢を持ち直しつつ、おっさんに叫び掛ける。
「んなこたぁ分かってんだよ!!」
オレと共鳴するようにおっさんも叫ぶ。
おっさんは腕に血管を浮かばせながら、必死になって暴れる馬を抑えているが、それでも少しずつ、今いるところから下に下に身体が沈んでいく。
「ちくしょう!」
この荷台には窓がない。
出入り口は、後ろの乗り降りさせるための扉と、おっさんのいる吹き抜けになっている運転席側だけだ。
オレはおっさんのいる運転席側まで、よろめく身体を不器用に操りながら、踏ん張り、ちょっとずつ移動し始めた。
だけど、そのとき。
オレは大切なものと大事なものが手物にないことに気付いた。
「おい! はやくこっちにこい!」
即座に荷台を見渡す。
すると後方に、探していたものが目に入った。
瞬間、オレは踵を返して荷台の後方、崖側までわざとずり落ちた。
「馬鹿野郎! 何やってんだ!!」
後ろからおっさんの罵声が浴びせられるけど………これだけは失くせないんだ!
オレは探していた、村を出るときにお母さんから貰った荷物入れを掴み。
無造作に口を開け、中に入っている………オレの産みのお母さんの形見と、アルドから貰ったお守りのくず石を手に取った。
他の荷物も全部持っていきたい……けど、そんな悠長なこと言ってる場合ではない。
だから、せめて、これだけでも………!
「おいメル! 今すぐ荷台から飛び降りろ! 落ちるぞ!」
とうとう馬の制御を諦めたおっさんが、真っ赤に腫れた腕を抑えながらオレに叫ぶ。
雨に濡れ、ずぶ濡れの表情で鬼気迫るおっさんの顔を見てオレは形見とお守りをズボンのポケットに強引に押し込んでおっさんのもとへと急いだ。
ただ、遅かったようだ。
荷台はすでに、立ち上がるのも厳しいほどに傾いている。
ほこりっぽい荷台の床では、もう踏ん張るのも精一杯なほどだ。
「はやくしろ!!」
「やってる! けど滑って……!」
焦れば焦るほど、手足が滑っておっさんのいる運転席に届かない。
時間が経てば経つほど、荷台が斜めになって登りにくくなっていく。
このまま荷台から抜け出せなければ―――――
ヤバい。ヤバい! ヤバい!!
一瞬で全身に冷や汗が吹き出す。
たった4、5歩程度の距離なのに、果てしなく遠くに感じる。
馬の鳴き声とおっさんの叫び声がオレのことを焦らせる。
降り続く雨が、荷台と運転席の間から吹き付けてくるほど空と垂直に近付いてくる。
雨のせいでなおさら踏ん張りが効かなくなってしまい、天に伸ばす腕の力も、限界に近付いてる。
雨粒が顔に当たって前がよく見えない。手を濡らす。足を滑らす。
足元がふわふわしてくるし、頭がくらくらして異様に喉が乾いてくる。
………なんだか雨が降るたびに、ろくな目にあってねぇな……。
ははっ、と乾いた笑いが溢れる。
オレはポケットに入れたアルドがくれたお守りに手を当てる。
太ももと手のひらで、コロコロとしたいびつな硬い感触を確かめる。
諦めかけたオレの心に、ふと、以前オレが落ちかけた水晶の穴近くで、アルドから言われた言葉を思い出した。
―――――どうしたら、メルねぇみたいになれるかな……。
あのときアルドは、オレには勇気があるし、オレがいないの何もできない、とか言っていた。
なんでこんな時にあの時のことを思い出すのか。
でも、正直言わせもらうと、オレとしてはアルドがいたからこそ、いつも前向きで、勇気を出して突き進むことが出来てたんだと思ってる。
あいつがオレのことを慕ってくれてたから、オレのことをいつも見ていてくれてたから、ここまでやってこれたんだと思う。
そう思うと、アルドがくれたこの石にはどんな想いが込められていたんだろうか。
森の中に一人で入るのは怖かっただろう。
くず石と言えども、子供の力で砕くのはとても苦労しただろう。
何より、いつもオレの後ろに付いてきていたのに、オレがいなくても行動したときの不安感はどれだけのものだっただろうか。
―――――アルドがくれたくず石を、ポケットの上から力強く握り締める。
こんなところで、アルドがくれた勇気に、アルドが目指すメルねぇの勇気が負けてちゃ…………アルドに合わせる顔がねぇな!!
「―――――飛べぇ!!」
おっさんが今まで以上に身体を乗り出して、オレに手を差し伸べてくれた。
咄嗟の判断だった。
おっさんのその声と同時に全力で身体に力を込め、オレは思い切り荷台の床を蹴り上げた。
パシッ………
雨に濡れたオレたちの両手が、子気味の良い音をたてて重なりあう。
その瞬間、骨が抜けそうになるほどの激痛とともに、おっさんがオレの手を握り締めた。
そして、おっさんは荷台から引き抜くようにオレの身体ごと引っ張りあげ、そのまま勢いを殺さないようにして、オレの股の下にもう片方の手を当てると。
「うおおぉぉぉぉっっ!!」
股に当てた手を思い切り崖とは反対側の森にオレのことを放り投げた。
オレの身体が雨の勢いに逆らって宙を舞う。
クソ女神に蹴り飛ばさたときのことを思い出させるような浮遊感に弄ばれながら、オレはなすがままに荷馬車の外へと放り出された。
ぐちゃり、と気持ち悪い感触とともに全身が地面にたたきつけられる。
かひゅ、と口から自然と息が吐き出される。
息が出来なくなるほどの強い衝撃を逃がすために、身体を抱きしめて耐える。
「―――っはぁ、はぁ、はぁ!!」
自分では何分も掛かっていたと思うが、実際には数秒程度、ようやく痛みに震える肺が呼吸を許してくれる。
オレは身体の芯まで染みわたらせるように呼吸を続け、それと同時に地面があるありがたみを噛み締めた。
そうだ! おっさんは―――
オレのことを助けてくれたおっさんのことを思い出し、崖の方に目を向けると………そこには崖下に落ちる瞬間の荷台と、馬と、おっさんの姿があった。
「おっさ―――」
思わずおっさんのことを呼び掛けようとしたその時!
「死んでたまるかぁぁぁぁぁぁああああ!!」
おっさんの渾身の叫び声とともに、その大声を掻き消すほどの爆風が巻き起こった。
あまりの衝撃と爆音に、何も聞こえなくなり、オレの目にはやけにおっさんの姿が遅く映った。
爆風によって巻き上げられた雨粒が、壁のようになって荷馬車を中心に飛び散っている。
おっさんがその壁に押されるように、空中で飛び上がっている。
まるでゲームの二段ジャンプみたいだな、なんて不謹慎にも思ってしまったけど、そういうに他ないほど、おっさんは爆風の衝撃で空中で飛び上がっていた。
……崖に落ちたときに爆風が発生したから、オレは吹き飛ばされず、ただただおっさんが必死の形相で虚空へ手を伸ばしているのを、茫然と眺めていた。
そのおっさんの姿が崖に隠れて見えなくなった。
崖に隠れて………?
オレは事の重大さに気付き、急いで痛む身体に鞭打って崖に近づいて行った。
ま、まさかおっさん………落ちちゃったんじゃないだろうな!?
森から続く崖には、おっさんの姿は見えない。
あのまま空中ジャンプして、地面に着地するもんだとばかり思ってたけど、まさかそのまま落ちるなんて………!
「おっさーーーん!!」
「んだおら!!」
「おっさん!」
おっさんが落ちてった先の崖。そこからおっさんの声が聞こえる。
オレは安堵のため息をつきながら、落ちないように気をつけつつ崖に近づく。
フチの部分まで寄ると、そこには真っ赤な茹蛸みたいな顔をしながら、おっさんが必死になって崖にぶら下がっていた。
「良かったおっさん! 生きてたんだな!」
「当たり前だ! あんなもんで死んでたまるかってんだ!!」
自分の顔が思わず笑顔になってることを感じながら、オレはおっさんの捕まっている手を両手でつかみ、ぬかるんだ地面に滑らないよう踏ん張りつつ、おっさんが崖からよじ登る手伝いをした。
こうして、まるでハリウッド映画のワンシーンみたいなアクションシーンをこなして、無事、おっさんもオレも生還したのだった。




