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〜第二章〜

歌詞の意味が分からなくとも、この歌は素敵だ。

心が洗われるような澄んだ歌声に、安らぎをくれる優しい旋律をしている。

きっと歌っているリングも、幸せな気持ちで歌っている事であろう。

オカミはハッと我に返ると急いで店内に戻った。この歌を聞きながら眠りに落ちたいので、まだ飲んでいる龍達を部屋へ連れていく事にしたのだ。

寝るようにと急かす大声と微かな歌声が裏路地を包み、月の光でも照らしきれない濃い闇の中の、とある一角に。


「…………」


白は無言のまま、世界の全てから隠れるように立っていた。

真一文字に口を結んだ表情は陰欝で、歌声に酔いしれているとはとても言えない。


「……なんつう悲しい声で歌うんだよ」


人より、普通の龍よりも聴覚の優れた白に歌声ははっきりと届いていた。紛れもないリングの声で、とても、悲しそうに。

この歌声を聞いてオカミは幸せそうに笑ったが、万が一にも白にそんな真似は出来ない。いつものこの悲しい歌声を、ただ無言で聞き入る事しか出来なかった。


「リング……一体、何を考えてお前はこれを歌ってるんだろうな……」


調律師の少年は悲しい声を振り絞り、そうして闇は今夜もまた、少年の声を飲み込んでいく――






微かな暖かみを孕んだ陽光が空へと射し込み、太陽を知らせた鐘の音は余韻を残しながらいつものようにロドニアには朝が訪れた。

木の枝に止まり寝息を立てていた小鳥もさえずりを始め、霜の薄化粧をした草花は、まるで幾千もの水晶の欠片が輝くように朝日を反射している。

身体の芯に突き刺さるような寒さに身震いしながら、オカミはかじかんだ手で店の扉を開けた。

鋭くあがった目尻に涙を溜め、大きな欠伸を一つ。

その息は空気中の塵と結合し牡丹のような白い花を咲かせ、そして一瞬で散ってしまう。

オカミはそのまま外壁に沿って歩き出す。昨夜着ていた外套を羽織り、手には厚手の手袋。

頭に家畜の毛で編んだ帽子を被った完全防寒の格好だが、それでも寒いのか襟の中へと顔を埋める。


「……野菜の収穫、白にでも頼めば良かったわね」


るオカミの両手には、三股の槍がしっかりと握られていた。


「おう、オカミ今日は早いの」


「おはよう、ノルマンさん。ノルマンさんこそ、朝早くから畑仕事ですか?」


鬱蒼と茂った森の手前。野菜が植えられた畑を見渡すように置かれた木椅子で、煙管を吹かしていたノルマンはオカミに気がつくと手を振ってみせた。

色褪せた外套を着て、手にはちゃんとした農具である鍬と紙包みを握っている。

微風に揺れる白い髭と顔の皺は、ベンよりも歳を感じさせた。

空気に乗って香る匂いをオカミが追うと、紙包みの隙間から覗く揚げパンが目に入った。


「また揚げパンを食べてるんですか? もう歳なんだから、油っこい物は控えたほうがいいですよ」


その言葉にノルマンは小さく苦笑すると、揚げパンを千切って畑へ投げ入れる。するとどこからか光の玉が飛んできて、揚げパンの欠片を飲み込んでいった。

朝日に掻き消されそうな弱い光達を見つめながら、ノルマンは鍬を杖にして立ち上がった。


「これは光妖精達への土産じゃよ。まあ いつも世話になっとるし、お礼みたいなものじゃな」


杖にしていた鍬を肩に担いで畑へと入り、光妖精の群がる近くに生えた野菜に切っ先を突き立てる。

驚いて光妖精達が朝日に溶け込むように消えたが、気にした様子なくノルマンは野菜を掴んでオカミに投げた。

丸々太って美味しそうなキャベツであった。虫食いの跡も少なく、何より『光妖精が現れる畑の野菜』なので、間違いなく美味しいであろう。


「けど不思議ですよね。何で光妖精の鱗粉のかかった野菜は美味しくなるのかしら? 虫食いだって少ないし、普通に育てるのよりも大きく育つし。まあその分、妖精達を手懐けるのは苦労しそうですけど」


外套のポケットに入れていた麻袋を取り出すとキャベツを放り込み、オカミも畑の中へ足を踏み入れた。

ノルマンは皺だらけの顔を更にしわくちゃにして、人の良い笑顔をする。


「確かに他の妖精と比べると気難しい所はあるが、わしは彼らを手懐けてなどおらんよ。ただ彼らの住処の近くに畑があって、彼らが気まぐれで野菜を美味しくしてくれているだけ。その賜物が野菜であって、わしが手懐けたのとは違うんじゃ。妖精の不可思議など、今更考えても仕方ないじゃろうて」


「……光妖精は、ノルマンさんのそういう裏表ない性格に惹かれたのかもしれないですね――と!」


三股の槍を高く構えると、オカミは躊躇なく野菜の根元にそれを突き刺す。

力任せに持ち上げると、勢いが良すぎて大量の土を宙に撒き散らしてしまった。

屈んで作業をしていたノルマンは土をまともに被ってしまい、地肌の多い頭部は土まみれになってしまう。

オカミは慌てて土を払いのけたが、ノルマンは呆れた表情をしながら見つめていた。


「……オカミ、前に収穫の仕方は教えたじゃろう。それにそんな危ない物じゃなくて農具を使っておくれ」


「で、でも私の家ってこういうのしか無いんですよ! 対野菜より対人用の武器が……収穫の仕方は……ごめんなさい」


三股の槍をキャベツから抜き、手袋も取るとノルマンと同じように屈んで、一生懸命に手で土を掘り返し始めた。

反省した様子に満足したのか、ノルマンも一通り土を払うと作業を再開する。

揚げパンを撒いて光妖精を集めながら、野菜を収穫する。

すっかり太陽が昇りきった頃まで続ければ、オカミの持ってきた麻袋は様々な野菜でいっぱいになった。


「――ふう、いつも野菜を有難うございますノルマンさん。お礼は飲みに来た時にさせてもらいますね」


「カリカリに油で揚げた野菜と醸造酒があれば、何もいらんよ。その時を楽しみにしておくかの」


重くなった麻袋を何とか持ち上げ、やはり白に来させれば良かったとオカミが嘆息した、その時。


「………………たっ」


「!?」


声が、森の奥から聞こえてきた。

驚いてノルマンに視線をやれば、どうやら彼にも聞こえたらしく顔には驚愕の色が見て取れる。

そして耳に届いてきた、明らかな人間の足音。森の奥からこちらに近づいてくるその音に、オカミは麻袋を置くと素早く三股の槍を拾って構える。

足音が大きくなるにつれ、オカミの緊張も急激に高まりだす。

誰かは分からないが、しかし断言できるのは近づくのが『この街の人間ではない』という事だ。

森はノルマンの所有物として住人達は認知していたし、また妖精の住まう場所に人は立ち入らないのがルールである。

この森にしか生えないヒカリ草を採る場合はノルマンに許可を貰わなければならず、また森に入る事が出来るのもか龍と決められている。

ノルマンが驚いているという事はつまり、森に入る許可を誰にも出していないという事だ。

もし初めてこの街に渡りをしてきた龍だとしても、無断でこの森に入る事は禁じられていた。

というより森の四方を高い柵で囲い、入口には立ち入り禁止の看板がしてあるので、無理に入るわけがないのである。


「誰!?」


強い口調で叫ぶも返事はなく、近づく足音は依然として近づいてきている。

冷え切った朝だというのに、オカミは額に汗を滲ませていた。

一年前、この街の人間でない者によって起こされた悲劇で、母親を無くした彼女にとって警戒は当然のものである。

昔の記憶が脳裏に浮かび身体が小さく震え、どこから分からない不快な『音』が耳をつんざく。

音に浸食されるように意識が曖昧になってきたその時、足音の主は森から姿を現した。

――朝日を反射する金色の髪に、地面に引きずってしまっている長い黒色のローブ。背丈はオカミよりも高く、白よりは少し低いくらいだろう。

そして、顔は――


「お、お腹……減ったでス」


「……は?」


オカミの視界に飛び込んだのは、目元を隠すように黒いマスクをした、怪しさ全開の金髪の男であった。




オカミが怪しい男と出会う少し前、リングはベッドの上で静かに寝息を立てながら、深い睡眠に落ちていた。

不意に身体にかけている冬用のシーツを手繰り寄せると、頭まで被って猫のように丸まってしまう。

右目の眼帯は外されており、しかし閉じられた目蓋から金色の光が漏れ出る事はない。

部屋というには殺風景な場所だが、ベッドで睡眠を貪っているこの部屋こそリングの部屋である。

歯車部屋から通じる地下への階段、そこを降りるとベンとリングの居住空間が広がっている。といっても部屋数は少なく、あるのは資料部屋や食料の備蓄庫、ベンやリングの個人部屋だけだ。

リングの部屋は、冷たい石造りの壁に囲まれた窓のない空間だ。

あるのは古ぼけた机と椅子が一脚、それとリングが寝ているベッドだけ。部屋の広さは、机とベッドに半分を占領されるほど狭い。


「う、ん」


部屋着であろう大きなフード付きの服を着ているリングは、寝ぼけた声を上げて僅かに目蓋を開けた。

眼帯の外されている右目からは金の歯車が覗く。


「光、妖精が……騒いでる……?」


意識が少しだけはっきりした声であったが、しかしリングがベッドを這い出すには、それから暫しの時間が費やされる事となる。

備蓄庫に朝食を取りにきていたベンは、リングの部屋から響いた大きな音に怪訝な顔をする。

けれどもすぐに見当がつき、小さく笑うとそのまま歯車部屋に続く階段へ向かった。

と、後ろからかけられた声に足を止めた。


「お、おはようございます師匠」


「おう、おはよう。今朝も盛大に転んだな。音が備蓄庫まで響いてきたぞ」


ベンの言葉に思わずリングは眉をひそめた。

いつも作業ズボンを穿く際に転んでしまう癖はなかなか直らず、リングはそれを毎度ベンに指摘されるのが好きではない。

自分がまだまだ子供だと――実際まだ子供なのだが、そう言われているようで嫌だったのだ。

リングの子供っぽい反発心をベンは見抜いており、だからこそ彼はそういった事を言うようにしている。


(……リング。お前はお前の速度で成長すればいい)


誰と比べてリングが焦っているか分かっているベンは、心の内の優しさを言葉で包み隠して伝えるが、それをきちんと読み取るにはまだまだリングは子供であった。


「そうだ、今日あたりヒカリ草を採りに行ってきてくれ。さっき見たらもう数日分も無いみたいだったからな」


「はい、僕も今日はちょっと森に用事がありますし構いませんよ」


用事という単語にベンが眉を寄せると、リングは眼帯に手をやり、何でもない事のように言う。


「なんだか今朝から右目が疼くんです。多分、感覚なんですけど……光妖精が騒いでいるみたいで。気になるので行ってみるつもりです」


あえて普通に言っているが、それはリングからすれば異常な事である。

この目を手に入れてからの一年間、いちいち妖精の心の機微に右目が反応していたら、リングに休まる時は無い。

最初は扱いに四苦八苦したが、今では自らの意志で視る対象を選ぶ事ができる。

だが一度も視た事のない妖精と、時計塔の心だけは眼帯を外してしっかりと視る必要があった。

塔から光妖精の森まではかなりの距離があり、心を視る事は通常なら有り得る事ではない。

しかし、それがあったという事は……


(ここまで伝わる騒ぎが、森で起こっているはず)


その真実を、リングはベンに伝えたくなかった。師匠に無駄な心配をかけたくないという弟子の気遣いと、もう一つ。

これは、自分だけでやらなければいけない事だと思うから。

妖精の心が視える、それは一年前、大切な人と右目を失った代わりに手に入れた力。

そんな力に支払うべき行動という対価に、ベンを……大切な人を『奪われてしまった人』を関わらせたくなかった。

気を揉み精神を削るのは、罪を犯した自分だけでいいのだから。


「龍を呼ぶための角笛は歯車部屋ですか? とりあえず龍の誰かを呼んで行ってきますね」


「待て」


暗い気持ちを振り払うように明るい声を出し、ベンの隣から階段を上がっていく。

その時、ベンの太い腕がリングの腕をつかんだ。


「……本当に大丈夫なのか?」


真剣さを帯びた声と表情に、リングは一瞬だけ顔を強張らせた。

しかしそれは、すぐに笑顔に取って代わる。

だが、少年は知らない。幼い外見に似合わぬ老成したその笑顔は、見た者が同情するほど、痛々しい微笑みである事を。


「心配するような事なんてないですよ! それより僕が出かけるからって、時計塔の点検サボらないで下さいよ?」


「……師匠に言う言葉じゃないわい」


ベンの返事を聞き、いってきますと言ってリングは階段を駆け上がっていった。

ベンはしばらく無言のまま立ち尽くし、やっと一言だけを発する。


「馬鹿弟子がっ」


声は冷たい空気に吸い込まれ、誰にも聞かれる事なく消えていった。




人々の喧騒と太陽の光が溢れた朝の街。

冷たい空気を活力で塗りかえ騒がしくなった街の上空を、眺めるように低空で飛ぶ龍がいた。

露を吸った木々のように、光沢のある濃緑色をした鱗。枯れ草色の長い鬣。

丹念に磨かれた宝石を思わせる赤い瞳は、どこか気品を感じさせる。

速度はとても緩やかで、背中のリングは安心して乗っている事ができた。


(リョク)さんは優しい飛び方をしてくれますね。白さんとは大違いです」


リングの言葉に短く唸り声を上げ、緑と呼ばれた龍は喋りだす。


「あんなと一緒にしないで下さい、リング君。確かにあいつは速いが、見た目の美しさも含めそれ以外は全部私が勝っているんですからね」


緑の言葉の端々には自信が見え隠れしており、多少自分に酔っている感じがする。

いつもの調子で喋っていた緑であったが、不意に目つきが真剣なものに変わった。


「しかし光妖精が騒いでいる、ですか。あの森が立ち入り禁止なのは常識ですし、間違って入ることはまず有り得ませんよ。目薬用の鱗粉だって酒場に行けば貰えますから、やはり私たち龍ではないと思います」


「……人間で近づくのは調律師のベンさんや見習いの僕、あとノルマンさんくらいですけど、あの人達が光妖精に何かするわけありませんし」


「リング君が言うように、他の街の者でしょう」


ごく稀にではあるが、他の街の人間がロドニアに来る事がある。

渡りをする龍とし、世界の真実を知っても取り乱したりせず、むしろ一緒に世界を回りたいと思う奇特な者達。

街から街に放浪するうちロドニアに辿り着くというのであるが、他の街の者が来る事は事例として存在する。

そんな者達が、右往左往しないようにと心配りされているのが、渡りの龍の止まり木亭はじめ酒場の看板の様々な文字である。

他の街のものである文字は龍達が教えてくれるのだが、きちんと合っているかは誰にも分からない。

あくまで気休め程度であり、街に渡りをしてきた龍は総じて、ロドニアに先に滞在している龍が迎えに行くようになっていた。

初めて訪れる者がもし隠れて渡ってきたとしても、街に滞在している龍のいずれかが見つけ、その日のうちに酒場へと連れて来られるのが通常なのだ。


「私の記憶の限りでは、昨日この街に渡ってきた龍はいないはずです。外から来たら感覚器で分かるので、それは確かです。それに私達は光妖精を特に大切にしますし、いくら仲が良い人間でもその住処に連れてなどは……」


「龍の誰かが、森に他の街の人を連れていったのも無し。本当に、森で何があったんでしょう」


今はもう光妖精も落ち着いたのか心を視る事はないが、リングの不安は膨らんでいく。

青く澄んだ空とは対照的に、不安の雲がリングの心を覆っていった。




「ノルマンさん!」


「おや、リングと緑か。そんなに慌ててどうしたんじゃ?」


切羽詰まった表情で駆けてくるリングを見て、木椅子に座って煙管を吹かしていたノルマンは驚きの声を上げた。

緑は巨体を器用に丸め、瞬間まばゆい光を放ったと思えば人の姿へと変化する。

緑も不安を赤い瞳に宿らせながらリングの後に続いた。


「ノルマンさん、今朝なんですけど光妖精が騒ぐような事がありませんでした? 妖精の心が時計塔まで届いたので、結構大きな騒ぎだったと思うんですけど……」


リングの真剣な問いに、ノルマンの返事は軽いものであった。


「おお、そうかリングは妖精の心が視えるんじゃったな。他の街の人間が森に入ってしまっての、そのせいで光妖精が騒いでたんじゃよ。今は多分、オカミの店にいるはずじゃ」


リングと緑はこの騒ぎを重く受け止めており、もし危険な相手だった場合は警戒しなければと意気込んでいた。

が、そんな心配をふっ飛ばすほどノルマンの声は穏やかなものであった。


「他の街の人を……オカミさんが店に、ですか?」


「ああ、今朝はオカミさんが野菜を採りに来ての。野菜のついでだからと店に案内したんじゃよ」


ノルマンの語る経緯を聞いても、リングはそれをにわかには信じられなかった。

一年前、悲劇に巻き込まれ母親のミナミさんを亡くして以来、他人に対する不信感が人一倍強くなったオカミ。

ロドニアの人にさえ壁を作るようになったオカミさんが、他の街の人を自分の店に?

信じられないと渦巻く気持ちとは裏腹に、その事が今回の光妖精の騒ぎが軽度だったと示してくれる。

――あのオカミさんが店に入れたのだ、悪い人ではないはず。

絶対的な信頼からくる確信に、リングは一人胸を撫で下ろした。

敏感になりすぎていたのかなと反省しつつ、後ろの緑へと振り返る。

そして安心させるかのように微笑むと深々と頭を下げた。


「運んでくださって有難うございました。思ってたような騒ぎじゃないみたいですし、オカミさんの店にその人はいるようです。僕はヒカリ草を採ってから店に向かいますので、緑さんは戻ってて大丈夫ですよ。本当に、有難うございました」


しかしお礼の言葉を聞いても緑は店に向かおうとせず、風で散らかる枯れ草色の長髪を掻き揚げると、森の入口に歩き出す。


「いや、私も手伝いますよ。光妖精には日頃のお礼も言いたいと思っていましたし、実はまだヒカリ草を見た事がなくて、興味がありますのでね」


リングが再び感謝の声を上げると、緑は無言のウインクを返してくれた。その仕草は彼によく似合っていた。

ノルマンから森に入る許可をもらった後、あの格好いいウインクのやり方を聞こうと思ったリングであった。




肉を焼いた食欲をそそる匂い。焼きたてのパンの香ばしい匂い。

鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いの充満する店内で、寝癖頭の白は何度も目をしばたかせていた。

寝ぼけた頭を冴えさせる野草茶へ口を付けるより先に、白の思考は目の前の事をはっきりと認識する。

思考がきちんと働いているかは、別にしてであるが。


「こら! そんな急いで食べてたら喉に詰めちゃうわよ。もっとゆっくり食べなさい!」


「ふぇもオカミふぁん! めふぁめふぁおいひ――」


「口に物を詰めたまま喋らない! はい、お茶」


「っおう、オカミさんの優しさには感謝しっぱな――って苦い!? めちゃめちゃ苦いでスよこれ!?」


騒ぎの中心にいるのは白のよく知る女主人と、もう一人。絹糸のような金髪に真っ黒なローブ、ついでに怪しさ満点のマスクをした男である。

片手に野草茶、片手に裏メニューのベンさんのいつもの夜食を持ち、その隣には食べ終わった皿で山を築いている。

お前は一体誰だ。

どれだけ食べるんだよ。

なぜ、オカミとそんなに親しげに話しているんだ。

先ほどから様々な疑問が浮かんでは白の頭を乱し、現状を把握する事が上手くできないでいる。

しかし、そんな錯乱状態でも見過ごせぬ疑問はあった。

オカミが他の街の人間と普通に、ともすれば『親しげに』接している事である。

この街で起こった忘れようのない悲劇は心に傷を作り、一生える事のないものを様々な者に残した。

他の街の人間を憎み、拒絶するようになったオカミがなぜあの男と普通に接しているのか。

あのような金髪、この街ではおろか渡りの龍の中でも見た事がない。

寝起きと混乱でぐちゃぐちゃになる思考でそれでも考えていると、ふと白の耳に甲高い音が響いてきた。


「?」


気のせいと思えるほど小さな音はすぐに消えてしまったが、なぜかその音が、白には気になって仕方がなかった。


「って苦ぁ!?」


無意識のまま一気に飲んだ野草茶の苦さに悶絶する白に、男は一瞬だけ視線を走らせる。


「――気付くのがいるなんて、久しぶりでス」


呟いた声は誰にも届く事なく、男は何事もなかったようにオカミとの談笑を再開した。


「おはようございま――ってわあ!?」


男が更に一回りほど皿を築いた頃、リングと緑は渡りの龍の止まり木亭を訪れた。

まずは扉を開けた瞬間、視界に飛びこんできた皿の山に驚いて、次いでその隣の男にも驚きの表情を見せる。

男もマスクで隠れた顔を向け、リングに魅入るようにして固まってしまっていた。

リングの驚きは分かるが、なぜ男まで同じ反応をするのか。

見ていた白は訝しく思うが、その思考は大声に中断されてしまい、その大声の主たる人物の方に顔を向ける。


「リング! 二日連続で時計塔から降りてくるなんて珍しいわね、何かあったの?」


オカミの元気溢れる笑顔に少し戸惑いながら、リングは手に持っていたヒカリ草を掲げてみせた。


「ヒカリ草の予備が少なくなって、師匠に頼まれて採りに来たんです。あと気になる事もありましたし……」


リングは僅かに、オカミからの問いに困惑していた。

確かに連日で時計塔を降りてきた事は、調律師としては珍しいと思う。

しかし――しかし他の街の人間の事よりも、果たしてそれは優先して言うことなのであろうか。

オカミと同じく他人に対して恐怖と不信を持つリングに、目の前の人間の信頼性を自己紹介という形で示すのが、通常ではないだろうか。

まるでこの男がいる事など当たり前のように振る舞うオカミに、リングは違和を感じずにはいられなかった。

自分の考えすぎかもしれない。

完全に信頼したから、ただ気にも留めず紹介が遅れただけかもしれない。

……だが、それでも猜疑心は消えない。


「オカミさん。できたらこの人の事を紹介してもらえませんか?」


「? ええ、別にいいわよ」


決して噛み合わない歯車を見るように、浮かんだ違和感は消えてくれなかった。


「紹介って言っても私も森で出会ったばかりだからね。野菜が重たかったから持ってもらって、ついでにこの街の事を教えたりご飯食べさせたり……あら?」


そこでオカミは、不思議そうな顔で虚空を見つめる。


「私、あんたの名前聞いてたかしら?」


「っ!?」


捉えどころのなかった違和感が、はっきりと形を成した気がした。

一年前の悲劇を知っているリングからすれば、名前の聞き忘れが有り得ない事だとすぐに分かる。

そうして生まれた疑念は、当然のごとく男へと注がれる。


「……私の名前はシュリと言いまス」


自分の事をシュリと名乗った男は、立ち上がるとリングに歩み寄る。

白は嫌な予感がして立ち上がろうとしたが、突如後ろから肩を押さえられ、思うように身動きが取れなかった。


「……何してんだよ」


見ればいつの間に寄ってきていたのか、緑がそこにいた。


「ここはリング君に任せたほうがです。君のような直情型の者が入れば、昨夜のような騒ぎを起こすのがオチですしね」


軽く置かれたような手は、しかし恐ろしい程の強さで白の身体を椅子に抑えつけ、白は苛立ちの混じった目線を緑に向ける。

だが緑は涼しい顔で受け流し、微笑にも見えるいつもの表情を崩さずに言う。


「疑問や疑念で思考が固まったまま、事を起こそうとすれば失敗してしまいます。私達の眼力は闇の先さえ見通せますが、今のように何も分からずにその場の気持ちだけで行動すれば、見える事さえ見えなくなる……一年前の、ようにね」


その言葉の意味するところの分かる白は舌打ちをした後、身体から力を抜いた。

言われなくても分かっている。

あの時の無念を忘れた事など、ない。

頭の中で霧散するに虚勢も似た声は、鎖のように身体を縛って自由と身動きを奪っていく。


「……二度とヘマなんてしねぇよ」


白の口から吐き出す事が出来たのは、悔しさの滲んだ小さな声だけであった。

リングの前で止まったシュリは、ローブの隙間から腕を差し出す。


「……調律師見習いをしている、リングといいます」


シュリの差し出した手を握った――瞬間、リングは身体を引きつけられた。


「……君は一体何者でスか?」


「何を、言って――」


耳元で囁かれた声に返事すると同時、リングの意識に『何か』が入り込んでくる。


(何だ!?)


濁流のような何かは思考を嬲り、意識を蹂躙し、視界を明滅させる。

遠くで白の声が聞こえた気がしたが、それを聞き取れるほどの余裕を今のリングは持っていない。

大質量の何かに意識を押し潰されながら、途切れ途切れにいくつもの光景が視えた。


無数の光の粒が散りばめられた夜空の下、歓喜した表情の人々。

三つ子月を背景に、様々な色に輝く時計塔。

赤い鮮血を零したように染まった空と、大地と、遠くに揺れる太陽。

誰のか分からぬ声が、暗闇へ飲まれる寸前の世界に、哀しく響く。

『……世界が終わって、闇が、始まる』


一片も残さず視界が暗闇に支配され、そうしてリングは意識を失った――





「う……ん」


「おや、目が覚めましたか?」


緑の声を聞き、リングは目蓋をゆっくりと開けた。

ぼやける視界で何とか身体を起こし、見覚えのない部屋を見渡した。


「ここは……」


「渡りの龍の止まり木亭の二階ですよ。いつもは龍達が泊まる部屋なのですが、緊急事態なので特別に使わしてもらっています」


「緊急事態……ですか?」


上半身だけ起こしたリングを、優しく押して緑は寝るようにと促す。

逆らわず再び身体を寝かすと、緑はベッドの空いたスペースに腰を下ろしてリングを見た。


「君が倒れたんですよ。だからここに寝ているのですが……まさか、覚えていないんですか?」


緑の問いに考え込むも、リングに倒れた記憶がない。

シュリと名乗った男と握手をしてからの記憶が、とても曖昧なものになっていた。

何かを見たような気がするが、それがどんなものだったのかは覚えていない。

頭痛のある頭は、まるで割れる寸前のガラス細工を視ていたよう。

欠片を集めても元のものを決して見る事は出来ない、そんなバラバラな欠片だけが残されていた。

そんな中――あの音だけは、確かに覚えていた。


「……音が、鳴ってました」


「音、ですか?」


「はい。とても嫌な感じの、心を不安にさせる音……多分、シュリさんと手を握ってから聞こえました」


「あの男、ですか」


音の残滓が耳に残っているようで、また気分が悪くなる。

けれどあの音は、なぜだろう、何となくだが。


(時計塔の心に、似ていた気がする……)


「――くそぉっ! 逃げられた!」


扉が勢いよく開けられたかと思うと大声が部屋に響き、声を張り上げて入ってきた主を緑は迷惑そうに睨む。


「白、リング君は起きたばかりなんだから大声を出してビックリさせないで下さい。あと逃げられたとはどういう事ですか?」


「そのまんまの意味だよってリング起きたのか! どこか痛い所とかねえか、腹は減ってねえか? オカミが野菜のリゾットを作って――」


「ハ、白さん僕なら大丈夫ですから。心配してくれて有難うございます」


「べ、別に心配なんかしてねえよ!」


「……はあ。とりあえずこんなツンデレは無視して、リング君はもう少し休んでいてください。倒れた時の君の顔色は真っ青でしたし、『頭痛が無くなるまでは』ね」


ツンデレって何だ?

君のような者の事ですよ。

そんなやり取りをしながら部屋を出て行った二人を見送った後、リングはふと先ほどの緑の言葉に首を傾げた。


「何で頭痛があるって、知ってるんだろ?」


赤い瞳の見慣れた輝きが、異質のものに感じられて思わず身震いしてしまった。


「リング……入っていいかしら?」


と、部屋をノックする音と聞きなれた声が聞こえ、リングはいいですよと呟いた。

ドアが開くと美味しそうな匂いが部屋に入ってきて、次いで見知った女性が現れる。


「……大丈夫?」


「そ、そんな悲しそうな顔しないで下さい。僕は全然元気ですから!」


悲しい声を払拭するように言った元気な声に、入ってきたオカミは小さく笑った。その弱々しい笑みの後、ベッドの横の棚に持っていた盆を置く。


「野菜のリゾットですか! 美味しそうですね」


そういえば朝から何も食べていないと気付くと空腹は一気に訪れ、涎が口の中に充満する。

上半身だけを起こしスプーンを使ってリゾットを食べると、温かさと美味しさが胃全体に染み渡った。


「うん、オカミさんの料理はやっぱり美味しいです! ――オカミさん?」


先ほどから俯いて喋らないオカミが気になり、顔を覗き込んでリングは驚愕した。

彼女の頬に涙が一筋流れていたのだ。


「どどどどうして泣いてるんですか!? 僕なら大丈夫……まさか、シュリさんが何かしたんですか!?」


「違うの、違うのよ」


慌てるリングに、オカミは泣きながら抱きついた。

リングより大きい身体を震わせて、子供のように小さく泣き声をあげる。


「急に母さんの事を思い出したの。一年経って落ち着いてきたのに急に――リングが倒れたの同時くらいに、悲しさが、心を埋め尽くしたの」


「オカミ、さん……」


「ごめんねリング……あんたが倒れた事より、あの時の私は悲しさで動けなかった。この部屋まで連れて来たのは緑だし、出て行ったシュリを追いかけたのは白。私は馬鹿みたいに昔の悲しさに打ちひしがれて、気が落ち着くよう必死で料理を作ってただけ。本当に、何も出来なくて、ごめんなさい」


抱きしめる腕に力がこもり、オカミは静かに泣き続けた。

リングはオカミの背に腕を回し、そして慈しむように、優しく抱きしめる。


「一年なんかじゃ傷は塞がらないし、ミナミさんの事を忘れちゃ駄目ですよ。その人を想う事は、その人への供養にだってなるはずだから。だから謝らないで下さい、僕は、本当なら悲劇の事で責められる人間なんですから」


一年前のあの日、自分のせいで大切な人はいなくなってしまった。

後悔は数え切れないほどした。

眠れない日だって、あった。

それでも生きていけるのは、自分より悲しいはずの人達が前を向いて生きているからだ。

そんな風に強くなろうと、罪の重さと向き合い償おうと思ったからだ。


「……思い出して、悲しみや憎しみが噴き出したなら僕が全部受け止めます。普段優しくしてくれる皆への罪滅ぼしなんて、それくらいしかできないから」


悲しい響きの言葉と老成した微笑みは、しかし涙に濡れたオカミには届かない。

オカミはただただ悲しさに暮れて、やり場のない感情に口をつぐみ、さめざめと泣く。

頭に残る不快なあの音は、頭痛となって悲しさと一緒にオカミを苦しめていた。








「む?」


後ろで物音が聞こえた気がし、ノルマンは暗い森の中後ろに視線を送る。しかし広がるのは鬱蒼と茂った木々のみで、これといって何かがいる様子はない。


「気のせいかの……」


杖代わりの鍬を握り直すと、ノルマンは再び森の奥深くへと歩を進める。

太陽の光を拒んだような森を、彼がこうして一人で歩いているのには理由があった。

リングと緑がヒカリ草を採って森から出た後も、光妖精は落ち着きなくノルマンや畑の周りをフラフラとしていた。

シュリが森にいたので騒ぎはその時からだが、今は誰も森の中にはいないはずで、妖精達が森から出てくる理由が見当たらない。

ノルマンから何かを貰うために出てくるのなら分かるが、今朝はもう揚げパンをやっている。

まるで森に入りたくないような――助けを求めるような。

光妖精の心が視えぬノルマンにもそういった気配が感じ取れるほど、光妖精達は慌てふためいている気がした。


(一体奥に、何があるんじゃ?)


目を凝らさねば見えない先は光妖精が照らしてくれて、その光に導かれるようにノルマンは進んだ。

彼でも滅多な事では森に入らないが、しかしこんな奥深くまで入ったのは久しぶりの事である。


「お前達、わしをどこまで連れて行きたいんじゃ? といっても答えは返ってこんだろうがの」


息も上がってきたので堪らず妖精達に話しかけてみるも、声など聞こえはしない。そんな事実に更に疲れを感じ、それでも道案内が続く限りしばらく歩き続ける。

途中で何度も休憩し、やっと辿り着いたのは開けた空き地のような場所であった。

頭上を覆う木々には切り取られたような風穴が開き、陽光がその穴から地面に注がれている。

地面は他とは異なり土肌を見せており、何かで削られたようにくザラザラとしていた。

それはまるで、空から降ってきた巨大なものがこの空間を作ったように見えた。

靴底にザラつく地面を踏みしめながらノルマンは唖然とした。

龍が渡りをしてきてもこんな事にはならず、何より森の中にこのような空間が出来たら、普通は気付くはずである。

ノルマンの家は森の東側にあり、入口までは歩いて少しの場所にある。

歩いた方角からするに、この場所は森の東側の奥深くにあるようなので、ノルマンが気付かないわけが無いのだ。

しかして現実は、ノルマンはおろか隣近所でさえ異音を耳にし伝えてきた者はいない。

見て、初めて認識できたのだ。惨事と呼ぶに相応しい光景を。


「何じゃ……これは……」


息を呑みながら空間へ入っていくと、ある一点に光妖精が集まっているのを見つけた。

妖精達を優しくどかすと、そこでは草むらの影で何かが光を放っている。

上からの太陽の光を反射するそれは明らかに妖精とは違い、言うなれば金属の反射のような、鋭利な輝きをしていた。

鍬を前に構えながらそれに手を伸ばし、ノルマンはそっと触れた。

ひんやりした固い物を握ったと思った、瞬間――後ろで聞き慣れない声が響く。


「無くしたと思っていたらそんな所にあったのでスね。お陰で助かりましたでス」


「!?」


「ごめんなさい……あなたの脳に音は不要なのデす」


ノルマンの視界は真っ暗闇になり、意識の糸はブツリと切れてしまう。

ノルマンが倒れる前に抱きかかえ地面に寝かし、声の主であるシュリは彼の手に握られた物を手に取った。

その顔はオカミに見せていた顔とは違い、無表情で冷たい。


「妖精が教えるとは予想外でス。空を飛べない不便さも味わいましたし、『部品』の大切さを痛感しました」


太陽の光にかざしたのは、黄銅色をした歯車だった。手の平に収まるほど小さいものであったが、もしこれをリングが見たとしたら驚いた事であろう。

シュリが部品といった歯車が、時計塔のものとまったく同じ物に見える事に。


「きっと、妖精では蓄えきれないエネルギーを持っているから恐かったんでスね――なんにせよ、見つかって良かったでス」


そういって歯車を地面に立てると、左足で慎重に踏んだ。靴底に沈むとカチッという何かに嵌まるような音が響き、瞬間シュリの身体が仄かに光りだす。

光をたぎらせ、マスクの隙間は金色に輝き、遠巻きにいた光妖精は一斉に逃げ出す。

逃げられた事に多少ショックを受けながらも、シュリは今後の事を改めて考える。


(あの龍は他より耳が良いみたいでスね、音が聞こえたみたいでスし。それにあの少年……なぜ、塔と同じ音を出していたのでしょう?)


しかし、それよりも――と思う。


(まずは、あの店の女主人からでスね)


オカミに施していた『治療』を再開するのが先決だと思える。

途中だったので中途半端に記憶を引っ張り出してしまい、多分今頃は、悲しみに暮れているであろう。


「全ての不協和音を取り除く。それでは『歯車人形』である私の本分を果たしに行きまスか」


金属同士の擦れ合う音を出しながら、シュリの足が地面から浮き上がり――すぐに着地してしまった。




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