表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

03 転がる蝉の抜け殻みたいに

  その日の衝撃は、真夏の音を遮断した。



 瀟洒な店内は、深く珈琲の香りに満ちている。

 天井で回る空気循環器の羽音と混ざって、屋外から聞こえる蝉の声も遠い。

 外壁を這うアイヴィのお陰か、店内は幾分涼しさを保っていた。

 トレイで運んだ珈琲カップを客に供して、黒髪のウェイトレスはいつものように営業用の笑顔を作る。

「ごゆっくり――」

 どうぞ。続きはぽかんと穴を開けた。

 カップを手にした青年が、途切れた言葉に顔を上げる。

 ウェイトレスは客の広げるニュースペーパーを目にして、息を止めた。

 それもそのはずで、今日のニュースは昨日までとは一味違う。

 大見出しに踊るのは、『ラーニャ社倒産!』の大きな文字。あの大会社の突然の倒産は、世間を驚かせるものだった。隣には西にある島国で起きた政権交代の記事。独裁的指導者が倒れ、革命が起きたらしい。

 お仕着せのエプロンを身につけたウェイトレスは、碧い瞳を見張る。

 立ちすくむその姿は、彼女を年相応に映し、普段の卒ない接客とは違った素顔を見せる。まだ少女と言える年齢だろう。

 新聞の持ち主である金髪の青年が、彼女に笑いかける。

「このニュースは、皆驚くね。失業者続出だ」

 長い指で、トンと紙面を弾く。

「もしかしてこっちの会社でも仕事していた? そしたら災難だなぁ」

 冗談めかした男の言葉。

 しかし黒髪のウェイトレスにはイエスもノーも、営業スマイルの欠片もなく。衝撃の抜けきらない抜け殻のような瞳だけがあった。

「……もしかして失業しちゃった、とか?」

 彼女が小さく頷いたのは、きっと意識してのことではない。

 

 頬にかかる髪を後ろに流して、客は数瞬考え込んだ。

 長い睫毛の影に青い瞳を被せて、金色の紗の奥からじっと目を凝らす。

「……もし、良ければ」

 しかし口を開いた時にはひらめくような笑顔を浮かべ、先ほどの沈思が嘘のように軽い声を乗せた。

「君さえ良ければ、うちで働かない?」

「…………」

 ウェイトレスは、ようやく目の前の客を見た。

 普段は軽い世間話をする常連客を、初めて会う人のように眺める。

 この人は誰だろう。どこの言葉?

 ここはどこだろう。どこへ帰るの?

 抜け殻のような頭は問いばかりを繰り返し、耳の拾った音を上手くつなぎ合わせてくれない。

「いわゆる受付嬢? 美味しい珈琲淹れてくれると嬉しいかな。大丈夫、難しいことないしー」

 大丈夫、大丈夫。と最軽量に繰り返して、彼は名刺を差し出した。

 彼自身の華やかな容姿に反した飾り気のない名刺には、『レイモンド・フォークナー事務所』とタイプされている。

「給与もこのカフェとラーニャ社を合わせたくらい出せると思うし。いつでもおいで」


 ここへおいで。


 記憶の隅に眠るそれとは違う言葉。でも、同じ言葉。

 ウェイトレスの少女は風に吹かれて流されるように頷いた。ほんの小さな子どものように。

「うん、商談成立だね。俺はレイモンド。今日から君の雇い主兼、事務所の所長かなー」

 客は名乗ってゆったりと微笑む。

「ウェイトレスさん、お名前は?」

「ソフィア、です」

 この名前ひとつが、彼女の持ち物だった。

「心配ないよー。ただの探偵事務所だから」 

「……ハイ?」

 

 

 秋風が吹いて、真夏の名残りを洗う頃。

「所長、少しお話が」

 そう切り出したソフィアの両手には、重たい紙の束があった。

「えー、嫌な予感がするなー」

 お気に入りの珈琲を手に、レイモンドが柳眉をしかめる。

 それを聞き流してソフィアはバサバサと紙を手渡した。

「試算ですが、このままでは3か月後に破産です」

 ばっさり示した未来図は、経営者ならば青ざめるべきものだというのに、

「えー」

 レイモンドはいつものような反応だった。

「えー、じゃありません。ご覧いただくように、収支のバランスが取れてません」

 手渡された資料は、タイプで打たれた収支差額と各々にかかった経費の概略。

 月締め決算の折れ線グラフまでついていた。

「あ、ほんとだ。これは貯蓄を食いつぶしてるねぇ」

 あははは、と誤魔化す笑い声は、碧い瞳に黙殺された。

「このように、事務所で一番取られている経費は人件費です。特にこの数か月の飛躍は著しく――」

 指したラインは、『受付人件費』。誰であろうソフィア自身の給与である。

「せめて、週3日程度としてはいかがでしょう」

 彼女は、受付が不要であると訴えているのだった。

「でもソフィー。ここの仕事少なくなったらどうするの?」

「他の就職先を探します」

「…………。」

 キィと音を立てて深く背もたれに沈み込む。

 金色の睫毛を下ろして、いつもより更に眠そうにするのに、引き結ばれた口元からは緊張感が漂った。

 こうして考え込んだレイモンドの決定は、聞き流してはいけない。

 ソフィアは次の言葉を待った。


「決めた」

「はい」

「人件費を削ろう」

「はい、所長」

「ここ、10%カットしといて」

 指さした資料のライン。それを見てソフィアは瞬いた。

「……所長。ここは所長の給与ですが」

「知ってるよー」

「どこの世界に、受付担当よりも給与の低い上司がいますか!」

「俺はもう決めたしー。珈琲豆の質はこれ以上落とせないし」

「豆と同列に考えないで下さいっ」 

 給与を珈琲豆につぎ込んでいる男は、大して違わないのにと首を傾げる。

「もし行き場所がなくなったら、あの時の抜け殻みたいな顔をするんだろう?」

 バサリと新聞を広げながら小さく呟いた言葉は、ソフィアの耳には届かなかった。

「……何か言いました?」

「いーや、もう少しかなぁって」

 続けて読みあげたのは、怪盗Rに懸けられた懸賞額。

「まさか、所長……!」

 ソフィアが青ざめる。

 値を釣り上げるために動かないのか。

「まさかー、冗談だよ」

 レイモンドはへらりと笑って肩をすくめた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ