1章 最愛のひと
「ふぅ・・・・。あと少しで味覚の完成だ」
末永源は、研究室に入り浸りになり、脳に埋め込んだチップの性能をさらに広げることにやっきになっていて、忘れていた。
ブブブブブ
左指がバイブレーションのように震えているように感じる。
「マジか」
源は、焦ったように思い出して、すぐにロッカールームに行き、スマホの履歴をみる。川添愛から着信が入っていた。源は右目を少しあげて、右上に設置してある脳内のデジタル表記の時計をみて、19:14だと認識した。
すぐに、メールを送る。
まだ、外部の音を取り入れるマイクのようなものを設置してもいないので、頭の中で源が考えたことが文字になり、マインドチップに伝達されるようになっている。
源が言葉を出してしゃべっても、マインドチップには文字として勝手に表示される。
だから、源の声には反応しても、外部からの音は、まだマインドチップには届かず、例えば、漫画のような効果音、ドカーンといった音も、源がドカーンと連想しなければ、文字として表記されない。
源が声を出した時でも、上手く表記されるとは限らない。
正しく文字をマインドチップに表記させるには、それなりの明確な集中力が必要になるのだ。
リンクさせていた自分のスマホ経由で愛に連絡メールを送るとすぐにメールの返答が返って来た。
「あなたの家と違ってわたしの家族は、夜に外出するなんて滅多にゆるしてくれないんだから、早く来てよね(絵文字)」
怒りの絵文字をメールでは付けてきてはいるが、相変わらず冷めた顔で皮肉を表現しているだろう愛の顔を思い浮かべると、恐ろしいと源は思い、すぐに着ていた白衣をハンガーにかけて、スーツを羽織る。
カバンを持って、急いでいる間に、最短距離をマインドチップで検索し、ルート案内させる。
ルート案内は、実際には音になっていないが、源には、ナビゲーションで聴こえるような女性の音声が頭の中で響いている。
1時間して、ブルーノート前の駐車場に辿り着いた。
20時開演のジャズライブに30分遅れて二人は、入って行き、愛は慣れたように、サービスの飲み物を源の分まで決めて、薄暗く雰囲気のあるスタジオホールの丸テーブルにふたりで座る。
アップテンポの数曲が終わるとサックスの割れた音が丁度良く響くスローバラードが流れると愛は、源の耳元に顔を近づけた。
「わたしがはじめて、源に聴かせた曲のこと覚えてる?」
小学4年生の時、愛は弟を事故で亡くしてまもなくの僕に、教会のピアノで一曲弾いてくれた。
その時の彼女は小さい手で大きく腕を動かして頑張って奏でていた。
弾き終わった後、愛は左目から大粒の涙を一粒流していた。
その時の僕は小さかったけれど、愛の優しい気持ちがなんとなく分かった。
「あの時の曲って何て言ったっけ?」
「What a wonderful worldよ」
https://www.youtube.com/watch?v=kkspJWyfNBA
女の子は、男の子と比べて、言語中枢が早く発達しやすく、とても賢い子もいると言われている。
4年生だった僕は、ほとんど何も考えていなかった。
愛に対しても、小さい頃から一緒にいた幼馴染であり、まるで兄妹のように教会で育っただけの存在で、今のように、特別な感情はなかった。
だけど、やっぱり弟のことは4年生だった僕にもさすがにこたえた。
死というものが身近に感じたはじめてのことだった。
愛は僕のことを気にかけてくれていたらしく、川添家の家のピアノを使って、一曲のジャズナンバーを僕に聴かせるために毎日練習していたのだとおばさんから聞いた。
女の子を特別にみたことはなかったけれど、その頃から愛を他の子とは違う目でみるようになった。
愛は小さい頃から強い意思を持ったひとだった。
無口で静かに物事をみて、幼い頃は、小さくて人形のような可愛い顔をしていた。
他人からみたら近寄りがたいところもあるのかもしれない。
たまに反応したり、笑顔になったりするだけだったけれど、どこからしら愛情を感じられる子だった。
なんとなく、観ていてくれるその視線が僕をやる気にさせもしてくれたから、尚更、特別な女性になっていった。
ライブで奏でられたサックスのテーマは、悲しい音を響かせていたけれど、それでも希望があると感じさせる泣かせる曲で、あの時、ピアノで弾いてくれた曲と共通していると確かに感じた。
「この曲も何だか雰囲気が似てるかもね」
「でしょ」
大人になった愛は、幼い時とは逆に屈託な笑顔をみせるようになった。
今もその笑顔を僕に見せてくれる。
悲しいことがある人ほど、前向きな生き方をしていると思わせてくれる彼女の存在は、男女だけの関係だけではなく、尊敬さえも抱かせてくれる。
弟が死んで悲しんだのは、うちの家族だけじゃなかった。教会に来ていたみんなが、まるで家族を亡くしたように悲しんだんだ。忘れたくても忘れることのできない出来事になった。
弟の死は、不思議だった。朝から元気よく遊んでいた幼い弟は、夕方になって、こどもが近づかないはずのボロボロの小さな工場内で発見され、何の外傷もなくうつ伏せになって倒れていたという。
どこも傷ついていないから、死に顔もとても綺麗だった。
死因は心臓発作ということになったが、今から思うとそんなわけがないと思う。
警察は、死因が判明しない場合は、心臓発作ということにして、解剖などもしないことの方が多いそうだ。
本当のことなのか知らないが、病死とすれば犯罪発生率を下げられるので都合がいいらしい。
交通事故件数が高い愛知では、明らかに事故死なのに、心臓発作の病死にしてしまう場合もあるというが、どうなのだろう・・・。
弟もその中の1例とされ、半分事故の心臓発作とされた。
ライブが終わると、愛は珍しく僕の腕に自分の腕を絡ませてきた。
慣れていない僕は、驚いて、少し体が固まってしまったけれど、愛は、なんだか嬉しそうにしていた。
建物から出て、聞いてみた。
「なんだか嬉しそうだね。どうしたの?」
「昨日ねー。わたし夢をみたの」
「夢?」
都会の光で見えにくくなっている夜空の星をみるかのように、笑顔で上を向いて片手を背伸びするように挙げながら、愛は答えた。
「その夢で、わたし、こどもを産んでいて、幸せそうに、その子にご飯を食べさせていたの」
「へぇーそうなんだ」
その内容を聞いて、源も愛と結婚してこどもが生まれ、その愛がこどもにご飯をあげているところを続けて連想した。こどもの口には、まだご飯が横についているようなイメージも付け足される。
「起きても、なんだか、幸せな気持ちが続いていて、それを源に話したかったの」
「そっかぁ。そういった暮らしいいかもね」
「でしょー」
「うん。いいよ」
「だから、30分も開演に遅れたこともゆるしてあげる」
源は、ドキっとした。
「やっぱり気にしてるんだね・・・」
「全然、気にしてないよ」
「全然、気にしていない人は、その話題を口にしないと思うけど・・・」
「ぜーんぜん、気にしてないよ」
女性ってやっぱりこういうことを後々も根に持つのかなと、少しゾッとした。
源は、そのまま愛を車で家まで送り届けた。
「哲さんに声かけてから、帰ったほうがいいかな」
「もう23時になりそうだし、別にいいと思うよ。源とライブにいくことは、ちゃんと言ってるしね」
「うん。あと、明日から少しプロジェクトが忙しくなりそうなんだ。だから、帰りとかも遅くて、電話とかもしてあげられないかもしれない。」
愛はまた笑顔で言った。
「前から電話とかしてこないじゃない」
ちょっとひきつった顔で、源も答える。
「まあ・・・、そうなんだけどね・・・もしかして、それも皮肉?」
「皮肉じゃないよ。お仕事頑張ってね」
皮肉にしか聞こえなかったけれど、いいとしよう。
「今日は、ライブありがとう。」
愛は、嬉しそうな顔をしながら、細い手を振って、車のドアを閉めて、家に入っていった。
家に入ったのを見送ると、源も家へと帰っていった。