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〜第一章〜

息さえも凍る宵闇の空を照らすように、三つ子の月が高い外壁から顔を覗かせ、暗闇に支配されていた空は淡い明るさでの眼下の街を浮かび上がらせる。

日入りと共に鳴った時計塔の鐘も、太陽が見えなくなるのと同時に響きを消し、街はしんと静まり返った時間を迎えていた。


――交流の街ロドニア。


『他の街の存在』を住人が知っている、この世界では奇異と呼べる街は今はただし、静かな夜を過ごしていた。

空気は薄氷を張ったように冷たく、息は一輪の花を咲かせてしまうこの季節。

人々は家で暖をとり、家族や愛する者との団欒を楽しんでいる。

田畑の収穫期と年納めの祭りのちょうど中間にあたる今は、街にとっても人々にとっても静かに過ごす数少ない季節であった。

そんな寒空の下に顔を出すのは、酒場にたむろする酔っ払いか『渡りの龍』くらいであろう。


「うわああああ!?」


いや、他にどんな時期も関係なく、街にくり出す者はいた。


「なんだぁ? 『調律師』のくせに弱音吐くんじゃねえよ。せっかく俺が背中に乗っけてやってるってのによ」


「た、確かに乗せてくれたのは嬉しいですけど! こんなにスピード出さなくたってのわああ!?」


漆黒に三つ子月だけだった簡素な夜空を、少年の悲鳴と共に横なぎにするのは白くて長いもの。

遮るもののない空を縦横無尽に飛び回り、白い光は尾となって、光の粒に変わる。

それはまるで、古いお伽話にあるように、雪の妖精が新雪を降り注がせる幻想的な景色に見えた。


「な、なんか意識が遠く……」


少年の、悲鳴ともつかぬ叫び声がなければ、だが。


「おいおい気絶するのは早えぞリング。このハク様の絶技はまだまだ残ってるんだからなぁ!」 


快活に笑いだしたその声に、当然ながら返事は返ってこなかった。


「……で、結局あんたは気絶したリングを連れ回して、馬鹿みたいなスピードで空中散歩を楽しんでたのね?」


「だ、だってよぉ……ベンさんはあれぐらいのスピード屁でもねえって言ってたしよ。だから弟子のこいつだって大丈夫と痛え!?」


「言い訳すんな馬鹿!!」


そんな、怒気を孕んだ女性の声が響いているのは、外壁西区に建つ一軒の酒場からであった。

太陽の光を吸収し、周りが暗くなると放出するという特性を持つ陽光石を使って照らされた看板には、複数の文字体で『渡りの止まり木亭』と書かれている。

店の面する路地には他にも光を称えた看板があり、軒を連ねた酒場のそこかしこからは笑い声が漏れてきている。

しかしここだけは、静けさが糸のように張り詰め、それを弾けさせようとする者はいなかった。

店内で酒を飲んでいた客は我関せずを通しており、カウンターの内と外で睨みあう男女へ視線をくべる事はしない。

と、カウンターの内にいた女性は短く溜め息を吐いた。

それと共に艶やかな黒髪が肩をすべり、シャツの胸元から露わになっていた大きな胸の谷間を隠す。

鋭い目つきを更に剣呑なものにして、オレンジ色の明かりに照らされた褐色の手を額にあてると、とりあえずと前置きして話し出す。


(ハク)、リングとベンさんを一緒にしないの。あの人は別格、そこら辺の男も尻尾巻いて逃げ出すくらい豪胆な人なのよ」


女性のその言葉に客の何人かは同意の頷きをみせる。

今まで睨み返していた男も、視線を虚空に投げ出して考え込み、暫くして女性へと頭を下げた。


「まぁ、そう言われりゃそうだな。どうも俺は人の小さな違いが未だに掴めないみたいだぜ。悪かったなオカミ」


その言葉を聞きオカミは盛大に溜め息を吐くが、今回は怒りより呆れの色のほうが強かった。


「全然小さな違いじゃないと思うけどね……あと謝るのは私じゃなくリングに。返事は?」


呼ばれた白は細長の顔をオカミに向け、明かりでオレンジになった白髪を掻きながら、唸り声だけを返した。

ブーツの音を響かせ、近くの丸テーブルの上で外套を被り寝かされている少年へと歩み寄る。

無意識に顎髭に触ると、なぜだか濡れていた。

何事かと手を見れば、何の事はない。先ほど飲んだ醸造酒が付いていただけであった。

そこで何を思ったのか、白は表情を笑みに変える。

オカミは背中しか見えないので気付く事はないが、底意地の悪そうな笑みを見ていた客の一人は呆れ顔になる。

白の脳内で巡っている考えに見当が付いたのだろうが、関わりあう気はない。

面倒になるのは目に見えているし、そんな事をするくらいだったら『別の街に渡った』際、土産として持ってきた食べ物をつまんでいた方がマシである。

白が近づいても少年は小さく寝息を立てたまま、たまに顔を歪ませるだけだった。

まだあどけなさの残る顔は中性的で、目深に被った帽子からのぞく青髪も少年をより中性的に見せている。

右目は黒い眼帯で覆われ、怖いというより可愛らしいドクロマークがあしらわれていた。

被せられていた外套を剥ぐと、少年は寒くなったのか身じろぎをして、寝返りを打つように転がり――床に激突した。


「かぶっ!?」


「きゃっ!?」


少年の悲鳴とオカミの悲鳴は同時に聞こえ、白はというと腹を抱えて笑っている。


「こ、この馬鹿龍! リングが怪我したらどうすんのよ!」


途端投げつけられた樫の木のお椀が後頭部に直撃し、鈍い音を響かせて白も地面に激突する。

客がそのやり取りを冷めた視線や笑い声で囲む中、リングは打ちつけた鼻をこすりながら、半分だけ開いた目で辺りを見回した。


「ふぁ、ふぁんふぉ着いふぁみふぁいふぇすね」


「は? 何だって?」


本人も恥ずかしかったのか頬を染め、今度は意識をしっかりさせてから喋りだす。


「ちゃんと着いたみたいですねって言ったんですよ。僕、途中で気絶して意識が飛んでましたから……」


リングより先に起き上がった白は片手を差し出し、得意そうに鼻を鳴らした。


「はっ、当たり前だろうが。街の外ならいざ知らず、俺はここの渡りの龍の中じゃ一番速えしな。そこらの三流と一緒にすんじゃねえよ」


その言葉に一部の客が談笑するのを止め、怒りを孕んだ目で白を睨んだ。

白は意に介した様子もなく、差し出した手を更にリングへと近づける。

立ち上がるのが先決と、リングはその手を握ろうとした。

すると、


「なぁ……リングって確か酒が弱いんだよなぁ?」


言われると同時、勢いよく鼻に白の手がくっつけられる。

濡れた感触を感じたのは一瞬。

呼吸を数回したら世界は反転、地面は波打ち、ぐるぐると不可思議に全てが回りだす。

そして再び、リングは床に突っ伏すのであった。

酒の匂いを嗅いだだけでこうなるのかと、驚きながらも大笑いする白。

けれども笑い声を合図にするように、後ろではパン生地用の伸ばし棒を握ったオカミと、拳をグーパーさせている客が仁王立ちしていた――







世界は、始まりも終わりもない闇に包まれていた。

世界がなぜこうなったのか誰も知らず、世界がなぜこうなっているのか誰も分からなかった。

生きる場所は、一つの街。

高い外壁に囲まれたそこは、生きる者達の揺りかごであり墓場であった。

人々は街に生まれ、なぜその街以外が存在していないか疑問に浮かべる事無く、死して土へと還る。

妖精も、動物も、植物もそれは同じであった。

街に生まれた者達には外壁の中が世界であり、全てであり、それ以上は何も存在していない。

暮らすこの街こそが世界の全て、生きる者達はそう思っていた――いや、それ以外の選択肢など存在しなかったのだ。

だが、一つの種族と一種の職業の者達は本当の世界を知っていた。

一つの種族とは、龍と呼ばれる者達の事である。

彼らは己が身から放たれる白い光を道連れに、『世界に無数に存在する街』を行き来する事ができた。

始まりも終わりもない闇を、飛び回ることができた。

しかし、龍といっても全てが街を行き来できるわけではない。

右も左も上も下も前も後ろも、自分自身さえ分からなくなる闇の中で飛ぶには強靭な精神と屈強な肉体。

何よりも、果てのない闇から街の光を見つけ出す眼力を持っていなければならなかった。

街を行き来できる龍は総じて渡りの龍と名乗り、ロドニア以外の街では時に神の御使いとして、時に世界に牙を剥く化け物として、人々からは信仰と恐怖の対象とされていた。

そしてもう一種の職業とは、街に存在する巨大な時計塔に住む、調律師の事である。

生きる者に太陽の光は必要であり、月の光は夜を教えてくれる貴重なもの。

時計塔はそれらの出現を、鐘を鳴らして人々に教えていた。

鐘が鳴れば太陽が外壁から顔を覗かせ、街には朝が訪れる。もう一度鳴れば現れる三つ子月が夜の訪れを静かに知らせた。

文字通り大きな存在である時計塔に住む調律師は、龍のほかに世界の有り様を知る事の許された、唯一の職業であった。

だが、ロドニアという街でその特権は意味のないものと言って相違ない。

それには街全体、住む者全てが他の街の存在を知っているという特殊な事態にしていた。

なぜ真実を街の住人は知っているのか、街の成り立ちにも深く関わるその理由は、しかして今は誰も知る人はいない。

通常(といっても他と交流できる渡りの龍のみであるが)、あまり街の人間との交流を持とうとしない。

龍は街の外壁を視認すると発光をやめ、街に入る寸前に人の身へと変化する。その後は自身の満足するまで、街に溶け込んで過ごすだけ。

例えば龍がその巨躯のまま真実を語れば、街に住む者達の世界への認識が変わるかもしれない。

しかしそんな事は思うだけで、本能の奥底にこびり付いた『何か』が、龍自身に制止をかけてくる。

龍はそれに気づかず、無意識のうちに行動と思考を限定されていた。

これといった目的もないのに、危険を犯してまで街々を渡る行動……まるで命令に従う従順な機械のような行動を龍は止める事ができない。

それが、自分の意思によるものではないとしても――





レンガ造りの家が石畳の路地を挟むように建ち、白はその路地の端に、身体中を撫でる夜の外気を気にした様子もなく胡坐をかいていた。

顔中は痛々しく腫れており、その隣には寒さに震えるリングがいる。


「白さん、何だか頭の形が変になってますけど大丈夫ですか?」


店内では照明に塗りつぶされ分からなかったが、リングの左目は髪と同じ青色に輝いていた。

底の知れないその色は宝石のように煌めき、少年の持つ意志の強さを周囲へと放っているように思える。


「お前のせいだろうがぁ!」


「痛いですっ!?」


反面リングの声の気弱な響きは、そんな印象を粉微塵に打ち消すほど。

いやむしろ気弱な感じが強いので、リングの印象は結局のところ気弱に落ち着いてしまう。


「そんな! だって気絶とかお酒とか悪いのは完璧に白さんじゃないですか!」


自他共に認める気弱ながら理不尽な暴力に声を荒げてみるものの、白の一睨みでそれは掻き消えてしまう。

仕方がないので羽織る外套のを立て、口元を隠し子供の駄々みたく、だってだってと小さく呟くだけにする。

それでもまた叩かれてしまい、リングは犬のような悲鳴を上げる事になった。


「まぁ笑わしてもらったし、痛み分けって事にしてやるよ。久しぶりに腹の底から笑ったしな」


そう言ったあと白は大きな欠伸をし、三つ子月に似た金色の瞳の目尻に涙を溜める。


「そういや昨日渡りをして戻ってきたんだから、そりゃあ疲れてるよな。飛んでる途中で寝ちまったらリングのせいだな」


「お、怖ろしい事言わないでください……」


その場合背中に乗ったリングは空中へと投げ出され、収穫祭で投げられるトマトのようや模様を地面に刻む事であろう。

少年の身体を包む身震いは寒さか、はたまたグロテスクな想像のせいか。

知らず訪れていた静寂を破るように、その時渡りの龍の止まり木亭の扉が音を発した。


「寒い中待たせてごめんなさい。はい、これがベンさんのいつもの。で、これはリングにね」


蝶番の甲高い音と共に扉から出てきたオカミは、持っていた大小の紙袋をリングに渡した。

その際少年が涙目であることを見つけ、視線を逸らすように月を仰いでいた白を睨む。


「あんたまさか、リングにまた何かしたの?」


「ええっ!? まままさか俺がそんな何度もするわけねえだろ。な、なぁリング?」


敏感に反応する白に睨みを強めるオカミ。助けを求めるようにかけられた声にリングが曖昧な笑みで返すと、案の定、鈍く重苦しい音と白の悲鳴が夜空を彩った。


「いつも有難うございますオカミさん――うわあ! これ、揚げパンですか!!」


渡された紙袋の匂いを嗅いだ途端、リングは無邪気な笑顔になり、それを見てオカミも顔を綻ばせる。

薄墨色の瞳を細め、眼差しは我が子を見るような慈愛に満ちる。紙袋の匂いにいまだ幸せ顔のリングの手に、オカミは小さな麻袋を握らせた。


「あとこれも持っていきなさい。『火妖精』の鱗粉を詰めてあるから、少しの時間なら暖かいはずよ?」


麻袋は淡くオレンジ色に光っており、熱がじんわりと広がってリングを温めてくれる。


「お世話になりっぱなしで、本当に有難うございます!」


「そんな事気にしなくていいの。ベンさんには街の人全員がお世話になってるし、頑張ってるリングを私は応援してあげたいしね」


その言葉にリングは思わず涙ぐんでしまった。涙と寒さで垂れそうになる鼻水をすすり、オカミに抱きついて声と身体を震わせた。


「よしよし、泣きたくなったらいつでも来なさいよ、いいわね?」


オカミの手の平がそっとリングの頭を撫で、二人は凍てつく寒さに耐えて温めあう親子のようだった。

その光景に、その優しさに一人蚊帳の外であった白はしばらく沈黙していたが、待つ事に耐えられなかったのか咳払いを一つ。

気付いたようにリングが慌てて離れると、オカミは名残惜しそうな顔をし、いかにも不機嫌といった表情を白に向けた。


「ったく相変わらず空気読めないんだから。それに店で揉め事起こすなって言ってんでしょうが! 喧嘩売るような事するんじゃないの!」


ひとしきり文句を言うと外套のポケットから小瓶を取り出し、無造作に白へと投げ渡す。


「ほら、頼まれてた目薬。前みたいに変な模様の服とか靴は要らないから、交換は珍しい食料やお酒にしてよ。あと明日でいいから光妖精に鱗粉のお礼しに行く事。いい?」


有無を言わさぬ迫力のオカミに不満げに眉を寄せた白であったが、短く唸るだけで反論はしない。

それはチラチラと白の視界の端に映る、オカミの手にしっかりと握られた生地伸ばしの棒が影響しているのであろう。


「リング! ベンさんが待ってるだろうから早く時計塔に戻るぞ!」


空々しい愛想笑いをオカミに向け、白は心なしか早足で離れていく。

それを見て二人は小さく笑いあい、小指ほどになるまで距離を開けた白が合図するように手を振った。

途端、朝日よりも眩しい光が路地全体にほとばしる。

突然の出来事に、リングは慌てることなく瞼を閉じた。

光からはいつも温かなものを感じ、それはまるで――まるで『時計塔の心を視る』時のように、リングに安らぎと安心を与えてくれていた。

目蓋の裏で白く染められていた視界が夜の色に戻り始め、夢心地だったリングは現実に戻るよう目蓋を開ける。

そうして瞳に映ったのは、見知った男の本来の姿。

月光を反射する白銀の鱗に覆われ、家五軒でも足りない巨木のような身体。意思を持ったのように宙で揺らぐ一対の髭に、二対の鉤爪はしっかりと石畳に食らいついている。

白い鬣を寒風に揺らし、全てを飲み込みそうな口からは無数の牙を不気味に覗かせる。爛々と輝く金色の瞳に睨まれれば、きっとどんな相手も震えてしまうだろう。


「この姿のほうがやっぱ落ち着くな。何ていうか、ザ・白様って感じがしてな!」


快活な笑いは聞き覚えのあるもので、リングはなぜかホッとする。いつもの知り合いが目の前にいる、姿形が変わっても揺るいでいない真実は、安堵の息となってリングの口から出た。


「なんだぁ、何今更ビビってんだよ? 心配しなくても噛み付いたりしねえよ」


他の街へ渡る事のできる、唯一の種族。

リングとオカミの眼前に現れたのは、渡りの龍である白の真の姿であった。


「それじゃあ帰ります。おやすみなさいオカミさん」


「おやすみ、っていっても私はまだ寝ないけどね。まだまだ飲みたい龍達が店内で待ってるし、寝るときはリングの『アレ』を聞きながらって決めてるから」


オカミの言ったその言葉に、リングは思わず苦笑いを浮かべる。

恥ずかしいような気まずいような、微妙な顔をしたまま白の背に乗ると、悪戯っぽく笑っているオカミに細い声で返事をした。


「アレはその……時計塔のために仕方なくやってるだけですし。今日もやるとは限りませんよ?」


振り落とされないため白の鬣を掴み、弱々しい視線をオカミに送るが、しかしオカミは確信めいた声で言う。


「リングはやるわよ。だってどんな人の頼みであれ断るなんてしない性格じゃない」


つまりオカミは今、リングに頼んでいるわけで。リングは誰の頼みも断らない性格であるから、オカミから頼まれた時点でやる事は決定済みという――要するに、そういう事。


「は……はは」


真意を理解し乾いた笑い声を上げると、それに重ねるように白が呆れた声を出す。


「そろそろ本当に行くぞ? お前らの話が終わるのを待ってたらマジで寝ちまいそうだしな」


寝られたら大変だとリングは慌ててオカミに会釈し、白にもういいですよと声をかける。

白の身体は徐々に白い光に包まれ、光は粒子になって弾けて消えるを繰り返す。

ゆっくり浮きあがったのは一瞬。オカミが瞬きをした瞬間には、白は輝く尾を引きながら空高くへと舞い上がっていた。

すぐに豆粒より小さくなった龍と少年を見送ると、オカミは冷たい空気を目一杯に吸って身体に褐を入れる。


「よし! アレのために今日は早めに龍達を眠らせるかな!!」


そのためには酒を振舞いつつも寝室を用意して、と。

休む間の無い忙しさを乗り切るため、オカミは力強く己の頬を叩いてみせた。




淡い月明かりが光と影の幻想的なコントラストを作り出し、仄かに光る街は静寂へと沈んでいる。

闇の中に更に闇を重ねたような宵闇は見えない果てまで続いており、空に浮かぶ月だけが希薄な街の存在を教えているようだった。

三つ子月の右端を隠すように建つ時計塔は街を両断する影をおろし、その影の道をなぞるようにして白は飛んでいた。

まだ距離が離れているにも関わらず時計塔は視界いっぱいに広がり、月の光さえ届かない時計盤と鐘楼のある最上階は、ここからでは闇に同化して見る事ができない。

吹き抜ける風はリングの身体を容赦なく冷やし、冷えた耳をオカミから貰った麻袋で温めていると、不意に白の声が響いてきた。


「ベンさんは歯車部屋にいるだろうが、リングはどうするんだ? 最上階まで送ってやろうか?」


「いえ、あそこには師匠に頼まれた物を渡してから行きます。いつもの所までお願いします」


「おう、分かった」


短いやり取りののち、時計塔の足元に到達した白は上に向きを変えて塔を昇りはじめる。

振り落とされないようにしっかりとリングは鬣を握り、しばらくしてスピードは徐々に緩まり浮上が止まった。

白が身体を水平にしたのでリングは握る力を抜いた。

目の前には時計塔の石造りの壁が見え、白の白い光に照らされた場所には人一人が入れそうな穴が開いている。

この、空を飛べる龍や妖精でなければ到達できない穴こそ、ロドニアの時計塔に入る唯一の入口であった。

穴から下は石造りの壁が続くのみで、地面に接した部分に入口のようなものは見当たらない。

まるで人々を拒むかのような造りであるが、なぜそのような構造をしているのかは、やはり誰も知らない。

ここにただただ在り続け、途切れる事無く朝と夜を与えてくれる。

太陽や月に疑問が浮かばぬように、人々の時計塔への認識も、それに似たようなものをしていた。

――漠然として、それでいて絶対的に。

拒もうとすら思わない存在が、この巨大な建造物なのだ。

幾年もの時を過ごした証はヒビとなって石壁に走り、しかし脆さは感じられず、あるのは頑強な存在感のみ。

穴へと飛び移ると、リングは頭を下げて白にお礼を告げた。

白はそれに唸り声だけを返し、光の粒子を僅かに残して飛んでいった。

すぐに見えなくなる白と、瞬く間に消えた光の粒子で、リングの周りは途端に闇に包まれる。

リングは手探りで外套のポケットを漁り、何かを取り出す。

両の手で強く擦り合わすと、それは次第に光りだし暗闇の穴を照らし始めた。


「ヒカリ草は……もう無いみたいだな。貯蔵庫も確か少なかったと思うし、明日くらいに摘みに行かないと」


リングの手で光を放っているのは、ヒカリ草という植物である。

光妖精の住む森のみに生え、その葉は強く擦ると発光するという不思議な性質を持っている。

発光している時間は短いが、暗い森の中や燃えやすい物のある場所でヒカリ草は松明よりも重宝されていた。

光が消える前に目的の場所へと着くため、早足で歩き出す。

穴は石造りの壁や天井が通路として伸びており、その先は闇に呑まれて見えない。

自分の靴音と穴の中へ吹く風の鳴き声だけがしばらく続き、ヒカリ草の発光が弱りだした時、リングは通路の終着点へ辿り着いた。

目の前には古ぼけた木の扉がある。

錆びかけの取っ手を握ろうとした瞬間、ついにヒカリ草の発光が消えてしまった。

しかしリングは慌てずに闇の中、慣れた手つきで取っ手を探し当てた。

引いた扉の隙間からはオレンジ色の光が漏れ、通れるギリギリまで開けるとリングは素早く移動して、扉をくぐるとすぐに閉める。

そうしなければ、この部屋を明るくしている『あの子』が寒がってしまうからである。


「やっっと帰ってきたかリング! 俺はもう腹が減って倒れそうだぞ!!」


「お、お待たせしました、ベン師匠」


オレンジの光に包まれた空間でリングが声をかけた先、ベンと呼ばれた男は椅子に座ってこちらを向いていた。




通路の扉の先には、歯車部屋と呼ばれる空間が広がっている。

周りを石造りの壁で囲まれている時計塔。

しかし中に入れば要所要所に組まれた木材や、巨大な真鍮製のの歯車が内部を形成している。

そんな歯車達から逃れるように、塔内部の一角には木材やレンガで組まれた空間があり、しかし天井は存在せず、頭上に開いた穴から歯車群を見上げる事ができた。

名前の由来もまた、そこからきている。

レンガの壁の端には本棚が窮屈そうにその身を置き、更に窮屈そうに本が詰め込まれていた。

絨毯の敷かれた床には塔に関する図面や資料が散乱し、調律師にとって命ともいえる工具箱さえ無造作に転がされている。

足の踏み場もない床を進んで、本棚と壁の隙間に挟まるように机に向かう。

その机とワンセットの椅子に腰かけたベンに、リングは近づいていった。


「早く俺に夜食を! このまま腹が減ってたんじゃ居眠りすらできないわい!」


「……師匠、弟子の前でそういう事を言わないでください」


若干呆れて紙袋を差し出すとベンは奪い取るように掴み、目にも止まらぬ速さで袋を破いていった。

白髪じりの黒髪と、深く刻まれた顔の皺は身体の大きさと相互して威厳を感じさせる。

が、先ほどの行動を見る限り見た目と中身が印象通りとは言い難い。

破られた袋から出てきたのは、スライスした野菜や干し肉を大量に挟んだパンであった。

その分厚さはリングの口には大きく、無論ベンの口でも扱いきれないほどだ。

の、はずなのだが。


「――――っ!」


「そ、そんな一心不乱に食べなくてもっ。急ぐとまた喉に詰まらせますよ?」


心配するリングの言葉さえ聞こえないのか、ベンは瞳に危ない光を讃えながらパンに喰らいつく。

見る見る消えていく超重量級のパン。

どれだけ腹が減っていたのかと突っ込みたくなりながら、オカミから貰っていたお茶をいつもの様にコップに注いだ。

そして、渡りの龍の止まり木亭の裏メニューにもなっている通称『ベンさんのいつもの夜食』は一口分を残すのみになり、ベンは名残惜しそうに目を細めた後それを口に入れた。


「っこ!?」


「……ええ!? ここで詰まらせるんですか!!」


これには虚を突かれ大声で突っ込んでしまい、直後そんな場合じゃないと慌ててベンにお茶を渡す。


「――くはあ! ああ死ぬかと思った。今回は本当に死ぬかと思ったぞ! そしてお茶が苦い!?」


涙ぐみ咳込みながらも、ベンは一息つくように声を出した。

リングは床を少し片付けて座ると、自分も一口飲む。慣れ親しんだいつもの味だ。


「オカミさん特製ですね。師匠がどうせ詰まらせるからと渡してくれました。いつもの事ですしね」


そう言って外套を脱いだリングの服装は、目の前にいるベンと同じものであった。

綿で編まれた胸当てのある幅広の作業ズボン。

上半身には裾の短い上着を着て、肩辺りに付いているファスナーが袖の取り外しが可能な事を教えてくれる。

違いといえば、防寒用の帽子をリングが被っているくらいであろうか。

ペアルックというには無骨な感じのする服装。

これは調律師の正装のようなものである。道具を入れるポケットが至る所に付いており、闇の広がる時計塔内で迷わぬよう上着には光妖精の鱗粉が擦りこまれ、微かに光るようになっている。

リングは飛び出している道具に気をつけながら腰のポーチを探り、程なくして折り畳みナイフを取り出す。

そして壁の窪みで瞬いている明かりを、まるでこちらへ呼ぶかのように手招きした。

すると不思議な事に明かりは飛び上がり、ふらふらと揺れながらリングの膝に音もなく止まった。


「今日はオカミさんが揚げパンをくれたんだ。ローロも食べるよね?」


リングに話しかけられるとオレンジ色は一層光り輝いて、嬉しさを表現するかのように部屋中を飛び回る。

そんな光景を視界の端で捉えながら、ベンは火をつけたキセルを吹かしていた。

紫煙は薄く広がりながら、歯車部屋の光も届かぬ上方の闇に吸い込まれていく。

羽虫が光へ引き付けられるように紫煙は闇に誘い込まれ、そうして知らぬ間に全てを飲み込まれ尽くす。


「…………」


ベンは、この光景を見るたびに思う。

太陽と月に照らされ存在を確かにしているロドニアも、光が無くなればこの煙のように闇に取り込まれ、消えていってしまうのではないかと。

それを空想と呼ぶには、しかしベンは世界の有様をよく知っていた。

世界の真実を、ロドニアにいる誰よりもよく知っていた。

そしてリング自身さえ知らぬ、リングの『本当の正体』もベンは知っていた。

だが、それを言うつもりはない。


「師匠、どうしたんですか?」


リングの声に我に返ったベンは、視線をそちらへと向ける。

見ればリングは揚げパンをナイフで切りながら食べており、時折小さく切ったパンを明かりへ差し出していた。

明かりに指が吸い込まれ、光から出てきた時にはパンは無くなっている。

何度も繰り返すそんな光景を、リングは優しい目で見つめる。

あんな真実、この子は知らなくてもいいのだ……心からそう思い、気持ちを隠すように明るい声を出した。


「どうだリング、ローロは元気そうか?」


煙管の火を消し、机上にあった角灯を手にベンは椅子から立ち上がる。


「はい、鱗粉は大丈夫って言ってます」


そうは言うが、ローロの声はベンには聞こえない。

しかし聞こえないのはいつもの事で、気にした様子もなくリング達に近づいていった。


「しかし、妖精の心が視えるお前がいて助かるわい。俺だけだとローロという名前も知り得なかったし、鱗粉を貰うのにも一苦労だからな」


リングの前まで来るとしゃがみ込み、角灯を床へと置く。角灯の蓋を開けながら、リングはその言葉に対して弱々しい笑みを浮かべた。


「……右目を失った代わりに視えるようになれたのは、とても良い事ですよね。妖精や時計塔の心を、言葉を知る事が出来るようになりましたし……『兄さん』には感謝しないと」


今にも泣きそうな顔を作り笑いで隠すリング、それを見てベンは己の軽はずみな発言を悔いた。

すぐに謝りの言葉を言うも、リングは気にしないで下さいと返し、それでも表情はとしている。

心配するようにローロが肩に擦り寄ってくると、僅かであるが表情が和らいだ。


「さて! それじゃあローロの鱗粉ですよね。ローロ、いつもみたいにお願いしていいかな?」


見え見えの空元気を出すリングに、けれどベンは何も言わない。

それを指摘すれば、普通を装っている少年の努力を無駄にしてしまうからだ。


「いつもみたいに頼むぞ、ローロ!」


ベンも出来るだけ明るく、元気に相槌を打った。



『暗くなったって何も戻りはしない。そんな暇があるのなら、笑えるように努力しろ!』



自分が昔言った言葉を、弟子が忠実に守っているのに師匠自身が守らないでどうする。

ベンの師匠としての、大人としての、そして身近にいる者としての優しさは、無言のままにリングへと届けられる。

リングはローロを促して、角灯の中へと入れる。

角灯の四方のガラスに挟まれ、蓋をした瞬間ローロの光は急激に強さを増した。

オレンジ色の発光は部屋全体を染め上げ、徐々に光度は減少していく。


「お疲れ様、ローロ」


蓋を開けるとローロは定位置のようにリングの膝へと移動する。角灯はローロが出たにも関わらず光を失っておらず、ベンはそれを持ち上げて満足そうに頷いた。


「今日はいつもより多く鱗粉を張り付けてくれたみたいだな。これだけの輝きなら、ヒカリ草を使わずに塔内の点検は終わりそうだ」


椅子にかけていた外套を羽織って工具箱を持つと、ベンはリングが入ってきたのとは別の扉へと向かう。

リングも外套を羽織って立ち上がろうとしたが、ベンは手を振ってそれを制した。


「お前は休んでていいわい、夜食を取りに行ってくれたしな。アレをやるんなら一休みしてからにしとけ、いいな?」


言うと、ベンは扉を開け暗闇の中へと消えていった。

後に残されたリングはしばらく無言で座り込み、ゆっくり身体を傾けて床に寝転がった。

膝から飛び上がるローロを気にせずに、リングは上方の暗闇をじっと見つめる。

静寂に微かに響く靴音は、ベンが螺旋階段を上がっている音であろう。その音もいつしか消え、周りはまた音一つない静寂に包まれた。


(……兄さん)


リングの思い浮かべたその言葉は、紫煙のようにただただ闇へと吸い込まれていった。



――それは昨日のように思い出す事のできる、幼い頃の記憶の欠片。

一年前、いや、それ以前からリングは無邪気な笑顔で両目を輝かせ、龍の背中に乗って時計塔へと通っていた。

街に住まう者の暗黙の了解であった『調律師以外の時計塔の立ち入り禁止』は、見習いでないのにリングは特別に許可されていた。

それは少年の境遇に対する憐れみや同情が関係していたかもしれないし、調律師のベンに気に入られていたからかもしれない。

……リングは、ロドニアで生まれた人間ではなかった。

ロドニアの住人は必ず黒目黒髪をしているのだが、リングは透き通るような青髪に同色の瞳をしている。

リングがこの街にやって来たのは――いや、『連れて来られた』のはまだ赤ん坊の頃である。

身体中を傷だらけにしながらも、渡りをしてきた龍が大事に抱えていたもの。

それが赤ん坊のリングであった。

その龍は息も絶え絶えなのに人々へ牙を剥き、必死で赤ん坊を守ろうとした。

人々が危害を加えるつもりのない事を伝えると、糸が切れたように地面に倒れ、最後の力を振り絞るように呟いた。


「その子を……リングを、守ってやってくれ……」


言い終わると自分の使命が終わったかのように息を引き取り、後に残されたのは龍の血にまみれた赤ん坊が一人だけ。

街に住む者は事態に困惑したが、赤ん坊が可哀想という意見は早々に一致するものとなり、龍の呟いたその名前で、リングはロドニアの街に受け入れられる事となった。

赤ん坊のリングの世話をしたのは、当時渡りの龍の止まり木亭を切り盛りしていたミナミという女性だ。

オカミという自分の娘を立派に育てている事や、世話好きな性格などは街全体の知る所であり、彼女なら適任だと皆が快諾した。

またミナミも迷う事無くリングを引き取り、以後十年間、ミナミがこの世を去るまでリングは幸せな時を過ごす。

そんな中リングが出会ったのが、ベンの一人息子であり調律師見習いだったローレンスであった。

リングが兄さんと呼ぶ、たったひとりの人。

そして、一年前の『悲劇』でいなくなってしまった、とても大切な人だった。




「……あ」


リングはいつの間にか眠ってしまっていた。

知らず閉じていた目蓋を開ければ、昔の記憶は霧散して、後悔と苦悩のみが満たす心だけが残される。

そのままボーっとしていると、自分にかけられている外套がある事に気付く。

煙管の匂いの染み付いた、自分のより二回りほど大きいそれを見て、リングは緩やかに笑う。


(有難うございます……師匠)


外套があるという事は、点検を終わらせ部屋まで戻ってきたはずだが、当のベンの姿は見当たらない。

きっと居住空間のある地下に行ったのだろうとリングは推測し、しっかりと床を踏みしめ立ち上がった。


「ローロ?」


自分の周りにいないのでふと探してみると、ローロは壁の窪みに戻っていた。

光が前よりも弱く、明滅を繰り返している事から寝ている事が分かる。

起こすのは申し訳なかったが、しかしローロがいなければヒカリ草のないリングが動く事は難しいので、悪いと思いつつも少し大きめの声で名前を呼んだ。

ローロは明滅を止めしばらくその場で光っていたが、意識がはっきりしたのかよろめきながらも飛んできた。


「寝てたのに起こしてごめんね。今からアレをしに行くんだ――いや、今日はまだ時計塔には頼まれてないよ。オカミさんが、その、聞きたいっていうから」


ローロの心を視ながらリングは歩き出す。

時計塔の足場は全てが木製である。

奥まで光を向ければ石造りの時計塔の壁部分が見えるが、そこまで照らす意味はなく、また光量自体足りていない。

しばらく進んでいると広がっていた足場が急に細いものとなり、空洞となった場所には代わりに巨大な歯車が鎮座していた。

時計塔と同じ年月を重ねたはずなのに、それらに錆びやヒビ割れがなく、光に照らされると黄銅色の輝きを放つ。

無機質なその塊は一定の速度で回転し、上に伸びている別の歯車と連動して回り続けている。

しかし不思議な事に音は無く、時計塔の中に響くのはリングの靴音のみであった。

音のしない理由を資料で読んだ気がするが、よく覚えてはいない。

きっと大した理由じゃなかったんだとリングは思考を切り替え、歩みを速めた。

程なくして、目的地である時計塔の内壁へと辿り着いた。

内側に緩く湾曲している石壁には螺旋状の階段が据え付けてあり、終わりが見えないほど上に続いている。

この螺旋階段を登ると、歯車が大量にひしめき合っている開けた場所に着くのだが、しかしそこからだと時計塔の最上階までは行く事はできない。

理由は単純で、階段がそこまでしか続いていないからである。

もし上に行こうと思うのなら龍に乗って外から向かうか、もう一つの手段だけ。

その手段は、リングにしか出来ないものであった。

等間隔に積まれた壁の石は何の変哲もなく目の前に広がっており、リングは光の届く範囲に探るような視線を向ける。

そして、小さく溜め息を吐いた。


「やっぱり、ちゃんと視ないと無理かな」


言うと眼帯を外す。

隠された右目が露わになり、冷たい外気に釣られるように目蓋が開けられた。

覗いた瞳は、人間の瞳と呼べるかも怪しいものであった。

皮膚を裂く痛々しい傷跡が目を覆い、睫毛は色素が抜け白くなってしまっている。

瞳には青の代わりに金色の歯車が嵌まっていた。

ゆっくり回る歯車は不気味で、気持ちの悪さを感じさせていた。

歯車の瞳で再度壁を見つめ、リングは両手を突き出した。

石の壁に統一性なく、優しく撫でるように触れる。

何度かそれを繰り返すと、変化と音はすぐにやってきた。

地割れのように重苦しく響く音。腹の底を揺さぶるような振動が身体を襲い、目の前の石壁は左右へと隙間を開けていく。

小さな破片や煙が収まるのを待ち、リングは開いた隙間に入っていった。

姿が全て見えなくなると再び地割れのような音が響き、壁は隙間を埋めていく。

そして時計塔内はまた、静寂に包まれた。


(何で毎回、違う順番なんだろう……)


いつも思うが答えなど出るはずもなく、リングは見慣れている風景に視線を向ける。

その空間は眩しいほどの光に満ちていた。

見えるのは汚れ一つない白色のみで、壁も床も天井もその色に統一されている。

両手を伸ばせば端に手がつく、狭い四方形の空間であった。

壁のつなぎ目も目を凝らさないと見えず、先ほど入ってきた隙間がどこにあるか探そうとしても、容易には見つけられない。

空間に満ちる光は、妖精や太陽とは違い暖かみのない無機質なものだ。

はっきりと周りは見えるが、白しかない空間で寂しさを紛らわすようにローロを呼んだ。

ローロはここにいるよと伝えるように強く発光し、リングの頭上を飛び回る。

リングは、この空間がこの世で一番嫌いであった。

毎日のように通っているはずなのに慣れる気配がせず、なぜかここにいると自分という存在が分からなくなる気がした。

純白の世界にたった一人で佇むような底無しの寂しさと、心に湧いてくる覚えのない懐かしさ。

真逆とも言える気持ちが渦巻くこの空間が、とても嫌いであった。

ローロと共に来るようにしてからは気が滅入る事はないが、それでも心の突っかかりは取れてはくれない。

何度か深呼吸して気を落ち着かせると、上を仰いで右目に力を込める。

中の歯車が回転し、金の円形を作り出し、リングは口を開いた。

そしてこの右目になって時計塔を視た時、初めて頭の中に響いた『単語』を紡ぐ。

時計塔に教えてもらった、あの言葉を。


「駆動装置――転送」


途端、リングの右目から金色の光が放たれる。

まばゆいそれは四方八方に飛んで空間中を照らし、流れる汗に比例して光量を上げていく。

散らばって放たれていた光の線は徐々に一つへ集まり、天井を貫く槍のような太い光線が形を成した。

そこに、円形となっていた歯車が這い出してくる。

痛々しさと不気味さは一層増し、リングの表情も一段と苦痛の色を帯びていく。

ローロがせわしなく周りを飛び続けているが、リングは気付いた様子もなく歯車が這い出すのを待った。

光線に中心の穴を射抜かれた歯車は上へ上へとあがり、天井にぶつかり、そのまま吸い込まれるように消えていった。

光線はガラス細工の割れたような甲高い音を響かせて砕け、リングは力が抜けたのか床にへたり込む。


「……大丈夫。いつもの、事だから」


慌てて寄ってきたローロに、優しく笑う。

辛く、苦しいであろう思いをしても笑う、しかしそれは痛々しい以外の何物でもない笑顔であった。

空間を振るわせる大きな衝撃と、抑揚のない声が響いたのはそんな時だ。


『駆動装置の転送を確認。擬似太陽「アポロン」への接続完了……ただいまの駆動率四十……五十……八十……百%到達。緊急事態発生、ネットワーク接続不可。各塔との外部回線のを確認。塔の三十九・九%の機能が使用不能。ただいま使用可能な機能は最上階への直通エレベーターのみになります』


感情の感じ取れない、女性か男性かすら判断できない声。

いつもの同じ言葉を言い、何を話しかけても答える事のないその声をリングは幾度となく聞いてきた。

殆ど理解のできない言葉を聞き流し、リングは汗を拭うと立ち上がる。

ローロに大丈夫と何度も言いながら、歯車が抜け白一色になった右目で再び上を仰ぎ見る。


「直通エレベーター……時計塔の心の、視える所まで」


『音声認識を開始――「第二の主人」と確認。命令を受理します』


その直後リングの足は下へと引っ張られる。

足から血を抜かれていくような嫌な感覚にしばらく耐えていると、唐突に浮遊感が身体を襲ってきた。

チン、という気の抜けるような音が空間に響くと壁が左右に開いていく。

リングはローロを肩に乗せ、重たい足取りで空間を後にした。



三つ子月の輝きは闇を淡い藍色へと変えているが、空に万遍なく広がる光でさえ時計塔の最上階には届いていない。

空間を出るとリングの周りに広がったのは暗闇のみで、ローロの光があっても壁や床さえ視認する事ができない。

今この場で存在を示すように光っているのは、ローロと外套から覗くリングの上着のみであった。

リングが何かを待つようにその場で立ち尽くしていると、途端遠くの暗闇の先に光が浮かび上がった。

布から染みだす水のように光は徐々に面積を広げ、いつしかそれは揺らぎながらもあるものに変わり、遠目から見ても分かるほどの巨大な鐘になった。

冷気と無音の広がる空間に現れた、暗闇とは決して混じり合わぬ純白に輝く鐘。

凝らして見れば細かな模様が彫られているのが分かり、淡い光はリングを安堵させてくれる。

その見慣れた姿にリングの顔は綻び、歩き出した足は知らず早足になっていた。


「こんばんわ」


近くまで行くと、その巨大さが相当のものだと分かる。

龍となった白が、とぐろを巻いたとしても鐘の大きさには勝てそうもなく、な威圧感とな存在感に震えたのか、ローロはリングの後ろに隠れてしまう。


「大丈夫だよローロ。時計塔はいつだって、本当にいつだって優しいんだから」


そっと鐘に触れた。ひんやりとした感触に一瞬寒気が走ったが、視る事で知れる時計塔の心によって、それはすぐに感じなくなる。


「うん、今夜も――歌を歌いにきたよ。今日? 別に何も無かったけど……ああ、あれは白さんだよ。ベンさんの昔からの知り合いの、前に話したよね?」


奇妙な光景であった。鐘に触れたリングが一人で喋り、その声だけが暗闇の先の先まで響いて消えていく。

リングと、ローロと、純白の鐘をしている時計塔の心という三つの要素で作り上げられた空間。

そこに広がる声はリングのみで、風景に内包されているのは形容しがたい奇妙さと、底冷えするような奇怪さだった。


「いつもの右目だね。大丈夫、ちょっと痛いけど転送の時よりはマシだから」


直後、ゆっくりと鐘がその身を浮き上がらせる。

すぐにリングの手の届かない高さまで上がり、床と鐘の間にリングの全身が入るほどまで浮上すると、その高さで鐘は止まった。

歩き出すリングにローロは怯えながらも付いて行こうとしたが、リングは笑顔でそれを制した。


「そんなに心配しなくてもすぐ終わるよ。それより付いてきてローロに何かある方が僕は心配だから、ね?」


言い聞かせると再び歩き出し、鐘の中心の真下まで行くとリングは上を仰ぐ。

光を称える純白が一面に広がる、不思議な光景であった。

龍の光のような温もりが全身を包み込み、高鳴りだす心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。

リングの到着を待っていたかのように光はどんどんと強くなり、次の瞬間リングの右目が金色の光線に射抜かれた。


「――――」


針に刺されたほどの痛み。そしてその後に残るのは、戻ってきたという確かな感覚。

リングの右目にはいつしか、前と同じ金色の歯車が埋まっていた。


「有難う……うん、いつもみたいに時計盤まで道を照らして」


声に鳴動して、リングの足元から光が伸びて道を作っていく。

光の粒に挟まれた細い闇の道が出来上がり、リングはそれに沿うように進み出した。

肩にローロを乗せ、鐘におやすみを伝えて。

その足取りは確かなのにどこか儚げで。

道を作りだす光が強すぎるせいか、周りの闇が濃すぎるせいか、リングの姿は消えかかったヒカリ草のように希薄に見える。

作られた光の道を踏み外せば闇に飲み込まれそうで、だからこそ一歩ずつ力を込めて踏みしめる。

自分はここにいるよと伝えるように、大きく靴音を響かせていく。

道の終着点を告げる光の円まで歩くと、冷たい夜風が頬を打ってきた。時計塔内から外に出た事に気付いたその瞬間、後ろから大量の光が浴びせられる。

後ろを振り返ってみれば、自分の頭より更に上にある時計盤がと輝いていて、希薄に揺れていたリングに確かな活力を注いでくれていた。

純白の後光を背負ったリングは、目蓋を閉じると大きく息を吸う。

そしてゆっくりと紡がれた歌声は、凍てつく空気を羽にして、光溢れた時計塔の最上階から、闇に、空に、街にと降り注がれた。



裏路地に面した勝手口、その横にある樽から醸造酒を汲んでいたオカミは顔を上げる。

耳に届く微かな旋律に気づくと、表情は優しく穏やかなものになっていった。


「今日は遅いからアレは無しかと思ってたけど……約束を守ってくれたし、今度来た時にサービスでもしようかしらね」


聞き入りながら身体は揺れて、まるで揺りかごで寝息を立てる赤ん坊のようにオカミは安心しきった顔をする。

前にオカミは、これは何の歌かとリングに聞いた事がある。

何の歌とか歌詞の意味とか分からない、ただ時計塔が教えてくれたんです――リングがはにかみながらそう言ったのを、覚えている。



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