05 羽のこぼれた黒揚羽
ジュリアは所長の不在を聞いて、その優美な眉根を釣り上げた。
「私のチケットを無駄にするつもりなの、あのエセ探偵!」
ぱしん、と音を立てて机にたたき置かれた紙片は2枚。
今をときめくジュリア・ベイカーが主演女優として舞台に上がる興業だ。それも初日のS席とくれば、プレミアが付く。
売却すればどの程度になるか瞬時に考えたソフィアは、しかしそれを打ち消した。
ただのチケットならともかく、ジュリアの好意に値がつけられようはずもない。
「……いいわよ、売っても」
むっとしたままジュリアが言う。内心ギクリとしたことは表に出さず、ソフィアは首をふった。
本当にこの人は、嘘を見抜くのが上手すぎる。
「そんなこと、しないわ」
「女優になりなさいよ、ソフィー。それだけ感情をコントロールできれば合格よ」
「いえ、そんなことは」
「ひとつ舞台に出ると、これくらいよ?」
整えられた指先で示された額面に、ソフィアが少し沈黙する。
「それはジュリアだからでしょう?」
有名女優価格だと指摘すれば、当の女優は小さく舌打ちをしてみせた。
「けどこの舞台、『クロアゲハの棘』だったら脇役でも結構良い稼ぎになるわよ」
青い紙片には、深い紫で蝶々の影絵が描かれている。幻想的な色づかいだった。
「どんなお話なの?」
少し興味を惹かれたソフィアが顔をあげる。
「ないしょ。観てのお楽しみ、と言いたいところなんだけど」
ジュリアが首を傾げると、ゆるやかに波打つ金色の髪が、さらさらと音を立てて背中に流れた。
「ソフィーにはひとつ、協力してほしいのよ」
「舞台は観る専門だけど」
「今回はそれで大丈夫。あなた腕に蝶の形をした痣があるでしょう」
二の腕に触れられ、ソフィアはぎくりと体をこわばらせた。
「それを今度の舞台で参考にさせてほしいの」
ソフィアの腕には、小さな痣があった。
その青紫色は、彼女が小さな頃からずっと二の腕の内側に沈着している。
痣は翅を広げた蝶に似ていた。右上が少し欠けた、黒い揚羽蝶。
「いつ見たの?」
左腕を抑えたソフィアが、少し掠れた声で問う。
「いつだったかしら、先月? それとも事件の時? 忘れたけど、しばらく前のことよ」
左手をそっと手に取り、ジュリアは懇願した。
「お願い、ソフィー。それをあなたが隠してることは知ってるんだけど」
女性の肌に落とされた痣を、好んでさらすものはない。
特に人に見られることを意識する生業のジュリアはそう思った。
申し訳ないと思いつつも、上目づかいに碧の瞳を覗きこむ。これで落ちない男はいないという、彼女の奥義だ。
「………えーと」
「ね、お願いソフィー」
「待って、ジュリア落ちついて」
「聞いてくれないと、私何をするかわからないわ」
じりじりと椅子を寄せるジュリア。
白い繊細な指先が伸びてボタンをとらえる。
「わ、わかったから」
追い詰められた獲物の気持ちで、ソフィアは慌てて頷いた。
「ただい」
ま、の口で音もなく停止したレイモンドは、開けたばかりのドアをそっと閉めた。
彼にしては珍しく、己の目に映ったものが整理できずにこめかみを押さえる。
「……今の見たかい、ジョン?」
隣の少年は、日焼けした顔に疑問符を乗せて彼を仰ぎ見た。
「いや全然。探偵さんが陰になっちまって中は見えなかったぜ。何か面白いもんでもあった?」
好奇心に輝く赤茶色の瞳。
郵便配達の少年は街を駆け廻りながら、いつだって楽しいことを探して歩いているのだ。
「いや……うん、気のせいかも。長旅で疲れたかなー」
その割には身軽な格好のレイモンドは、曖昧に頷く。
そう、気のせい。
振り返りざま見開かれた碧い瞳も、まろやかな肩の白さも、金と黒の2色の髪が絡み合わんばかりに接近していた頬も、おおよそ気のせいに違いない。長旅とは何と罪深いものだろうか。
しかし再度ドアノブにかかった手は、まだ躊躇いをみせた。
「何だよ探偵さん、入んねぇの?」
「うん、そうだねー」
「早くしてくれよなー。俺だって暇じゃないんだぜ、次の配達もあんだし」
郵便の詰まった重たい袋を担ぎ直して、ジョン少年は口を尖らせる。
第一、建物入口で偶然出会った郵便配達人の差し出す郵便の束に、受取拒否をしたのはこの青年だった。
それはうちの受付嬢の仕事だからねー。などとのたまって、わざわざ階段を登ってきているのに。その本人がドアを開けないんなら、仕事は進まない。
「んだよ、俺が開けちまうぞ」
「いや、ちょっと待とう。身支度の時間を計るのは紳士の勤めだろう」
「はー?」
ドアは内側から開かれた。
細く開けた隙間から滑り出てきた黒髪の受付嬢は、後ろ手にドアを閉める。
きっちりと止められたボタンと乱れのない髪を見て、レイモンドは安堵する。
碧い瞳が座っている以外いつも通りだ。
「見ましたか、今の」
ソフィアはゆっくりと廊下に立つふたりを睥睨した。
「俺はぜーんぜん。つーか、中で何してたんだよ、ソフィねーちゃん?」
ジョン少年は首を傾げるばかり。
「――所長?」
「いや全く。ジュリアの後姿くらいは見えたけど。驚いてすぐにドアを閉めたからね」
ゆるく笑うレイモンドに、ソフィアは一瞬頬を引き攣らせるが、敢えて「何に驚いたのか」は問わないことにした。
「ならかまいません」
固い声の応えが言い終える前に、ジョン少年は瞳を輝かせた
「なぁ、ジュリアってあのジュリア? 女優の!?」
「そのジュリアよ。ジョン、もしも時間があったら紹介しましょうか?」
「マジで!? うわーやべぇ!」
テンションをあげる少年は、しっかりと己の仕事は果たすタイプだった。
「他の配達があるから、そんなに時間はねぇんだけど。ちっとなら! ぜひ!!」
言いながらも数通の封書をソフィアに渡す。
「配達、ごくろうさま。良いわよ中へどうぞ」
ソフィアが書いた受取サインを確認すると、ジョン少年は素早く帳面をしまいこんで身支度を整える。
髪をなでつけ、固い声で「ハジメマシテ」と挨拶練習を始めるほどだった。
その微笑ましい様子に少し頬を和ませてから、ソフィアは隣に立つ長身の青年に視線を移す。
「やぁ、ただいま」
実は2度目の台詞なのだが、彼は全く気にせずに、爽やかに挨拶を送ってきた。
その頬笑みには、曇りなど一点もなく。数日の行方知れずを感じさせるものは皆無。
一方のソフィアは、礼節通りに軽く膝を折った。
「ご無沙汰しております。行方不明所長」
「あ、あれー?」
その硬い様子に、レイモンドは思惑が外れていることに気がついた。
「もしかして、旅先から送ったカード届いてない?」
今度は行先を示したはず、と慌てるレイモンド。
その様な郵便はここ数日見ていないソフィアは、いいえと首を振った。
「けれどもしや、カードというのは……これでしょうか」
今受け取ったばかりの封書の束から、1枚のカードを選り分ける。
碧い海と空、灯台が掲げられた有名な観光地のポストカード。そこにはレイモンドの筆で、『今ここにいます。明日には帰るよー。お土産は貝殻です』とメッセージが添えられていた。
「あ、それそれ!」
「明日、とはまた曖昧ですね」
「えー、計算だと俺の到着前日に届いてるはずだったんだけどなぁ」
おかしい、と首をかしげつつレイモンドは懐から1枚のチーフを取り出した。
丁寧に包み込んでいた薄紅色の貝をソフィアの手のひらに載せる。
貝殻からは微かに、懐かしい海の香りがした。
「でも、俺も進歩したねー、ソフィーのために行先を――」
得意気に語るレイモンドの横で、「アナタノファンデス」を終えたジョン少年がぐと拳を握り込む。
「よし、ソフィーねーちゃん! 準備オッケー!」
「そう、それじゃ行きましょう」
すぐに応えてジョン少年を促すソフィア。
「――行先を、カードで………」
レイモンドの進歩は、あまり評価されてないようだった。
ひとまず終了です。ありがとうございました。