02 ススキで猫じゃらし
ソフィア・ジョーンズの朝は早い。
彼女は毎朝決まった時間に出勤し、事務所の鍵を開ける。
窓をあけ、デスクを拭く。湯を沸かしている間に通い猫がやって来るのも日課のひとつだ。
カリカリと小さく窓を掻く音に、小さく微笑んで振りかえる。
「おはよう、ケダマ」
「にゃーう」
挨拶を返すように、灰色の猫が鳴きながらすり寄ってくる。
ケダマ、というのはソフィアが勝手につけた名前だった。青い首輪をしているところを見ると、本名は別にあるのだろう。
だが彼――ケダマは雄である――はさほど気にしない性質らしく、今日もぺろりと干し魚を平らげ、優雅な長い尻尾を揺らす。
「もう食べ終わったの?」
ソフィアの問い掛けに金色の目を細めると、彼は礼の代わりに足元に懐いて去っていった。
灰色の猫は身軽に窓枠へ乗って、日向でひとつ伸びをする。
満足気な彼が他の通い先へ旅立つのを見送ると、ソフィアは新聞チェックを始めた。
積まれた紙面は、日刊のニュースペーパーからタブロイド誌まで、数種類。雇い主が見る前に流し読んで情報を整理しておく。
デスクに向かい背筋を伸ばしたその姿は、彼女の性格をよく現わしていた。
一時も休まず頁を繰るスピードは、とても中身を吟味している様子はない。
だが手元のノートに時折メモを書きつけているのを見ると、確かに読んでいるらしい。驚くべき速読だった。
一通り目を通し終えると、今度は古い新聞雑誌を手に取って、昨日のメモを見ながら必要な記事を切り抜いていく。
スクラップ帳の整理が終える頃、郵便配達の少年が午前の便を届けに来るのだった。
レイモンド・フォークナーの朝は遅い。
昼も近い頃になってようやく、1フロア上に借りている部屋から降りて来る。
ソフィアが淹れた珈琲を受け取って、ゆっくり堪能するのが日課だった。
風にそよぐカーテンの動きにふと空を見る。秋晴れの空。
今日も良い天気だ。
「こんな日は散歩に行きたいねぇ、ソフィー?」
いつも眠たげなブルーアイを更にとろりと緩ませて革張りのソファに沈む姿は、一幅の絵画のようだが、残念ながら彼の生計は違う所で成り立っている。
空より青い瞳を向けられたソフィアは、いつもの様にノーと答えた。
「仕事です、所長」
「ああやっぱり?」
積み上げられる書類の束。
その高さは日々記録を更新しているが、レイモンドは動じなかった。
「んー、そうだねぇ」
考えるそぶりを見せるくせに、
「適当に選んでおいて」
と、結論は短い。
「では、怪盗Rを」
すかさず選んだ書類は、今日の午前便で舞い込んだ手紙だった。
レイモンドは眉根を寄せる。
「それは、面倒だなぁ」
「ですが世間は騒いでますよ」
ソフィアは彼の怠惰な返答を予測していた滑らかな動作で、書棚から一冊のファイルを取り出した。
示されたのは、連日の報道だ。
曰く、『怪盗R、国立美術館の有名絵画を狙う!』『警察の力不足。怪盗R、作戦成功!!』『ありがとう怪盗R、孤児院にプレゼント届く』
概ねの世論が、義賊を称する彼(もしくは彼女)の犯罪行為を認めているから、世も末だろう。
「みたいだねぇ」
レイモンドは興味を示さない。残り少なくなった珈琲を大事にすすっていた。
「予告状も届いています。丁寧なことに、毎回」
彼女が次に取り出したのは、丁寧に保管された手紙の束。
これこそ、世間を騒がすかの怪盗Rからの予告状だった。これを無視して良いものなのか、とソフィアは疑問に思う。
「君は怪盗氏に協力的だねー」
やや拗ねた口調なのは、珈琲がなくなったからかもしれない。
「いいえ、私は所長が仕事を請け負ってくだされば、それでかまいません」
それとも、とソフィアは碧い瞳を細めた。
「それとも、また経費削減の議論をしますか?」
「あー、ダメダメ。それに関しては、君がこの仕事が嫌になってやめたいと言うまで譲らないから」
レイモンドにしては珍しく、早口に却下した。その後も、聞く耳は持たないとばかりに首を振ってみせる。
「では、選んでください」
「えー」
不満の声には、無言の圧力。
彼は嫌々とした態度で、書類の山から1枚の調書を引き抜いた。
「マーガレット嬢の行方不明の猫探し、ねぇ。……これは大事件だ」
「左様ですか」
「マーガレット嬢は今年8歳のレディだよ。行方不明の猫は、彼女の大事なお友達らしい」
ざっと斜めに目を通して、レイモンドはようやく椅子から腰を上げた。
「一刻も早く解決しないと困るだろう?」
「……この人は、やればそれなりに有能なのに……」
ソフィーが溜息とともに呟いた小さな言葉は、幸いなことに彼の耳には届かなかった。
「ところでソフィー、ススキが生えてる所を知ってる?」
「川沿いで見ましたが……そこに猫がいるんですか」
探す前から見当がついているのか、と彼女は驚きの目を向ける。
「いいや、猫じゃらし」
「……紐でよろしいのでは」
「こういうのは気分も大事だよ、ソフィー。上に羽織るもの、ある?」
「所長のコートでしたら、ここにはありません」
「いや君の」
「ショールがありますが」
「忘れずに持って来てね」
パチリと音の立ちそうなウィンクをひとつ。
レイモンドは帽子を片手に持って、右手を彼女に差し伸べた。
「案内を頼むよ、お嬢さん。まずはススキ探しの散歩と行こうか」