霧の国の...
No.2
ボルジアファミリーの売春常習犯、マルコ・ロブソンは何者かの襲撃により、部下十数名と共に暗殺された模様。尚、拉致監禁されていた子供達は憔悴しており、軍警察の手により保護された。ここまでが新聞に載っていた記事の内容だ。
その後私達は軍警察に報酬を貰い、久々に枯渇した経済状況から脱却しのんびりと休暇を楽しんでいる。美味しいご飯にエステ、趣味の刀剣集めと私のメンタルは大いに回復している。
肌や髪は頗る健康で、肌を触ったり髪を梳いたりする度に悦楽を感じる事が出来る。行きつけの武器屋にも昨日顔を出したが、珍しい骨董品が入っていたので直ぐに購入してしまった。聞き込み調査に出掛けているユダが帰ってきたら、見せびらかしてやろうと思う。
上機嫌に風呂場を出て、下着だけを身に付け脱衣所を出た。
私の部屋は二階に一間、三軒程の広さがある。刀剣コレクションは別の場所にあるのだが、部屋は常に自分の好きな物で溢れている。可愛いぬいぐるみだとか、好きな配色やデザインの家具。プルメリアの花が好きで、窓際に置いて育てていたりする。仕事のない時はこの部屋で日がな一日ぐうたらする事にしているのだ。
今日は紅茶でも飲みながら、読書でもして過ごそうか、それとも激しい音楽を聴きながら、街中を散歩するか、決めあぐねている。
そうこう考えている間に部屋の扉の前まで来ていて、扉を開く。すると部屋の中央のテーブルの前にユダが一人、背を向けて座っているのが見えた。
「ユダ…?帰ってきてたの?」
「ソフィア。少し話が…」
振り返った彼は、私を見た瞬間に硬直し、視線をキョロキョロと泳がし始める。その挙動の理由に気がつくのに時間は掛からなかった。
「あっ…!ご、ごめん。…ってなんで私が謝ってんの!私の部屋に勝手に入ったのはそっちでしょ」
「緊急の用事だ。それにここまでその格好で歩いてきたなら、だらしないのはソフィアの方だぞ。服ぐらい着ろ!」
正論なので、反論出来なかった。行き場の無い感情をユダに視線で訴えかけるも、やはり目を合わそうとはしなかった。
いつものお気に入りの服に着替えながら、ユダに問う。「それで?緊急の用事ってのは何?」視線を逸らしたまま「あぁ…。マルコの件の時に得た証拠を元に探ってみた所、地下街で腕利きの情報屋を見つけたんで、アポイントメントを取って話を聞くことにした。ソフィアにも付いて来て欲しい」早々に着替えを済ませ、テーブル越しにユダにずいっと押し寄り「へぇ…。場所は指定してあるの?まさか地下街でじゃないわよね…。私あそこ苦手なんだよね〜…」
するとユダは首を横に振り、ニッと白い歯を見せて笑って見せた。
待ち合わせ場所は、珍しくユダが気を利かせ。中間区で知らない者は居ない名店【ウーノ】でだった。
この店は私がユダと知り合う前から、彼が良く利用していた店で、昼間は喫茶店、夜はバーとして運営している店舗である。店のマスターの名はドゥーエ。綺麗な金髪に整った顔立ち、華奢な身体付きですごく気の利くオネエの彼女は、ユダの古い友人。時折戯れてはユダにあしらわれる場面はお馴染みである。
そしてもう一人、銀白に輝く髪に小麦色の肌、鼈甲に輝く瞳をしたエルフの女の子。フロルだ。彼女は私がユダに拾われたのと同時期に、ドゥーエさんの養子としてこの店に来たのだ。少し前までは無口で無表情の話し掛け辛い子だったが、ドゥーエさんの愛情の成果か、ここ最近は元気そうで学校にも通っているらしい。
店は私達の教会からそう遠くはなく、繁華街から少し外れた広場の隅にある。煉瓦造りの雰囲気ある外観。店内は照明が落とされ、隠れ家の様な面持ちがあり、テーブルや椅子はバークブラウンのシックな作り。因みにこの店の特徴は季節やドゥーエさんの気分により店内のインテリアがガラリと変わる事でもある。
数ヶ月ぶりに来たウーノは相変わらず繁盛していて、その殆どが常連客。仕事を終えた繁華街の店主達や、近郊に住む市民達が杯を交わしていた。
来店に直ぐに気付いたドゥーエは、目を輝かせ此方にゆっくりと歩み寄る。
「いらっしゃい。久し振りね。早速報酬金を落としに来てくれてありがとう」
「何もかもお見通しか。だが今日は仕事だ。ある人物と待ち合わせしてる」
「なんだ…。厄介ごとだけは持ち込まないでね?ささ、ソフィもお腹空いてるでしょ。席は空けてあるから」
「ありがと。ドゥーエさん、私いつものね」
カウンター席に案内され、席に着くと、ユダの横の席には【予約席】と書かれた札が立てられた。そこに件の情報屋が現れるまで待つ訳だが、正直言うと私は仕事よりも食気の方が勝っている。何せドゥーエさんの料理はこの界隈では右に出る者がいない程美味しいのだ。
ここのメニューは大方食べ尽くしたが、私が特に好きなのが牛肉の部位「ミスジ」を使ったステーキ。私はこれを塩のみで味わうのだ。仕事を頑張った自分へのご褒美、最後の締めがこのお店で良かったと心から思う。
「仕事、終わってから頼んだ方が良かったんじゃないか?」
横からユダがジロリと睨み、水を差す。
「このお店に来て直ぐに注文しないなんて、椅子に縛り付けられてるも同然じゃない」
「飯が不味くなってもしらんぞ。恐らくこれから聞き出す事柄はこの市国の暗部に触れるものだからな」
「えっ…。私の過去ってそんなヤバい山なの?」
「ソフィアが悪夢で見た、施設の様な建造物を探ってみたんだが、薬物や非合法な物を製造している工場は数多くあれど、人体実験の類の施設は現在と過去を含めても例がない。更に言えばボルジアとの関連性は限りなくゼロに近いな」
「じゃあマルコはホラ吹いてたのか…。あのヘンタイめ、死に逃げとは…やってくれる」
「ただ、ロドリゴの息子どもが単独で何かしてる可能性はある。そっちも探ってみるよ」
タバコに火を付け、紫煙を燻らせながふと思った。ユダはボルジアの内部に詳しい。浮かんだ疑惑に、周囲に漂う仄かなアルコールが鼻腔を刺激し、口に出さずにはいられなかった。
「ユダってさ。ボルジアお付きの殺し屋だったの?なんか詳しいみたいだし」
ユダは少し驚いた様子だったが、頷き。「若い頃から買われてた。俺は目が良いからな、狙撃で外したターゲットは居なかったさ」と懐かしむ様に喋ってくれた。彼の口から殺し屋時代の話が少しでも聞けたのが、ちょっとだけ嬉しかった。
「あの頃のユダは今とは完全に別人ね。乱暴でガサツで…随分丸くなったものね」
食欲を唆る匂いと共に、ドゥーエさんがカウンターから顔を出し微笑む。
「そこまでにしとけ。昔話はあまり好きじゃない」
煙たがるユダの横の席、予約席と書かれた札を退ける手が見え、剽軽な声が訪問者が誰かを示す。
「是非とも聞きたかったんだがな。伝説の殺し屋さん。いや、今は神父さんだったかね?」
噂の情報屋だ。ストライプのグレーのスーツに、ハット。黒髪パーマヘアの、声の通りの青年だった。彼は席に腰掛けるとマティーニを注文し、身体ごと此方に向き、ハットを取って会釈する。
「さて、僕が情報屋のジャックだ。今日は一体どんな情報をお求めかな?」
「来てくれてありがとう。俺の名前は…言わなくても分かる様だな。こっちはソフィア、シスターをやってもらってる」
「形式だけだけどね。よろしく」
ジャックと名乗る男を一瞥し、出されたステーキに塩を振りながら答えると、彼は一瞬瞼をピクリと震わせ、笑顔で「可愛いシスターさんだ」と真っ直ぐに顔を見つめてきた。
「我々が欲している情報を単刀直入に言おう。人体実験に関連する人を収容できる施設。そして人種に関係無く、特殊な異能を持つ人々の事について、知っている事柄があれば教えて欲しい」
「へぇ…。それで、その報酬は幾らくれる?」
ユダは持参してきていたバッグから、札束を無造作にカウンターの上に数束置いていく。
「これで足りなければ、そちらの周囲の問題を解決するというのはどうだ?探し物から人を消すのも探すのもやろう」
二人の間にしばしの沈黙が続いた後、ジャックはその際に出されたマティーニを飲み干し、無言で席を立った。
「悪いがその相談には乗れない。他を当たってくれ」
「何故だ。不満があるなら応える」
「不満か…。あるとすればただ一つ。厄介ごとは御免だね」ハットを手に取り、代わりにカウンターにマティーニ代だけを置くと、彼は深くハットを被り囁くような小声で「一つだけ忠告しとこう。マルコの件でボルジアは君達に報復を試みるだろうね。獣人の用心棒に気をつけた方が良い」とだけ言い残し去っていった。
「行っちゃったね。残念」
このやり取りの中、ステーキを食べ続けていた私に、ユダはため息を漏らし頭を掻き抱える。
「あのなぁ…。自分の事なんだからもうちょっと緊張感をだな…」
「このお店を選択したユダのミスね。内容は聞いてたから大丈夫大丈夫。ドゥーエさん、ユダにお酒と何か出したげて。私はジェノベーゼ追加で」
この時私は完全に仕事モードをオフにしていた。何より疲れていたし、周辺に漂うアルコールの香りに、耐性のない私は少し酔っていたのかも知れない。この事を後で後悔することになるとは、この時は考えもしなかった。何せ記憶が定かなのはここまでなのだから。
ソフィアはアルコールに極端に弱い。まさか匂いだけで少し酔っていたとでも言うのだろうか。ジェノベーゼを食べつつ、俺の飲んでいた酒を水と間違えてのんでしまうとは、やはりこの店を選んだのは失敗だったか。
「ぐっすり寝てるわ。今日はユダも泊まって」
「すまない。フロルにも悪い事をしたな」
酔い潰れたソフィアはフロルの部屋で寝かせてもらっている。快く引き受けてくれた彼女にも感謝しなくては。
「良いのよ。たまには遊んでもらわないとね」
「変に絡まれてないと良いが」
客のいなくなった店内は妙に静かで、ドゥーエと二人で酒を呑むのが若干気恥ずかしい。こいつとは長い付き合いだが、見た目だけは良い女で、ここにくるドゥーエのファンの気持ちが少しだけ分かる気がする。
「なに…?そんなにジッと見て」
「いや、懐かしいなと、思ってな」
微笑むドゥーエから視線を逸らし、グラスに視線を落とす。すると耳元で囁く様に「酔った…?寝る?」とドゥーエが口元を緩める。酔っているせいもあるが、その声色が妖艶に感じたのは、狙っての事だろう。
「変な言い方するな!その辺の椅子で寝るから俺には気を遣わなくても良い」
「相変わらず、自分には厳しいのね。…あの子が居るから…?」
あの子。とはソフィアの事だ。その言葉を発したドゥーエの口元や表情に緩みは無く、真に迫る表情だった。
押し寄せる罪悪感。
「厳しくなんかあるものか…。俺は自分に甘過ぎる」
「もう許しても良いんじゃない?昔馴染みとして、貴方がいつまでも自分を戒めているのは、あまり見たくないの」
「……。ソフィアの記憶を取り戻したらな」
若い頃は、親も居ないしこんな街だから自分で自分を守ったり、金を稼いだりするので精一杯だった。その為に銃の扱いも覚えたし、生きる術も教わった。
数え切れない程の命を奪い、得た端金。酒とタバコ、女遊び、端金はそんなくだらない事ばかりに使い込んで、いつの間にかボルジアの犬に成り下がっていた。それを突き崩したのは、ライバルと呼べる旧友と、彼女との出会い。
真っ当な人間になれるかも知れない、なんて淡い夢を見たばかりに、その全ては業火に包まれる。沢山の人の命を奪った男には、当然の報いだったのかも知れない。
鈴の音の様な声で、私は目覚めた。
知らない天井、いや…何度か見覚えはある。観葉植物系の清々しい空気に、自分の部屋でない事は明らかに分かった。鈴の音の様な声は止まない。次第にそれはハッキリと聞こえる様になり、私の名を呼んでいるフロルの声だと気付いた。
目が覚め、素早く上半身を起こすと、やはりそこはフロルの部屋だった。オシャレできちんと整頓された室内。洗礼されたインテリアコーディネート。隣には寝間着姿のフロルが不安げに眉を顰めて此方の様子を伺っている。
「あー…。おはようフロル。私寝ちゃったみたいだね、お店で」
「ううん。それは母さんから聞いてたから良いの。それよりお店の方が…」
意味は直ぐに分かった。下の階から聞こえるユダとドゥーエさん、そしてもう一人、聞いたことのないハスキーな声。時刻はまだ早朝で開店前のはず。
フロルの顔を見直すと、私の服の袖をぎゅっと握りしめた。どうやら招かれざる客の様だ。
「フロルはこの部屋から出ないで、私が見てくるから。ドゥーエさんを直ぐに来させるから、安心しててね?」
「うん。あ…け、怪我しないで、くださいね」
指遊びをし、どもりながら鈴の音の様な声で小さく呟くフロルに、私は無言で微笑んで見せた。
部屋を静かに出て、廊下を足音を立てぬ様に注意しつつ進む。すると、少しずつ下の階の会話が聞き取れてくる。
「証拠は上がってんだ。大人しく着いて来た方が身の為だぜ」
「ボルジアが裏切り者を生かして返すとでも…?マルコとかいう男を殺したのが俺だとしても、その相談には乗れん」
「頼むぜ、兄さんよ。俺も雇われの身だ。なるべく争いたくはねぇ」
ハスキーな声の主とユダが言い争いをしている様だ。内容から察するに、マルコの報復に殺し屋か何かを雇って使わせたのだろうか。会話は続く。
「じゃあ帰る事をお勧めする。ここは食事処だ。物騒な話を持ち込むのは、良くないだろ?」
「わかんねぇ兄さんだなぁ。よし、じゃあ俺はアンタが折れるまでここを動かんからな!飯食うから、出してくれ」
「悪いけど、まだ開店前よ」
階段を降り切ると、腕を組み呆れ顔のドゥーエさんが見えた。その向かいのカウンターにユダ。そしてユダが視線を向ける先には見知らぬ人影。いや…人ではない。
寝ぼけ眼を凝らしてみれば、その姿は獣人だった。身長は優に二メートルはある。全身青味がかった灰色の毛並みで、体格も隆々。髪を手入れしている様子はなく、ボサボサで伸びきった長髪。その髪から覗く顔は狼のそれで、牙は鋭く鈍色に輝いていた。それに比べ、眼球は白濁しており、完全に機能を失っている様に見えた。
それと、目の周辺が爪で引っ掻いた様な傷が無数にあり、何故かそれが心の何処かに引っかかった。
「ドゥーエさん、ユダ、おはよ。ドゥーエさんお水ちょうだい」
その場の空気に強引に割って入る。欠伸を手で覆い、人狼の男が座った横にしれっと腰掛ける。ドゥーエさんは呆れ顔でため息を吐き、水をグラスに2人分持って歩いてくる。
「お店は、壊さないでね」
「ありがと。あぁ、そうフロルが呼んでたから行ってあげて」そう言うとグラスを口元に運び水を飲み干す。ユダはメガネの奥から目を光らせ、此方の様子を黙って見ている。同じく人狼も、腕組みをして踏ん反り返っているだけで沈黙している。
「さてと…、貴方名前は?」
「フン、俺に名前なんざねぇ。グライド・ボム・ケイオス…そう呼ばれてたが、こいつは名前なんかじゃねぇ」
「グライド・ボム……。え、もしかして貴方さ、獣人街のボスのグライド?」
そう、獣人街には獣人達の身を守る獣人だけの自衛団が存在する。他の種族から見れば、それは所謂マフィアの様な風貌に近いと感じるだろうが、彼らは自らの縄張りだけを守護する団体として有名だ。
「あぁ…、いつの間にか頭になってただけの話だ。ボルジアにはちょっとした義理があってな。だが、俺も馬鹿じゃねぇ。条件次第じゃ身を引くのも有りだ」
「へぇ…、案外話の分かる人ね。で、いくら?」
「ボルジアからはこれだけ貰う予定だ。それ以上なら文句はねぇ」と、大きな掌を広げて金額を表す。指五本で五億、この数字はとても私達の手の届く範囲ではない。
グライドの掌を見て固まり、ゆっくりとユダの居るカウンターを振り向く。彼は頭を抱えたまま、小さく首を横に振る。
どうしたものか、と腕を組み眉を顰めていると、グライドはスッと立ち上がる。テーブルに置かれたグラスを手に取ると、大きな口へと水を一気に流し込み飲み込む。
そして、呆然と見上げていた私に視線を戻し、「だったら話は簡単だ。俺は自他共に認める戦闘狂でな、お前が俺を打ち負かせば今回は手を引こう」
白濁とした眼に光は無いが、それは間違いなく獲物を捕らえた獣の物だった。ただ、不思議と恐怖は感じない、悪意のない純粋な闘争心が感じられた。
私としても、こういった相手は戦い易い。それで納得がいくのなら、相手の流儀に従おう。
ユダを一瞥すると、此方を真っ直ぐに見て頷くのが見えた。戦っても構わない、と解釈し、私も重い腰を上げ、タバコを取り出して唇で食む。
「店の前は広場だから、表でやるよ」
タバコに火をつけ、先行して店を出る。その背後を無言で付いてくるグライド、しかしその表情は嬉々しており、口元は緩んでいるのが見えた。そしてグライドの背後には、少し離れてユダが付いてきている。
【ウーノ】の前の広場は円形で開けた作りになっており、周囲には同じ様に飲食店や雑貨屋、服屋等が円を囲む形で並んでいる。
外に出るとまだ日が昇ったばかりの様で、広場には誰一人居ない。薄っすらと霧が立ち込め、光を反射に目を細める。湿度を含んだ空気が身体を包み、朝である事を知らせていた。
「こんだけ広けりゃ十分暴れられるな。万が一何かを壊した時はウチの連中に頼めば良い。普通は人間共の頼みなんざ殆ど聞かねぇけどよ、俺の顔見知りは無下には扱わねぇからよ」
グライドは言いつつ、広場の中央の噴水を挟んで、私と対峙する様に移動し、振り返ると両拳をガツンと合わせて口の端を吊り上げる。
「覚えとくわ。さて、武器の使用の有無はどうするの?」
タバコを吹かしながら、私も広場中央へと移動する。ユダは店の前で扉に背を預けたまま様子を見ている様だ。
「俺はお前が強いと分かった時だけ得物を使う。お前がどうしようが俺は構わんね」
「そう、じゃあ私も貴方と同じ条件下でやらせてもらうわ」
両足をしっかり地面に付け、脚を開き腰を落とす。グライドは何も答えない。既に広場は決闘場と化した。
先に仕掛けたのは私、先手必勝は専売特許。相手は獣人と言え、私の身体能力は獣人のそれをも凌駕する。それを見せつければ優勢になるだろう。
石畳を踏み付け、一気に加速する。クロスレンジに瞬時に飛び込み、右ストレートを繰り出す。この石壁をも粉砕する拳を、グライドは事もあろうに。
「ウソ…」
受け止めた。しっかりと掌で拳を抑え込み。グライドは鼻をスンスンと鳴らし、頭を傾げた。
「まさかとは思ったが、やっぱり同類か。こりゃあ手加減できねぇかもな」
この獣人は私と同じ、身体能力、再生能力が異常に高く、特殊な能力を持つ者だと、直感で察知した。
掴まれた拳を引こうとするが、それどころが逆に手を引き上げられ、足は地面から離れて宙吊り状態になってしまった。
「成る程な、身長は百四十五センチって所か、ずいぶん小せぇな」
失明しているグライドは私の身長を持ち上げただけで言い当てた、さらに「んで、その牛みたいにデカイ乳はなんだ?」と私のコンプレックスに触れた。
怒りに身を任せ、空いている左手で掴まれているグライドの腕に手刀を繰り出す。しかし軽く避けられてしまった。結果的に私は解放され、すかさず距離を取る。
「ハッ、安心しな。人間みたいに貧弱な生き物の女は興味ねぇ」
グライドは呆れた風に肩を竦め、伸びきった前髪の隙間から白濁の眼球を覗かせる。どうも彼は、獣人である事に誇りを持ち、他の種族を下等だと思っている節がある。
「それは良かった。私もワンちゃんに尻尾振る程ビッチじゃないからね」
ならば、この手の挑発に乗るかどうか。もし堪えたとしても、ストレスは感じる筈だ。
「狼だ、犬じゃねぇ。そんな事はどうでも良い。テメェ、出しな。能力があるのなら、お互い手加減は無しだ」
乗った。乗ったは良いが、少々効きすぎた様子がある。
感覚ではなく、実際に周辺の空気が重いという違和感に襲われた。更に胸が焼けた様に熱くなって行く。この現象は自分が能力を使った時と類似している。
グライドは武器を取り出す訳でもなく、拳を握り締めたまま、獣の咆哮を轟かせ突進してきた。その速度は私の加速と同等かそれ以上。
即座に白い十字架の杖を召喚し、グライドの拳を防ぐ。汽車が衝突した様な衝撃に足が浮き、広場の隅の建物の外壁まで吹き飛ばされ叩き付けられた。
「武器で防いだのは賢明な判断だったな。それ、ボン」
グライドの声に杖に目をやると、拳を防いだ部分が光を蓄え爆発を起こした。咄嗟に杖を離して転がり逃げる。
「…っ。今のは、貴方の」
「そうさ。俺は殴った場所に爆弾を仕掛け、自在に爆発できる。こんなしょうもない事が出来る代わりにこの有様だ」
グライドは目元を指差し、自身の能力が視力と引き換えだと言う。しょうもないなどと言うのなら、何故。
「何故、そうなったの?望んだ事なの?一体何処で、どうやってそんな能力を––」
「あぁ?なんだテメェ。自分の事だろが、まさか覚えてねぇ訳ねぇだろう」
何も言えなかった。グライドを目にし、対峙した今、得も言われぬ不快感に苛まれいる。しかし思い出せない。思い出してはいけないと、本能が拒む様に、頭痛を感じるほどに考えを巡らせた所で、なんの記憶も蘇らないのだ。
それを察したのかグライドは地面を砕けるほど踏み締め、怒号を上げた。
「あの地獄を忘れたってのか!?俺もお前が誰かなんてのは覚えちゃいねぇが、あの地獄だけは忘れやしねぇ!散々拒み続け、目を潰しても再生して、いざ自由の身になれば視界は真っ暗だ!地獄は見てきたが、自由な世界は見れないなんてな。笑えやしねぇ」
彼の叫ぶ声に、肩を縮めて杖を抱く。ダメだ。完全に今の私は戦えない。何故だか分からないが、グライドの言葉は全て私の胸を抉る凶器の様に鋭かった。その凶器に抵抗する術もなく、滅多刺しにされた。その言葉に含まれる絶望と畏怖を、私は知っているからなのだろう。
「どうした。早くテメェの能力を見せてみろよ。まさか使い方まで忘れたなんて言わねぇよな」
近付く足音。完全に気力を失った私は胸ぐらを掴まれ、またも軽々しく宙に浮かされてしまう。グライドは白濁の目から憎しみの感情をぶつけて来る。それがなんだか申し訳なくて、何度と無く掻きむしった目元の傷から視線を逸らす。
「この勝負は、俺の勝ちだな。あばよ、兄弟」
結局の所、私の力量はこの程度なのだ。昔からそうだ、仲間や、親しい知人が苦しい思いをしていると、私は何処までも弱くなる。虚勢を張り、強くあろうとする自分は消え去りマイナスな思考に囚われる。私は彼を救えない。一緒に逃げ出すぐらいしか出来ない。
彼を…、グライドを救いたい?。何でだろう、初対面の獣人に対して、何故こんな気持ちになってしまうのか。
自分の事などどうでも良いと、勝敗などどうでも良いと思うのだろう。
一緒に逃げ出す…?。
瞬間、脳裏に浮かぶ映像。顔面を血で汚し泣き叫ぶ獣人の子供の姿を…。
聞かなければ。「貴方は」胸ぐらを掴む腕に手を掛け。「私を」意識を集中させ、自身の影から惜しみ無く無数の黒槍を突き立てる。
「知ってるはず、この能力を…!教えてもらうわ…!」
不意をつかれた攻撃に、グライドは無数の黒槍を躱す術もなく串刺しにされる。だが、彼が私と同じならこの程度で絶命する筈が無い。隙を見て距離を取ると、今度はしっかりと杖を構え直して臨戦態勢を維持する。
「ハハッ…。痛てぇな、全くよ。思い出すまでもう少し付き合っってもらうぜ!」
ゆっくりと身体を抜き出し、血塗れのまま此方に向き直る。戦いは直ぐに始まった。
先行したのはグライド。傷を負っているが、先程と変わらぬ駿足で駆け、一気に間合いを詰めてくる。私も彼も、この距離がベストの攻撃距離。互いに拳を、杖を振り上げる。
同時に繰り出された武器は鈍い音を響かせて交わる。流石に獣人だけあってパワーは彼の方が上だ。鍔迫り合いには敵わないと判断し、受け流して距離を取る。
「離れても無駄だっ!」
爆発。判断が遅れ、爆風と炸裂した何かの破片を体に受ける。しかし膝は地には付けなかった。私もこの程度では負けられない、と睨み付け、彼の足元から黒槍を突き上げる。
「チッ…。厄介だな…」
掠めた程度で躱した。音無く、影のみから出現させられる黒槍はグライドには相性が悪いのか、苦い表情をしている。
立て続けに、後退する足元から奇襲する。フェイントを二回掛け、背後から本命。三撃目は見事肩を貫き矛先を私に見せた。
「おもしれぇ…っ」
口元を吊り上げ、刺さった黒槍から抜け出すグライド。
「こっからは、俺もマジで行くぜ…!」
コートの中から取り出された棒と矛先、それらを簡単に組み立てると、慣れた手付きで振り回し切っ先を此方に向ける。そのグライドの身の丈程ある槍には一つ、奇妙な部位がある。槍なのに何故か、弾倉が備え付けられている事だ。何かしらの仕掛けがあるに違いない。
再び先行はグライド。切っ先を向けたまま突進してくる彼を迎え撃ち、初撃は突きと見切っていたので身を捩り躱す。と、空を突く矛先が凌ぎ部分から二つに割れるのが一瞬映る。
瞬間、爆風と何かの破片が矛先から炸裂し、地面に身を打ち付ける。
直ぐに態勢を立って直し、グライドから飛び退く。逃すまいと追撃、先程より間隔を空け回避。再び開く矛先と、地面を穿つ爆発、回転する弾倉。それを見て納得した。
この武器はグライドの能力に合わせて作られた、破壊だけを目的とする武器だと。彼の能力を最大限発揮する槍。恐らくあの弾倉には能力で作られた爆薬が仕込んであり、攻撃と共に炸裂させるもの。もし、あれをまともに受ければ、即死、又は出血多量によりショックで気絶し戦闘不能になるかだろう。
黒槍で防ぎながら距離を取り続けるも、グライドの猛攻は終わらない。このままではいずれ押し負けてしまう、だが付け入る隙もなく、命中の有無を問わず炸裂する爆弾に近寄る事すら出来ない。
策がない訳ではないが…。今の私に出来るのか。
「どうした!防いでばかりじゃあ、この槍を出した意味がねぇじゃねぇか!」
「うるさい!今考えてるんだから、キャンキャン吠えるなっ!」
吼えるグライド。策を練ってるのに急かされたのに苛立ち、つい口が滑る。それが功を奏したのか、彼は両耳をピクリと震わせ、動きを鈍らせた。好機は来た。
杖を上空に放り投げ、それに続き自身も地を蹴り跳ね上がる、身体を柔軟に捩り、防御用に黒槍を突き上げ、十字架の杖を逆さに持つ。
この杖には一つ秘密がある。私が刀剣の扱いを覚えたのも、これがあるからだ。能力で作られ実体化した杖は鞘の状態。能力を最大限に発揮した時のみ、この杖は鞘から解放され剣となる。真っ白で光を含んだ片刃の長剣。それが今私の両手に握られている。
形勢逆転。完全に後手に回ったグライドは、上空の私を睨み槍を構える。
落下と共に振り下ろされる長剣、交わる刃。途端、目を焼くかの様な光が弾け、両者とも吹き飛ばされた。私は中央の噴水に、グライドは向かいの店に。
瓦礫で埋まる視界の奥で、グライドの声がする。
「クソッ…。二つの……なんて…ねぇぞ!」
よく聞こえないなので、焼けて軋む体に鞭を打ち、瓦礫を退けて起き上がる。するとグライドは目の前に仁王立ちしている。手に槍は無い。
「まだ、名前を聞いてなかったな」
殺気もない。意図が読めず、小首を傾げながらも「ソフィア…、貰い物の名前だけど」と見上げて答える。するとグライドはがさつにその場に座り込んで胡座をかく。
「俺はお前が気に入った。確かに俺達と逃げた兄弟だ、だが生憎俺は目が効かんからな、匂いも知らねぇし…、お前が誰か迄は分からねぇ。だが探してれば近い内に、自分が何なのか分かるだろうよ」
シシっと歯を剥き出して笑う。なんだが調子が狂う。さっきまで殺し合っていたのに、こんなに親しげに話すなんて考えられなかった。目を白黒させて黙っていると、グライドは続けて喋り出す。
「あぁ…。んで、気も変わった。ボルジアとの貸し借りも今回の件は無かった事にする。どーせ下っ端の名目だけの後処理だろ、どうとでもなる」
「え……。それって、無条件で手を引くって事?」
驚いた。この人狼に対する印象が百八十度ガラリと変わってしまった。もしかして、本当は良いやつで、拳でしか会話できない様な類の人なのだろうか。
「どうやら、決着はついた様だな。お疲れソフィア」
駆け寄り、ずぶ濡れ黒焦げの私を気遣い手を差し伸べるユダ。彼は決闘中、只々黙視しているだけで、手は出さなかった。当然と言えば当然なのだが、少し癪だ。
私は手を払いのけ、一人で立ち上がると唇を尖らせ「見逃してくれるんだってさっ」と拗ねて見せた。すると、困るユダを尻目に座り込むグライドが顔を緩ませ、小指を立てて「お前らこれか、良く我慢して見てたな神父さんよ」と冗談にもならない事を口走る。ので、中指立てついでに黒槍も股の間から突き立てといた。にも関わらず、彼は尚も顔を緩ませたあままで、悪びれる様子もなく思ってもいない謝罪を口にする。
グライドとはその後、獣人街の自衛団の所在地と電話番号と、私達の根城の教会の住所等を交換した後に直ぐに分かれる事になった。ただ、彼は仕事で動く人なので、その時々で再び敵に回る事も出てくるだろう。そうなる事を覚悟しつつの別れだった。
壊れた建造物を修理は、自衛団の手により数日もしない内に迅速に完了し。その後、私達に付いたボルジアの監視の目も消えた。グライドの言うとうり「マルコの館が潰された」という事実は闇の深淵へと葬られる形になった。
まぁ、この様な出来事は割と日常茶飯事であり。驚くべく事も特に無いのだが、今回はあまりにも収穫が多かった。
ここ数年、探しても足取りさえ掴めなかった過去に関する記憶。それがたったの数日で、同類に出会すまでに発展した。自分が何者なのか未だに分からないままだが、グライドの記憶を無くした私に対しての憤る様を思い返せば、その事実が残酷この上ない事は容易に分かる。
それでも、記憶を取り戻す。知らない方が良かった事だとしても、自身の事を把握していないのは不快であるし、恩を返すという目的もある。
一時的に戻った平穏を噛み締めながら、今日も私は教会でシスターの真似事をして、暇を潰すのであった。
アレと戦って直ぐだ。自分としては上手くやれた。だと言うのにそいつは物陰から笑いを堪えている。
「随分と上手い演技じゃないか、グライド」
物陰に潜む者を横目で睨み、深く溜息を吐いて頭を掻く。「はぁ、どっから見てた。ジャック」
名前を呼ばれ、堪える必要がなくなったのかゲラゲラと笑いながらそいつは現れた。情報屋のジャック、俺と奴は腐れ縁で、頭の上がらない兄貴の様な存在だ。
「全部見させてもらったよ。カッコ良かったじゃないか」俺の頭に手を伸ばすと荒っぽく頭を撫でてきた。普通なら払いのけるが、ジャックには恩義がある。とは言え照れ臭い事なので、鼻を鳴らして顔を背ける。
「で、間違いないのかい?彼女で」
「あぁ…、間違いねぇ。元気そうで良かったぜ」
「そうだね。ただ、こちら側に戻ろうとしているのは良くない。忘れてしまったなら、その方が良い」
ジャックの言い分は最もだ。俺もあの地獄を忘れられるなら、忘れてしまいたいと思う。だが…。「アレは脆そうに見えて強い。思い出す事を拒んでるかと思いきや、無理矢理畏怖を押さえ込んで向かって来た。俺はアレが何処までやれるのか、見たくなっちゃまった」
そう、あの時の声には確たる意思が灯っていた。絶対に教えてもらうと、俺には聞こえた。
「ふむ…。どうにも止めないつもりか。僕には厄介ごとが回って来なければ良いけど」
「ケッ…。アンタはいつもそればかりだな。まぁ、無理もねぇだろうが」
「そい言う事さ。僕は平和が一番好きだからね」