赤ちゃんの作り方
夏が来た。
セミの鳴く声を聞いて、そう思った。
昼休みの時間、小学校二年生の健太は、校庭の木に止まるセミを見つめていた。
「健太―何してんだよ!」
一緒に鬼ごっこをしていた友人が駆け寄ってくる。
「蝉って生まれても一週間で死んじゃうんだって」
「知ってるよそんなの。はい次、健太、鬼ね」
と同時に、チャイムの音が鳴った。
「なんだ、つまんねえの」
夏の灼けるような日差しが、校庭に注いでいた。生徒達は校舎に戻っていく。
健太はまだ、命を燃やすように鳴く蝉を見つめていた。
「なんか教室臭くない?」
せせら笑うようにいじめっこの同級生が言った。クラスで清掃をしていた同級生たちは手を止め、騒ぎ始めた。
「くせえな!」
「ゴミみたいな匂いがするー」
いじめっ子たちは鼻をつまみながら、大げさに叫んでいた。同じくクラスメートである浩紀に聞こえるように。
健太もその騒ぎに気付き、掃除の手を止めていた。
「浩紀、お前ちゃんと風呂入ってるの?」
いじめっ子たちは、浩紀の目の前でからかうように言った。
確かに健太から見ても、浩紀は異様な匂いがした。汗と泥臭さが混じったような臭いだった。浩紀は毎日同じ服を着ており、書道の時間には道具を持っていないから授業が受けれないと、騒ぎになったことがある。
「もう学校来るなよ!迷惑だからさ」
浩紀は無視して、箒を動かしている。
「ねえ聞いてるの!?」
いじめっ子の一人が浩紀の箒を蹴っ飛ばし、
大声を出した。くすくす笑いが四方八方から起こる。浩紀が箒を拾おうと手を伸ばすと、いじめっ子が箒を踏んづけた。
「早く、箒取れよ」
すると浩紀は体を起こし、何かつぶやいた。
「浩紀君、なんて?」
それを笑い合ういじめっ子たち。
「聞こえねーよ」
浩紀は笑っているように見えた。
「赤ちゃんてどうやってできるか、知ってる?」
一瞬、教室が静寂に包まれる。
「何言ってんのこいつ?」
いじめっ子たちの笑い声が一層強くなる。
「やっぱ頭おかしいわ!」
すると浩紀はいじめっ子の服をつかみ、引き寄せて言った。
「なんだよ」
少し驚いているようだった。
「お前の母ちゃんと俺の父ちゃんやったらしいぞ」
教室が静寂に包まれる。その言葉の不気味さを、皆が感じていたのだ。
いじめっ子からは弄ぶような声色が消えていた。
「やったって・・・何を?」
「馬鹿だなあ。赤ちゃんができるってことだよ。俺とお前の、弟か妹ができるんだよ」
「何言ってんだよ!」
「お前の母ちゃんが産んでくれるんだろ?俺みたいに臭い子供」
浩紀の狂ったような笑い声が、教室に響いた。
そして何事もなかったかのように、浩紀はまた掃除を始めた。
いじめっ子は意気消沈したように立ち尽くしていた。やがてまた清掃が始まり、いつも通りの活気が戻っていく。
「すごい・・・」
健太は呟いていた。
「浩紀くーん!」
健太は浩紀を追いかけて言った。
「・・・どうしたの?」
健太は荒い息を吐きながら、目を輝かせて言った。
「浩紀君、歩くの早すぎ・・・」
「みんなと帰らなくて平気なの?」
「・・・たまにはね」
健太は浩紀に微笑みかけた。敵じゃないことを示したかったのだ。
どちらにしてもめんどくさいのが来た、と言わんばかりのため息をつき、浩紀は歩き始めた。
「浩紀君、すごかったね!」
健太も負けじと、ついていく。
「何が?」
「さっきのだよ!あいつら黙らせちゃうなんてさ!」
「健太君はあっち側の人間だと思ってたけど」
「・・・どっち側でもないかな、たぶん」
浩紀は健太を睨んで言った。
「そういうの、一番性格悪いと思うよ」
「・・・」
健太は胸の奥を針で刺された気がした。
そんなの、自分でも分かっているよ。
「僕、意気地がないから・・・」
「あのさあ!」
立ち止まって叫んだ。
蝉が鳴く声だけが、辺りに響く。
浩紀は呆れたようにため息をついた。健太にはその表情が大人びたものに見えた。
これだ。これが僕にはないものなんだ。
「もういいよ」
浩紀は歩みを速めた。
「待って!」
その声は虚しく響く。
何か引き留めなければ!
健太の脳裏にはさっきの浩紀の言葉が頭に浮かんできていた。
「さっきの・・・やったって、何をやったの?赤ちゃんができるって、何?」
浩紀はまた立ち止まった。
「浩紀君、教えてよ」
浩紀は前を向いたまま話した。
「・・・健太君は、知らないの?」
「・・・うん」
汗で滲んだシャツが嫌にまとわりつく。
浩紀は、いじめっ子のように笑った。
「健太君、何も知らないから、弱いんじゃない?」
「・・・それを知ったら、僕も浩紀君みたいに強くなれるの?」
「なれるよ。お母さんに聞いてみてよ」
浩紀は吐き捨てるように言い、健太を置いて歩いて行った。
「よいしょっと」
健太の母は大きなお腹を抱えながら、干した洗濯物が入ったかごをリビングに持ってきた。
「僕も手伝う!」
クーラーの十分に効いた部屋で、宿題をやっていた健太は言った。
「健ちゃんお兄ちゃんになるんだもんね」
健太の母は出産を二週間後に控えていた。妹が生まれるのか、弟が生まれるのかは内緒だそうだ。
健太は慣れない手つきで洗濯物を畳んでいった。ぐじゃぐじゃに洗濯物を畳んでも、母は健太を褒めてくれた。その母の笑顔が嬉しくて、健太はいくらでも手伝いをしてしまうのだ。しかし今回はそれ以外にも目的はあった。
「お母さん、赤ちゃんってどうやってできるの?」
忙しく動く母と時間を共有するのは、手伝いをするのが一番だった。
「うん?えーと、コウノトリが運んでくるのよ」
母は洗濯物を畳みながら言った。
「お母さんのお腹から生まれてくるのに?それってお母さんから生まれた赤ちゃんを、一回コウノトリに預けて、もう一回もらうってこと?」
健太は言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
「・・・まあそんなところ。変なこと、考えないの」
母は他にもやることがあると、リビングを出ていった。何かを隠している、そう思った。
だからこそ健太の頭にはその疑問が強く残ったのだ。
「ちゃんと宿題やりなさい」
母の声が聞こえた。
さすがお母さん、手伝いをすれば宿題をやらなくて済むかと思ったのに。
健太の帰り道には古びたホテルがある。駅前の再開発から取り残された、埃をかぶったホテルだった。そして今日はホテルの前に、制服を着た若い女性が、携帯をいじりながら立っていた。
健太はその珍しい女性に目を奪われていた。
「お姉さん、何か落とし物でもしたの?」
制服を着た女性は驚いたように健太を見ると、すぐに陽だまりのように笑った。
「大丈夫、なにも困ってないよ」
よく見ると、目鼻立ちのはっきりした美人な若い女性だった。
なんだかお母さんに似てるなあ。
「僕こそ、どうしたの?」
女性は顔を近づけて言った。
なんだか、妙に甘い匂いがする。
「なんでもない・・・」
顔が赤らんでしまったかもしれない。
「ちゅーしてあげよっか?」
ふざけるように女性は言った。
今度は間違いなく、真っ赤になっていた。
途端、健太は帰り道を走っていた。
「お母さん、教えてくれなかった」
「何を?」
「赤ちゃんの作り方」
「そりゃそうだよ」
浩紀は馬鹿にするように笑った。
浩紀と健太は、誰もいなくなった学校の屋上にいた。
「・・・お母さん、優しい?」
大人びていたはずの浩紀の表情が、少年の顔に戻った気がした。
「優しいよ。浩紀くんちは?」
「・・・うちお母さんいないんだ。健太君、いや、もう健太って呼ぶな。健太の家は勝ち組なんだよ。何もかも」
いつもの浩紀の表情に戻っていた。
「勝ち組?」
浩紀はどこか寂しそうだった。
「うちは・・・社会の負け組なんだ」
「負け組って、何それ?」
「何も知らないんだな。勝ち組の家の子供は」
そこに立っているはずの浩紀が、どこか遠くにいるように感じる。
「ちゃんと、赤ちゃんを作る方法、探してよ」
「うん、分かってるよ。そうすれば、浩紀君みたいになれるんでしょ?」
強い日差しがやけにうっとおしかった。
「・・・なんで全部、信じるんだよ」
浩紀は健太に背を向けた。
「俺な、お父さんがやり捨てした女から生まれたんだって。だから、大事にしないんだって」
浩紀は震える声で言った。
まただ。浩紀は大人びている。
僕もこういう表情ができるようになりたい。
しかし今の健太には、浩紀にかける言葉を見つけることはできなかった。
「お姉さん、なんでいつもいるの?」
ホテルの前にいる制服を着た女性に、健太は話しかけていた。
「仕事なの。君こそ、なんで毎日来るの」
「だって帰り道だし」
「・・・だからって話しかけなくてもいいでしょうよ」
「お姉さん、ホテルの前で立つだけの仕事なの?」
「ちょっと違うかな。お客さんの相手をする仕事」
「じゃあ僕もお客さんになれる?」
「君はだめだよ。小さいもん」
甘い匂いを発しながら、制服の女性は言う。
「さあ帰りな?お母さんが心配するよ?」
女性は健太を優しくなでた。
まるで母に撫でられたように、心が温かくなる。しかしここで負けてはいけない。
「ねえねえ、赤ちゃんてどうやってできるか知ってる?」
この人なら、教えてくれるんじゃないか。
「同級生にね、言われたんだ。それを知ったら大人になれるって」
「・・・その友達、すごい子だね」
「なんかね、お父さんがやり捨てした女性から生まれてきたんだって」
「・・・僕、意味わかって言ってる?」
女性の顔が一瞬固くなった気がした。
「・・・全然分かんない。でも大人になれるんだって。そういうこと知ってないとダメなんだって!」
「その子のお母さんは?」
女性は、妙に慎重な声で言った。
「いないよ。いつも臭いっていじめられてる。お風呂に入ってないから」
「君もいじめてるの?」
「そんなひどいこと、する子に見える?助ける勇気はないけど・・・」
女性はびいどろのような目で、健太を見つめた。
「君、いい子だから教えてあげる」
「何を?」
「赤ちゃんの作り方」
女性は急に、健太の頬にキスをした。健太の顔が真っ赤になった。
お母さんにキスされる時とは違う。
「またおいで。ここで待ってるから」
女性は弾けるように笑っていた。
その日は一段と暑い夏の日だった。セミが飛び、大小の虫たちが音を競い合っていた。
誰かが、春は命の季節だと言っていた。あれは嘘だ。偉い人が夏と言い間違えたに違いない。
健太はいつものように学校の帰り道を歩いていた。
今日も制服を着た女性がいた。健太は話しかけようとしたが、できなかった。太った男が後ろから追い越して、先に話しかけたからだ。その男は汗でビショビショのTシャツを来ていた。男が通り過ぎた後、まるで生ゴミのような臭いが健太を襲った。
「いくら?」
男はつばの溜まった口を動かし、女性に聞いた。
なんでこんな男の人が、お姉ちゃんに話しかけてるんだ。
健太は鼻をつまみながら、怒りを感じていた。
しかし女性はそのいかにも“悪者“の男に対して、笑顔で接している。なんだか、お金の話をしているようだった。
拍子抜けした健太を置いて、女性は躊躇もなく男性と腕を組み、ホテルの方に歩きだした。2,3歩歩くと女性は足を止め、健太を振り返った。
「ねえ、この子扉の前に座らせておいてもいい?」
「へえ、逆に興奮するかもねえ」
今にもよだれが垂れそうな口と下品にゆがんだ眼。
何かしたら、許さないからな。
二人についてホテルに入ると、入口の自動ドアが軋んだ音をたてながら開いた。途端、カビと埃を含んだ空気が、健太の周りを覆う。ホテルの中は汚れた土壁が続き、床にはゴキブリが這っていた。
健太は目眩がするような気持ち悪さを感じたが、力を入れて床を踏んづけていった。
二人は階段を上がり、受付で指定された部屋に向かっていった。部屋に入る直前、女性は健太に言った。
「君はここで待っていて?」
「どうして?」
「この前聞いたでしょ?赤ちゃんがどうやってできるのかって。ここにいれば分かるよ」
少年は怪訝な顔をした。
どういうこと?
そう聞くより先に、二人は部屋に入ってしまった。ドアが閉まる直前、男性が卑しい目と笑顔を健太に向けていた。健太の体に鳥肌が立つ。
この男性を一刻も早く地球から排除しなければ。
健太は玄関の前に、腕を組んでどすんと座った。
何分経っただろう。部屋の中から、女性の声が聞こえた。悲鳴なのか、喜んでいるのか分からなかった。
「お姉ちゃん大丈夫!?」
すぐに健太はドアを叩いたが、何も反応がなかった。健太が座っていたドアの前は、日差しが当たらない日陰になっていたが、30度を超える気温である。健太の頬と額に汗が伝う。
女性の声は徐々に大きくなっていった。健太は何度叩いても反応がない部屋の声に、耳を澄ましていた。まるでお気に入りのゲームをしている時のように。気がつけばさっきまで鳴いていた蝉が、静かになっていた。
なんだか変な気持ちになる・・・
いつの間にか、同じクラスの橋本美奈を思い出していた。健太は入学式でその白い肌とくりっとした目に一目ぼれをしていた。
なんで、美奈ちゃんを思い出したたんだろう。
一時間くらい経っただろうか。そろそろ母が心配するから帰ろう。そう思った時、ドアが開いた。
汗臭い、埃を含んだ空気が押し寄せてきた。女性は息を切らしながら火照った顔を見せた。あの男と同じ、ドブの匂いがした。泣いているような、しかし恍惚のような表情だった。
「これが赤ちゃんを作るってことなんだよ」
女性のすぐ後ろで、卑しい目をした男が何かをしている。
蝉の声が大きくなる。
女性は服を着ていなかった。
8月1日、妹・メイが生まれた。
体重2859gで健康な赤ちゃんだった。
よく泣いて何もできないけど、かわいいやつ。
健太はそう思っていた。
お兄ちゃんとして頑張らないと。
「健ちゃん!洋服一緒に畳んでもらっていい?」
母がメイを抱きながら、洗濯物をリビングに運んできて言った。
「うん!」
洋服を畳みながら、ふとメイを見るとあの瞬間を思い出す。数日前に体験した、赤ちゃんができる瞬間を。そしてあの綺麗な女性のいたいけな顔を。
「お母さん」
母はメイに子守唄を唄っていた。クーラーのついた快適な部屋で子守唄まで歌われると、健太まで眠りそうになる。
「なあに?」
「赤ちゃんができるのって嫌なことなの?」
「そんなわけないでしょ?お母さんは大好きなお父さんとの間に、かわいい健ちゃんとメイが生まれてきてくれてとっても幸せだよ」
母は笑った。
あれから、あの女性は見ていない。だからこそ、女性の泣きそうな、しかし恍惚の顔と匂いが脳裏に焼き付いている。
夜、家族が寝た後、健太は静かにすやすや眠るメイをなでた。よだれを垂らしながら、幸せそうに口を動かしていた。
夢の中で、何か食べてるのかな。
健太は笑顔になりながら、よく分からない気持ちで立ち尽くしていた。
ある日の午後、家族で駅前を歩いていると、いつかの女性がいた。大きく膨らんだお腹を抱えていた。
赤ちゃん、大きくなってる。
女性の顔はやつれ、目はうつろ、以前とはまるで別人のようであった。母のような陽だまりは、もう感じることができなくなっていた。
父とメイを抱えた母が、何か笑いながら幸せそうに会話をしている。女性は健太を見つめていた。
その目を、知っている。
「浩紀君と同じ目だ」
健太が呆気に取られていると、女性は醜い老婆のように笑った。大きなお腹には似つかわしくない、痩せこけた体が印象的だった。そのまま女性はおぼつかない足取りで、歩いて行った。
「行くよ、健ちゃん」
母の笑みを含んだ声が聞こえる。まだ小さい少年は、母の手をひしと握った。もう一度振り返ると、そこにはもう女性はいなかった。
顔のない群衆が、こちらを見つめている気がした。