〜第三章〜
「……あの白髪の彼に見つかったら恐いでスし、やっぱり寝静まる夜まで待つ事にしましょう」
苦笑いを浮かべるシュリ。どうやら逃げ切れたとはいえ、白に追いかけられたのは相当恐かったようだ。
「はっ! わしは一体――」
「ビシッとぉ!? ……彼もどうにかしないとでス」
手刀で再び気絶させたノルマンを、とりあえずは入口まで運ぼうと思うシュリであった。
ここロドニアには、昼や夕方というものは存在しない。
太陽が三つ子月に代わるまでが朝であり、三つ子月が太陽になるまでが夜なのだ。
今の腹の減り具合から二回目の朝食の時間だと予想し、リングと緑はテーブルへとリゾットやパンを用意する。
白はといえば調理場に立って、干し肉と野菜を刺した鉄串を炙っていた。
リングは食器を出しながら呆れ顔で見つめ、緑に小さな声で話しかける。
「あの干し肉、使っていいって聞いてるんでしょうか?」
「あの馬鹿は聞いていないでしょうね。もし駄目ならオカミさんが止めに来るはずですよ」
「…………」
緑の言葉に、リングは黙り込む。
あの後泣き疲れたのか、オカミはさきほどの部屋で眠っているはずだ。
あんなに泣くオカミをリングは初めて見たので心配したが、部屋の前で様子を探っていた緑と白に、一人にさせた方がいいと言われて仕方なく部屋を後にした。
それから逃げるように出ていったシュリを探し、結局見つけられず、時計塔へ戻ってヒカリ草をベンに渡した。
その際心配させたくないからとリングが倒れた事は伏せ、他の街の人間が入ってきた事をベンへと伝えた。
すぐにオカミとリングの身を心配してきたが、大丈夫だとリングが答え、けれどオカミさんが心配なので今夜は街に泊まると伝え――そんなこんなをして、今に至っている。
「心配しなくても大丈夫、と言いたいですが……シュリという男がまだこの街にいるのは確かですしね」
「今日街を出た龍はいないしなぁ。っとと、美味えなやっぱ!」
「光妖精の森にいるかもって探しましたけど、あんなに広い森の中で人を見つけるのはの業ですしね。白さん、口にソースが付いてますよ?」
もし森全体を探そうとするなら、三日三晩でも足りないほど森は広大だ。更に日差しも届かないので薄暗く、手前ならまだしも奥まで行っては、帰って来れるかすら怪しいものである。
「光妖精が騒いでるかどうかは、分からないんですか?」
鉄串に勢いよくかじり付く白を横目に、上品にパンを千切って食べる緑はリングに聞いた。
リゾットに千切ったパンをつけて食べていたリングは少し目を閉じ、すぐに首を横に振る。
「……駄目です。右目の調子が悪いみたいで、今はこの店のココーの心も僕には視えません」
視線の先には、カウンター横の照明台で明滅している光があった。
日差しで薄いがオレンジ色をしていて、ローロと同じ火妖精なのだと判別できる。
「眼帯を取って視ればココーの心は視れると思いますけど……やっぱり森の方からは、何も視えません」
名前を呼ばれて起きたのかココーが飛び上がり、リングは寝てていいと声をかける。
ココーは逡巡するように浮遊するも、照明台に戻るとまた明滅を始めた。
「一度視た相手の心は、眼帯を外さなくても視えるんですよね? 視えないという事は今までありました?」
「ないです。シュリさんに触ってあの音を聞いてから、右目の調子が悪くなったみたいなんです」
「音、だとぉ?」
その単語にいち早く反応した白は、食いかけの鉄串を差し棒のごとくリングに突きつけた。
目には何やら怒りの炎が燃えている様子。
「くっそ! やっぱあん時のは勘違いじゃなかったのか! リング、その音はどんな感じの音だった!?」
「危ないですから鉄串を下げて――ふおっ! 危ないじゃないですか!? もう少しで額に穴が開くところでしたよ!」
興奮した白の突きを紙一重でかわしたリングは、それでも下げない白に油断ならない視線を送り、頭の端に残っている音の事を思い出してみる。
「なんていうか……金属が擦れ合う音でしょうか。金物同士を叩いたとかじゃなくて、ひしめき合うというか、僕の勝手な想像なんですけど――」
金の瞳と赤い瞳に見つめられながら、自信なさげな声でリングは言った。
「時計塔の歯車が音を出すんなら、こんな音なのかなあって感じの音でした」
「それだぁっ!!」
またまた勢いよく放たれる鉄串を、今度は反応できなかったリングの代わりに緑が手刀で弾く。
綺麗な弧を描いて飛んだ鉄串は階段の前に刺さり、しかし白は気にしてないようで興奮した顔をしている。
どうしたのだと二人が聞くより先に、白の口から言葉が発せられた。
「そんな感じの音が俺にも聞こえたんだよ! ほんの一瞬だったけど確かにな! そうか、やっぱ気のせいじゃなかったんだな……大体あの音以前からあいつは怪しかったしなぁ。俺とした事がとんだ凡ミスだぜ!」
仮に音に対して確信があったとして、何をするつもりだったかは見当もつかない。
そもそもシュリが事件を起こしたという事も……今は無い。
リングが倒れたのは原因不明であるし、オカミも彼のせいと決まった訳ではない。
それでも彼を見過ごせないのは、逃げた事と、やはり他の街の者という事からである。
「いつ街にやって来たのかも分からないし、ロドニアにいる龍達はシュリを知りません。だとしたら彼は、どうやって街に渡って来たのか……不審な点ばかり浮上する者も珍しいですね」
冗談めかして緑が言うが誰も笑わず、リングがそういえばと疑問に思っていた事を口にした。
「僕がベッドで寝てた時、頭痛があることを緑さん知ってましたよね? 誰にも言ってないのに、どうしてあの時頭痛があるって分かったんですか?」
あれからずっと引っかかっていた。
人の状態が分かるなんて、まるで――
「ああ、見えるんですよ。オーラというか気配というか、とにかくそのようなものとして、悪い部分や、その時々の気分がね」
「……まるで、僕の右目みたいですね」
リングの言葉に緑は苦笑する。そんな大したものじゃないと言う彼の声は、なぜか悲しい感じがした。
「私の場合は人間だけですし、見えたからといって何が出来るわけでもないんです。具合が悪い人に具合が悪そうだと言っても何にもならないように、見たからといって別に役立つものではありませんよ」
「……僕は、そうは思いませんよ。どこかが悪い人がいて、本人がそれに気付いてなかったら教えてあげられるじゃないですか。具合の悪い人が無理してたら、無理するなって手助けしてあげられるじゃないですか」
「手助け――そうですね。それで助けられる事もあれば、一年前の悲劇のようなものを、引き起こす事もある」
「あっ……」
リングは忘れてしまっていた。そう、一年前のあの日緑は連れて来たのだ。
悲劇と呼ばれる事件を起こした、他の街の人間を。
「……すみませんでした」
「謝らないでください。リング君の考えは良いものと思いますし、私の罪は、揺るぎようのない事実なのですから」
罪と言われれば、それはリングにも当てはまる事である。
自分のあまりにも無責任な発言に悔いていると――突然頭を殴られた。
強すぎる痛みに目線をあげると、への字口をした白の顔が飛び込んできて、すぐにもう一発殴られる。
「白さん痛いですよ!?」
「うるせえ! お前が暗い話して勝手に落ち込むからだろうが! 悲劇については……俺だって罪を犯してるんだ。けど今は過去を考えて落ち込む場合じゃねえだろ! 怪しさ全開のシュリを早く見つけて、心配の種を取っ払うのが先決だろうがっ」
すごい怒鳴り声に驚いたリングに、隣から小さな笑い声が届く。
「久しぶりに意見が合いましたね。白の言うとおり、今は逃げたシュリを探し出すのが先決ですよ。後悔や苦悩は彼を捕まえてからにしましょう」
「そう……ですね。二人共すみませんでした。しっかりしなきゃですよね!」
「おぅ! その為にはまず腹いっぱい食べて体力を蓄えとか――」
「――へえ、蓄えてどうするのかしら?」
階段をゆっくりと降りてくる靴音。
静かながら怒気を十分に孕んだ女性の声。
空気を震わし伝わってくる、威圧感。
「今夜使うはずの干し肉を食べてるのはどういう事なのか、しっかり説明してくれるわよね? 三人とも?」
階段前に刺さっていた鉄串を握るオカミを見て、弾かれるように土下座した三人の息は、ピッタリと合っていた。
「ほう、それでそんなに顔を腫らしているんじゃな。やっと得心がいったわい」
「ったく、勝手に食ったからってあんなに怒んなくてもいいじゃねえかよ!」
「……でも悪いのは僕達ですからね」
「私達まで泊めていただいて感謝します。ハイリさん、ノルマンさん」
夜を迎えたロドニアで、そんな声が響いているのは森の東側に建つ家からだ。
ノルマンと妻ハイリの住まうこの家に、顔中を腫らした三人はお邪魔をしていた。
切れた唇を労わりながらハイリが煎れてくれた紅茶を飲めば、優しい味が口に広がって痛みを取ってくれる気がする。
「いいんですよ。渡りの龍を泊められるなんて私も嬉しいですし、こんな賑やかなのは久しぶりですから。ねえ? あなた」
「そうじゃな。森の入口で目覚めた時は驚いたが、あの男に眠らされ、わしは運ばれたのじゃろう。年寄りにも平然と手を出すが森にいると思われる時に、渡りの龍がいてくれたら心強いわい。よろしく頼むぞ」
木の実入りの小さなパンと焼き菓子を盆に乗せ、調理場からハイリが現れた。
長い白髪の髪を後ろに縛り、腰の曲がった小さな身体はノルマン同様の歳を感じさせた。
ノルマンの頼りにしているという言葉に僅かな微笑で返し、緑は二人に感謝の言葉を言う。
「そう言ってもらえると助かります――白、パンや焼き菓子に飛びつく前に、ご夫婦にお礼を言うのが先でしょう」
「うるせえなぁ。泊めてくれて有難うなノルマン。ハイリも、この焼き菓子すげえ美味いぞ!」
尊大な態度とはこの事を言うのだろう。
が、夫婦は白に慣れているのか笑顔でどういたしましてと言うのみ。
緑は溜め息を吐き、しかしと言葉を続けた。
「泣いたと思えば急にいつもの調子に戻って、やはり今日のオカミさんは何かが変でしたね」
「でも、緑さんが見ても悪いところは無かったんですよね? 確かに心配ですけど、店を開ければ他の龍の皆が来ますから、何か非常事態が起きても対処できると思います」
本音を言うのであれば、リングはオカミの傍にいたかった。
あんなに泣いていたのにいつもの様子に戻ったオカミが、しかしいつもとは違うオカミが心配ないわけが無いのだ。
だが今はシュリを見つけるのが先決であり、それは彼を見たことのあるリング達が探すのが適任のはず。
白と緑はロドニアに渡ってくる龍の中で一・二の速さを持っており、またリングには『奥の手』がある。
三人が力を合わせれば、例えシュリが遠く離れた水妖精の湖に現れたとしても、見つけられるはずである。
そういう緑の理知的な説明を受け、リングは渋々ながら承諾していた。
「妖精のいるところに出てくれたら、心の機微を視てすぐ見つけられると思います。でも本当は、街から出て行ってくれるのが一番いいんですけどね」
リングは右目の眼帯を外していた。
目蓋をつぶっているので歯車は見えないが、目の周りにある傷跡は陽光石の照明によって痛々しく照らされている。
ノルマンとハイリが同情の目線を送れば、それに気付いたのかリングは笑顔で顔を向け、心配ないですよと呟いた。
「傷跡は消えませんでしたが痛みはもう無いですし、眼帯を付けてれば隠す事だってできます。眼帯ってちょっと格好よくありませんか?」
緑に教えてもらったウインクをやってみる。しかし右目をつぶったまま左目もつぶったので、何だかな不格好なウインクになってしまった。
ハイリはそんなリングを無言で抱きしめ、ノルマンは頭を撫でる。
孫と祖父母のような三人を包むのは、けれど憐憫と同情の雰囲気。
リングに注がれるのは、憐れみの気持ちだけ。
「…………」
気付いてもなお何も言わず、リングは為すがままになる。
二人の優しさは知っている、憐れむのだって仕方がないと思う。
同情と優しさを履き違えてしまうぐらい、自分は悲しみの塊のようなものなのだから。
老成した少年の笑顔を見つめ、二人の龍は目を細めた。
一人は苛立たしげに眉を寄せ、一人は微笑にも似た顔のまま。
「緑、なんか面白い事言え!」
「そうですね。白、君が飲んでる紅茶ですが実はずいぶん前から虫が入っていましたよ」
ロドニアの夜は、そうして更けていく。
「家で作った葡萄酒があるんじゃが、二人とも飲まんか?」
ノルマンは瓶詰めされた赤黒い液体とグラスを持ってくると、開口一番そう言った。
酒という言葉にリングは昨夜の事を思い出したのか、ビクッと身体を震わせ、白は嬉しそうにグラスを受け取りに行く。
「残念ですが、シュリを見つけるまで酒は飲まない事にしているんです。本当に申し訳ありません」
白の首根っこを掴んで緑がすまなそうに謝る。ノルマンは残念そうな顔でグラスを片付けに行き、それを白は必死で呼び止めようとする。
「酒を飲んで飛べるのならいいですが、君は誰かが止めないと潰れるまで飲むでしょう? オカミさんはそこを見極めて止めてくれるようですが、私は面倒くさいので一切しません。だから酒は飲ませない事にしました」
「お、鬼! 悪魔! この人でなしがぁ!?」
「お伽話の生き物に例えられても困りますし、私は龍なので人でなしと言われても。ハイリさんの淹れてくれた美味しい紅茶で我慢しなさい」
掴む力は強くて、白の首は容赦なく絞まっていく。それでもノルマンの消えた方向を未練がましく見ている白。
酒への愛は……それは執着ともいえなくもないが、相当のもののようだ。
そんな喧騒を聞きながらリングは窓際に立ち、外気との温度差で曇った窓を見つめていた。
こすってみれば曇りに線が引け、指には僅かな水滴が付く。
窓に浮かんだぼやけた自分を見るように、右目の目蓋をゆっくりと持ち上げる。
しかし、金色の瞳がガラスに映る事はなかった。
「……何者か、か」
思い出すのはシュリにかけられた言葉。
それの真意は分からないが、シュリが右目の事を見抜いて言っていたのなら、言葉の意味は分かる。
(こんな目をした人間は、いないからね……)
自重気味た笑みをした事に気付き、リングは窓を見た。
窓が曇っていて良かったと思う、自分のそんな笑みなんて、とてもじゃないが見たくはなかった。
「え?」
ふと、窓の外に光が走ったように見えた。夜の街に線を引く金色の光は龍の出すものと似ていて、それでいて異なるもの。
光量は、まるで人間が出しているほどに少ない。
「まさかっ!?」
急いで窓を開ければ、頭によぎった考えが間違ってなかった事を気付かされる。
光の粒子を舞い散らせながら――その男はいた。
「白さん、緑さん! シュリさんが現れました! すぐに龍に戻って追いかけてください!」
「私が見失わないように追いかけます。白はリング君を乗せてから来てください!」
跳ねるように緑は立ち上がると、扉を開け夜の街に駆け出していく。
白も食べていたパンを一口で飲み込んでそれに続き、リングはノルマンとハイリにお礼を言って窓から飛び出す。
外に出ると、ちょうど白が龍へと姿を戻していたところで、リングは駆け寄ると白い鬣へしがみ付く。
瞬間、白は空へと飛び上がった。
「あの金髪を追いかけるのに、姿を戻す必要があったか?」
龍になっているであろう緑を探しながら聞く白に、リングは自信なさげな声を出す。
「いや、龍の姿じゃないといけません。僕の見間違いでなければ、シュリさんは……」
「おいおい、嘘だろ」
白が見つけた緑の雄雄しき姿の、その少し先。
リングの言葉通り、シュリは光を発しながら凍てつく夜空を飛んでいた。
「夜遅くにしたのに、なな、何でいるんでスか!?」
「空を飛べる人間がいるなんて、正直驚きましたね」
慌てた声を出しながらシュリは後ろを振り向き、追いすがってくる緑を見やる。
龍となった緑は心底驚いた声を出しながらも、追いつこうと全速で飛んでいた。
しかし。
(私よりも速いっ)
徐々に二人の距離は開いていく。このままでは見失いかねないので、注意をこちらに向け速度を緩めさせようと、緑はシュリに話しかけた。
「あなたは一体何者ですか! 私の知る限り空を飛ぶ人間なんていないはずですよ!」
「私への疑問より先に、あの少年は何者なのか聞きたいでス! なぜあの子からは塔と同じ音が聞こえるんでスか!」
「音……言っている意味がよく分かりません! リング君は人間ですよ。それは私のこの目が断言します」
「この目――ふむむ、どうやらあなたは『観察眼』を持っているんでスね。という事は試作段階の龍という事でスか……つくづくこの街は、変わっていまスでス」
「? もっと大きな声で言いなさい!」
白ほど耳の良くない緑にシュリの独り言は聞き取れず、それでも何かを言い続けているシュリは速度を落としていく。
(このままいけば、捕まえられそうですね)
街に害を成さないと分かれば改めて歓迎するが、今の時点で歓迎する気はまったく無い。
捕まえられるなら、噛み付いてでもと緑が思っていた、瞬間。
「観察眼を付加するために、あなたがた試作段階の龍には歯車が使われてるはず。だとしたら私の音も効くはずでスね」
「!?」
速度を落として目の前に出たシュリは、そう言うと緑の鬣にしがみ付く。
驚いて振り払おうとした緑であったが、突然耳鳴りが襲ってきて意識と感覚を狂わせた。
(何ですか――これは!?)
考える暇もなく、緑の意識はそこで途絶えることとなった。
「緑さん!?」
遠くに見える緑の巨体が揺らいで街に落ちていく。
それを見て悲痛な叫びをあげるリングと、怒気を孕んだ白の唸り声。
害のない人間ならば話し合いで収まっただろうが、そうはいかなくなった。
たった今、シュリは害を成してしまったのだ。
「全速力で飛ぶぞ! 振り落とされんなよ!」
リングに遠慮していた速度を最大限にし、凶悪な歯を剥きだして白はシュリへと向かう。
握る力を緩めると振り落とされそうになりながら、リングは閉じていた右目を開けた。
目線を上に、遥か上空にある時計盤に合わせ、空高くまで届くような大声で叫んだ。
「あの人を、逃がさないように照らしてっ!!」
直後、右目の歯車は高速で回りだし、昨夜の真っ白な空間のように金の光線を作りだす。
月よりも濃く輝く矢はその身を真っ直ぐ塔に向け、音もなくリングの目から撃ち出された。
金色の残滓が軌跡となって消え果て、それから瞬きする間もなく、大量の光が空から降ってくる。
白い光は時計盤から放たれており、寸分違わずシュリの全身を照らし尽くしていた。
「なっ!? なぜ金線を!!?」
これに驚いたのはシュリである。
後方から龍と少年が迫っていたのは気付いていたが、まさか『金線』を作り塔に指示を出すとは思っていなかったのだ。
そんな事が出来るのは塔に熟知した研究員か――可能性は薄いが第二の主人くらいである。
まがりなりにも、調律師に出来る事ではないはず。
(研究員の知識が間違わずに受け継がれているなら可能かもでスが……そういえばあの少年の髪、青色だったような)
シュリの頭の中にあるデータでは、第二の主人は青髪青目をした人間だったはず。
第二の主人関連のデータを呼び起こし、網膜の中に情報がリストアップされていく。
その最後に書かれた、第二の主人の存在理由を確かめる。
直後、シュリは不快そうに口角を歪めた。
(……塔を制御スる予備の生体パーツとして造られた人間。そうでスか、つまり――)
「この街の事、少しは分かったかもしれませんでス」
しかしまずは、この光をどうにかしなくてはならない。
できればこの街にいる内に、オカミの治療も時計塔の『検査』も済ませたかった。
「多少手荒でスが……今はこれしか方法はありませんね」
そうして彼はマスクを外す。前髪に隠れ目元は見えないが、相変わらずその場所は爛々と金色に輝いている。
光の中を飛ぶシュリを見ていたリングは、途端に顔を歪めた。
信じられない――否、見たことの無い光景が視界に飛び込んだのだ。
「少年よ、多少痛いですが我慢してくださいでス!」
シュリは顔からリングと同じ金線を出現させ、光の出所である塔に向かってそれを放った。
「な、なんだありゃぁ! リングと同じ事したぞあいつ!?」
白の言葉に、リングはあれと同じ事を自分がしているのだと思い知らされる。
人間離れしたあんな事を……自分の右目の奇異を肌で感じ、しかし落ち込む暇もなく右目に激痛が走った。
「ああああっっ!?」
身体中の血が逆流しそうな痛みが全身を走り、心臓が破裂するほど激しく脈動する。
意識が飛びそうだが耐えていると、身震いを感じてしまう恐ろしい悲鳴を聞いた気がした。
「おい、リングどうしたんだ! しっかりしろ!?」
「時計塔、が、泣いてるっ……」
リングが泣き声に聞こえたのは、時計塔全体が軋みを上げる音。
人間の叫び声よりも悲痛に聞こえるその音は、消えそうなリングの意識を辛うじて踏みとどまらせる。
(何だ、これっ……何だこれ何だこれっ!?)
脳の細胞一つ一つに刻み込むように、身体を巡る血液に溶け込ませるように。
激しい痛みと込み上げる嘔吐感と共に、リングの脳に金線を介してシュリの持つ考え、これからの行動へと繋がる情報が流れ込んでくる。
頭の中に無理やり本を押し込まれるような、まるで経験した事のない痛みに意識は断続的に途切れ、今まで知らなかった未知の知識が濁流のように押し寄せて蓄積されていく。
「リング! 返事をしろってんだよ!」
速度を落とし街に降りるつもりの白に、リングは掠れる声で大丈夫ですと言う。
小さかった声は聞こえなかったのか、速度を落とし続ける白にリングは精一杯叫んだ。
「僕は、大丈夫ですから! まずは、シュリさんを捕まえない、と……だから! 追いかけてください!」
「っ……あのやろう捕まえたらすぐに街医者の所に連れてってやる! それまで我慢してくれ!!」
気付けばシュリに降っていた塔からの光は消えていて、見回しても彼の居場所は分からなくなっていた。
それでもリングは確信めいた、弱々しい声を白に向ける。
「…………金線と塔を通して、シュリさんの考えが僕の頭に流れてきました。オカミさんが、危ないですっ」
納得したかどうかは分からないが、それでも白は頷いて渡りの龍の止まり木亭に方向を変えた。
その、考えが流れ込んできたのと同時に得た情報を、リングはあえて白に伝えなかった。
大量の情報を自分がまだ受け止めきれておらず、いや、それは理解できていないが適当な言い方かもしれない。
残酷で冷酷な、オブラートな殻を剥いだ嘘偽りのない『世界の真実』を、しかしてリングはすぐに認めきれなかった。
――たとえ、自分の本当の存在理由を知ってしまったとしても。
容易に認められるほど、リングの心は成熟してはいない。
「オカミさんを治療なんて、させないっ……」
白い光の尾を引いて、白とリングはオカミの店へと急ぐ。
看板の陽光石を片付けながら、ふとオカミは誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。
しかしあるのは漆黒の空と三つ子月だけで、首を傾げながらも店内へ戻る。
まだ飲んでいる龍がいるが、もうこんな夜遅くに店に来る者はいないだろう。
そういえば白と緑はどうしているだろうか、リングはもう塔に戻ったのかなど考えていると、先ほど閉めた扉が勢いよく開けられた。
なんて乱暴な開け方だと入ってきた人物を睨んでみれば、それが見知った人物だったので驚いてしまう。
「こんな時間までどこに行ってたの、シュリ」
呼ばれたシュリは何も言わず、店内に残っている龍達を見つめる。
「手荒な事はしたくないんでスが、騒がれたら面倒でスからね……」
言うが早いか風のように駆け出すと、シュリは近くにいた龍の首を手刀で昏倒させる。
目にも止まらぬ速さで、龍達が騒ぐより先に全てを気絶させたシュリは、突然の事で唖然としていたオカミに初めて顔を向けた。
「ひっ!」
マスクの取られたその顔を見た瞬間、オカミは引きつった悲鳴をあげた。
しかし逃げる暇もなくシュリに顔面を掴まれてしまう。
「……ああ、やっぱり記憶を中途半端に引っ張り出されてまスね。本当は音のみで気付かれない間に治療を終わらせたかったんでスが、今は時間が無いので多少強引になりまスでス」
「な、何を言って」
「ん? あなたの悲しい記憶を全て消してあげるんでスよ。お礼はいりません、これが私の存在理由でスから」
恐怖の滲んだオカミの声は、あっけらかんとしたシュリの声にかき消されてしまった。
言葉の意味の分からぬオカミに、シュリはなおも続ける。
「少しの痛みと意識を失いまスが、目覚めればもうスっきりでス。悲しさに涙を流ス必要はなくなってるはずでスよ?」
痺れるような痛みが、オカミの頭全体に広がっていく。
徐々に狭まっていく視界の中で、オカミは自分の心から何かが消えていくのを感じる。
その何かを思い出そうとした時には意識は闇に吸い込まれ、途絶える瞬間、リングの声を聞いた気がした。
そして意識は、無くなった。
「オカミさん!」
リングの叫びはオカミに届いていた。しかしそれに反応する前にオカミは倒れ、シュリがその身体を優しく受け止める。
「――シュリさんっ!!」
リングはこちらに背を向けているシュリに掴みかかろうとしたが、それより先に誰かがシュリの肩を掴んだ。
「何したんだてめえ!!」
シュリの肩を掴んだのは、リングと同じく激昂した白だ。聞いても振り返らないシュリに怒り心頭で、掴んだ手に力を込めてこちらを向かせようとする。
「顔ぐらい向け、ろ――なっ」
振り向いたシュリの顔を見て、白は二の句をあげられなかった。
リングも驚きはしたが、彼の正体は金線を介して知っていたので、まだ白より驚きは少ない。だが、やはり知っているのと見るのでは、まったくの別物に感じられた。
「お前っ……その顔……」
異形を見るような白の視線を受け、シュリは溜め息を吐く。抱えていたオカミを丁寧にテーブルに寝かせると、ローブに入れていたマスクを嵌めた。
「ご覧の通り私の中は歯車が……時計塔と似たパーツが詰まっていまス。この部分のフレームは前に無くしてしまって、マスクは剥き出しのここを隠スために付けていましたのでス」
シュリは笑う。その笑みは無機質で無感情なものに見え、寒気を感じてしまう笑みである。
「歯車人形というのが私達の総称でス。その名の通り、歯車で動く人形でス――第二の主人の少年は、あまり驚いてないようでスね」
シュリの剥き出しにされていた中身を見て怒りが冷めたのか、けれど抜け目なくリングは彼を睨み続ける。
白もやっと我に返ってシュリを羽交い絞めにした。
抵抗らしいものをせず捕まったシュリに、リングはまだ痛む右目を押さえながら喋りかけた。
「最初、あなたとここで握手した時……僕の中に何かが入り込んできました。途切れ途切れに映像も見えて、音も聞こえた。その何か、今なら分かります、あれは『感情』でした。歓喜、感動、感激――恐怖、落胆、絶望。相反する二つの感情の渦巻いた、昔……多分大昔の人達の感情が、流れ込んできました」
「私も驚きましたでス。まさか塔と同じ音を出す人間がいるなんて。でもその髪、その瞳を見て納得しましたでスよ」
「――第二の主人、制御のための予備の生体パーツ。さっきので、教えてもらいました」
「……余計な情報まで取得したようでスね。私の歯車は塔と似通った物ですから、塔の持つ情報共有システムが誤作動したのでしょうか」
白に羽交い絞めにされながら悠然と喋るシュリを見て、リングは戸惑う。
思っていたより、情報を知った時から、彼が悪いものではないと分かっているのだ。ただ思考があまりに短絡的で、人の感情を考える隙間を持っていないだけ。
それは心の無い人形らしいといえば、らしい事である。
しかし、だからといってリングがシュリの考えを容認するかといえば、それはまた別の話になってしまう。
頭に流れてきた情報のとおりなら、歯車人形の行動理念ではオカミは絶対に幸せにはなれない。
それだけは、リングは確信していた。
「オカミさんに、治療を……ミナミさんの記憶を、消しましたね?」
「ええ、消しましたでス」
淀みも躊躇もなくシュリは答えた。
白はリングの問いの意味が分からず、それでも知っている者の名を聞いて身を固くする。
「それが私の存在理由でスから。歯車人形とは塔の破損箇所を探すのと同時に、人間の心の治療も任された存在でス。悲しむのなら、その悲しみの元を消せばいい。当たり前の事をしたまででスよ」
「おいリング、こいつ何を言ってんだ?」
記憶を消すなど出来るわけがない、白の顔はそう言いたげであった。
だがリングの真剣な表情を見て、シュリの言葉を聞いて、表情は段々と驚愕に彩られていく。
「で、出来るわけねえだろ! 歯車人形だか何だか知らねえが、人の記憶に手を出すなんて……二人して、さっきから変なこと言ってんじゃねえよ!」
「でも、真実なんですよ」
白の激しい大声は、リングの静かな声でかき消される。
重く、物悲しい、リングの小さな声は辺りを静寂へと引き戻した。
「僕が得た情報を信じるなら……記憶の事も、歯車人形も第二の主人も、全部がこの世界の真実なんです。壊れて歪んだ真っ暗闇の世界の……知りたくなかった真実なんです」
その声は湿っていた。見ればリングの瞳は僅かに濡れている。
そうなった意味も理由も知らない白は困惑し、絞めていた腕の力を無意識に緩めてしまう。
力を緩めた事で白の腕をすり抜け、シュリはリングの横を走り抜けた。
「大量に存在する『情報伝達』である龍は、本当なら知らなくてはいけない情報なんでスけどね」
「ってめえ、待ちやがれ! 緑やオカミにした事の落とし前はきっちりつけてもらうぞ!!」
「……本来なら情報伝達は歯車人形と共に塔間を移動スるのに。短気は損気でスよ?」
「うるせえ! っていうか情報伝達って何だ! リング、そいつを捕まえろ!」
白が叫ぶ中、リングは捕まえるどころか動こうとさえしなかった。ただ口を、思いを伝えるためだけに動かす。
「だからって……大切な人を忘れさせてまで悲しみを消すのは、僕は認めきれません」
すれ違う時リングの瞳に映ったのは、マスクの裏側に光を溜めるシュリの顔。
何を考えているか分からないが、言葉ははっきり届いたはずだ。
シュリはその声に答えず、扉から外に飛び出していく。
白は慌てて追うも飛んでいったのか姿は見えず、オカミや様子のおかしいリングを放っておく事もできず店内に戻ってきた。
そして、微動だにしなかったリングに掴みかかった。
「なんで捕まえなかったんだ! 捕まえきれなくても足止めぐらいは出来ただろうが! オカミが倒れてるってのに妙に冷めてるし……お前、少し変だぞ」
「オカミさんは、命に別状はありません。シュリさんは今捕まえなくても、行った場所は分かります。それに、あの方は悪者じゃないですよ」
予想をしていなかった感情のない言葉に、白は身体を震わせた。
いつものなく笑うリングからかけ離れた表情に恐怖したのか、他人事のように語るリングに怒りを覚えたのかは分からないが、白の身体は確かに震えた。
「……お前、情報がなんたらって言ってたよな。何を、知ったんだ?」
「…………」
リングは答えない。ふいと逸らした横顔に隠しきれない悲しみを見たが、それを指摘する前に一つの声が店に響いた。「……あいつは、どうしました?」
「緑!」
よろよろと不安な足取りであるが緑は店内に入ってきて、オカミや他の龍達が気絶している事に目を見張る。
「何が、あったのですか? オカミさんは、龍達は――あの男はどこですか!?」
いつもは冷静な緑だが、この時ばかりは怒りを露わに叫んだ。
あいつなら出ていったと白が悔しそうに呟き、リングは重い足取りでオカミへと歩み寄る。
「オカミさん……できるか分からないけど、オカミさんの記憶を戻してもらうようシュリさんと話してきますね。それまではどうか、幸せな夢を見ながら、眠っていてください」
羽織っていた外套をオカミに被せ、リングは扉に歩き出す。
顔色の悪い緑を眇め、次いで白に視線を向ける。
「緑さんはシュリさんの音の影響で具合が悪そうです。白さん、今から真実を知る勇気はありますか? 自分の存在する理由を、知る勇気はありますか?」
意味深な発言をするリングに、白は黙って頷いた。
正直、世界の真実や自分の事など白にとってどうでもいいのだが――リングの事は、どんな事があっても守ってやらねばならない。
それは昔、ローレンスと交わした約束であった。
一回は赤子の時、渡りの龍に守られた少年。
もう一回は悲劇の日、ローレンスによって守られた少年。
その少年を、自分もまた守ると、悲劇の日から心に決めていた。
「なら、行きましょう。シュリさんは時計塔にいます」
リングと白は店を出る。己が飛べないと分かっているのか、緑はただ二人を見送り、オカミさんの事は任せてくださいとだけ伝えた。
頑張ってとも、気をつけてとも緑は言わなかった。
シュリに気絶させられた身としては危険は分かっているはずなのに、緑はそれらの言葉を言えなかった。
(あのシュリという男に、害はない。漠然だが、確実に私はそう言える)
言いきれるのは、音と共に感じた懐かしさのせいかもしれない。
覚えの無いそれが、心の奥に刷り込まれた歯車人形と情報伝達との繋がりとは気付かぬまま、緑は今自分に出来る事を始める。
これだけの数を気絶させた事に驚きながら龍達を起こしていると、オカミのほうで大きな音が鳴った。
見るとオカミはテーブルから落ちて、どうやら昨夜のリングと同じ状態になったようだ。
気の抜ける事態に緑はフッと笑い、転がったままのオカミに手を差し出した。
「寝顔がミナミさんに似ていました、さすがは親子ですね。どこか痛む所はありますか、オカミさん?」
「あれ、緑いつの間に帰って……鼻が冗談にならないくらい痛いわ、頭も重いし。って、何で皆、寝てるの?」
緑の手を取りオカミは立ち上がる。
痛みは他にないらしく、漠然とした安心はあってもやはり心配していた緑は、これを聞いて胸を撫で下ろした。
――しかし、この後オカミが言った一言に緑は凍りつく。
「そういえばさっき言ってたミナミって誰の事? 私に家族はいないわよ」
「……何を、言って」
無意識に、観察眼でオカミを見た。
そこに映ったのは、異常の見当たらないオカミだった。
異常な発言をする、オカミその人であった。
「――この街の調律師でスか?」
「誰だ!?」
突然聞こえた声に、歯車部屋で煙管を吹かしていたベンは辺りを見渡した。
しかし声の主は見当たらず、寒気のする程の静寂がそこにあった。
「こっちなんでスが」
「おお!?」
再び聞こえた声の方向を見ても分からず、ふと上を向いたら――見つけた。
壁の上に、本来の住居の造りなら屋根が乗るであろう部分に立っている者がいる。
「誰だお前は! 時計塔は調律師以外立ち入り禁止だぞ!」