03 転がる蝉の抜け殻みたいに
その日の衝撃は、真夏の音を遮断した。
瀟洒な店内は、深く珈琲の香りに満ちている。
天井で回る空気循環器の羽音と混ざって、屋外から聞こえる蝉の声も遠い。
外壁を這うアイヴィのお陰か、店内は幾分涼しさを保っていた。
トレイで運んだ珈琲カップを客に供して、黒髪のウェイトレスはいつものように営業用の笑顔を作る。
「ごゆっくり――」
どうぞ。続きはぽかんと穴を開けた。
カップを手にした青年が、途切れた言葉に顔を上げる。
ウェイトレスは客の広げるニュースペーパーを目にして、息を止めた。
それもそのはずで、今日のニュースは昨日までとは一味違う。
大見出しに踊るのは、『ラーニャ社倒産!』の大きな文字。あの大会社の突然の倒産は、世間を驚かせるものだった。隣には西にある島国で起きた政権交代の記事。独裁的指導者が倒れ、革命が起きたらしい。
お仕着せのエプロンを身につけたウェイトレスは、碧い瞳を見張る。
立ちすくむその姿は、彼女を年相応に映し、普段の卒ない接客とは違った素顔を見せる。まだ少女と言える年齢だろう。
新聞の持ち主である金髪の青年が、彼女に笑いかける。
「このニュースは、皆驚くね。失業者続出だ」
長い指で、トンと紙面を弾く。
「もしかしてこっちの会社でも仕事していた? そしたら災難だなぁ」
冗談めかした男の言葉。
しかし黒髪のウェイトレスにはイエスもノーも、営業スマイルの欠片もなく。衝撃の抜けきらない抜け殻のような瞳だけがあった。
「……もしかして失業しちゃった、とか?」
彼女が小さく頷いたのは、きっと意識してのことではない。
頬にかかる髪を後ろに流して、客は数瞬考え込んだ。
長い睫毛の影に青い瞳を被せて、金色の紗の奥からじっと目を凝らす。
「……もし、良ければ」
しかし口を開いた時にはひらめくような笑顔を浮かべ、先ほどの沈思が嘘のように軽い声を乗せた。
「君さえ良ければ、うちで働かない?」
「…………」
ウェイトレスは、ようやく目の前の客を見た。
普段は軽い世間話をする常連客を、初めて会う人のように眺める。
この人は誰だろう。どこの言葉?
ここはどこだろう。どこへ帰るの?
抜け殻のような頭は問いばかりを繰り返し、耳の拾った音を上手くつなぎ合わせてくれない。
「いわゆる受付嬢? 美味しい珈琲淹れてくれると嬉しいかな。大丈夫、難しいことないしー」
大丈夫、大丈夫。と最軽量に繰り返して、彼は名刺を差し出した。
彼自身の華やかな容姿に反した飾り気のない名刺には、『レイモンド・フォークナー事務所』とタイプされている。
「給与もこのカフェとラーニャ社を合わせたくらい出せると思うし。いつでもおいで」
ここへおいで。
記憶の隅に眠るそれとは違う言葉。でも、同じ言葉。
ウェイトレスの少女は風に吹かれて流されるように頷いた。ほんの小さな子どものように。
「うん、商談成立だね。俺はレイモンド。今日から君の雇い主兼、事務所の所長かなー」
客は名乗ってゆったりと微笑む。
「ウェイトレスさん、お名前は?」
「ソフィア、です」
この名前ひとつが、彼女の持ち物だった。
「心配ないよー。ただの探偵事務所だから」
「……ハイ?」
秋風が吹いて、真夏の名残りを洗う頃。
「所長、少しお話が」
そう切り出したソフィアの両手には、重たい紙の束があった。
「えー、嫌な予感がするなー」
お気に入りの珈琲を手に、レイモンドが柳眉をしかめる。
それを聞き流してソフィアはバサバサと紙を手渡した。
「試算ですが、このままでは3か月後に破産です」
ばっさり示した未来図は、経営者ならば青ざめるべきものだというのに、
「えー」
レイモンドはいつものような反応だった。
「えー、じゃありません。ご覧いただくように、収支のバランスが取れてません」
手渡された資料は、タイプで打たれた収支差額と各々にかかった経費の概略。
月締め決算の折れ線グラフまでついていた。
「あ、ほんとだ。これは貯蓄を食いつぶしてるねぇ」
あははは、と誤魔化す笑い声は、碧い瞳に黙殺された。
「このように、事務所で一番取られている経費は人件費です。特にこの数か月の飛躍は著しく――」
指したラインは、『受付人件費』。誰であろうソフィア自身の給与である。
「せめて、週3日程度としてはいかがでしょう」
彼女は、受付が不要であると訴えているのだった。
「でもソフィー。ここの仕事少なくなったらどうするの?」
「他の就職先を探します」
「…………。」
キィと音を立てて深く背もたれに沈み込む。
金色の睫毛を下ろして、いつもより更に眠そうにするのに、引き結ばれた口元からは緊張感が漂った。
こうして考え込んだレイモンドの決定は、聞き流してはいけない。
ソフィアは次の言葉を待った。
「決めた」
「はい」
「人件費を削ろう」
「はい、所長」
「ここ、10%カットしといて」
指さした資料のライン。それを見てソフィアは瞬いた。
「……所長。ここは所長の給与ですが」
「知ってるよー」
「どこの世界に、受付担当よりも給与の低い上司がいますか!」
「俺はもう決めたしー。珈琲豆の質はこれ以上落とせないし」
「豆と同列に考えないで下さいっ」
給与を珈琲豆につぎ込んでいる男は、大して違わないのにと首を傾げる。
「もし行き場所がなくなったら、あの時の抜け殻みたいな顔をするんだろう?」
バサリと新聞を広げながら小さく呟いた言葉は、ソフィアの耳には届かなかった。
「……何か言いました?」
「いーや、もう少しかなぁって」
続けて読みあげたのは、怪盗Rに懸けられた懸賞額。
「まさか、所長……!」
ソフィアが青ざめる。
値を釣り上げるために動かないのか。
「まさかー、冗談だよ」
レイモンドはへらりと笑って肩をすくめた。