01 隣で肯いたオレンジのコスモス
ノックに応えて扉を開けると、そこに金髪の紳士がいた。
ソフィアは喉まで出てきた言葉をぐっと抑え、代わりに固い声で迎え入れる。
「――いらっしゃいませ」
フロックコートに身を包んだ紳士は、眠たげな青い瞳の目じりを落して困ったように笑った。
「えー、ただいまって、言ってもいい?」
「まだここが貴方の職場でしたら、どうぞ」
事務的な口調で、彼女はドアから離れた。
ここ数日の忙しさを思えば、このまま追い出す方が正解だろう。……彼が雇い主でさえなければ。
「ただいま、ソフィー」
彼は朝の散歩帰りのような気やすさで、3日ぶりの出社を告げた。
「お帰りなさいませ、所長」
レイモンド・フォークナー事務所に雇われて2か月。
彼女の仕事は、「いわゆる受付嬢? 美味しい珈琲淹れてくれると嬉しいかな。大丈夫、難しいことないしー」の勧誘から一変していた。
来客の受付、お茶くみは勿論のこと、事務文書の作成に始まって、会計と帳簿管理、ファイリング、雇い主のスケジュール管理までが含まれている。
その中でも最もやっかいな仕事は、この年若い所長のスケジュール管理だった。
多忙から分刻みのスケジュール、というならまだ良いだろう。
何せ、彼の予定は空白だった。
「今日こそは、依頼を受けていただきます」
「えー」
「えーじゃありません。来月の家賃も危ういんですから」
何が何でも仕事を選ばせると碧の瞳に決意を浮かべるソフィアの前で、当のレイモンドは優雅に珈琲を楽しんでいた。
「……久しぶりの珈琲、生き返るなぁ。ソフィーの珈琲が一番美味しいよ」
数多の女性が見とれ、天使の様と称える整った容貌で無邪気に微笑んで、珈琲を一口すすりこむ。
白いカップを持ち上げる指先は、訓練の中で洗練された動きだった。
「素早く生き返って、話を聞いてください所長」
「んー、了解。どうぞ?」
微塵も変わらない態度に、ソフィアは遠慮を捨てた。
「バーグマン氏の浮気調査、怪盗Rの予告状3件、チェンバレン男爵婦人のご依頼、セシリア嬢の相談、商人組合カーライト氏の失せもの探し、クラーク子爵代行人の調査、マグリット嬢のお茶会事件、それから――」
ソフィアが手際よく手紙や依頼書を積み上げると、それは風が吹けば倒れそうなほどの高さになった。
「あぁ、結構溜まったねぇ」
「所長がこの2週間怠けたあげく、3日間も行方不明になったからです」
ピシリと言って、新たな束を持ち出す。
「こちらは、所長宛の個人的なお手紙です」
同じく積み上がる手紙。おそらく中身は夜会や狐狩り、遠まわしな観劇の誘いの類だろう。開封された様子はないが、秀でたソフィアの選別能力は確実に私用の手紙を抜き分ける。
レイモンドは黄昏れた目で、外の風景を見つめた。
「面倒とおっしゃる前に、必要なものだけでも目を通してください」
しっかりと必要な書類は別の山に仕分けて、ソフィアは念を押した。
窓辺に目を向けていたレイモンドが、ふと気づいたように顔をあげる。
「もしかしてクラーク子爵代行人の彼、えぇと何て言ったっけ?」
「キアラン様ですか?」
「そう、その人。昨日あたりここへ来た?」
「えぇ、いらっしゃいましたけど……」
数日間の来客調書は積まれた山の一冊にまとめてあるが、一行たりとも目を通さずに言い当てるレイモンドを訝しむ。
「まさか所長、お約束してました?」
「いやー、約束はしてなかいけど。そっかー、彼が来たかー」
「所長の不在を、大変残念がっていらっしゃいました」
「どちらかというと、彼には好都合だったんじゃないかなぁ」
視線の先は、出窓に飾られた薔薇。
丹精込めて育てられた大輪の花を持ってきたのは、件の代行人氏だろう。ソフィアではありえない。
「お嬢さん、ちょっとちょっと」
んー、と考えてから、レイモンドは黒い事務服に身を包んだソフィアを手招いた。
「何です?」
「いや、俺としたことが手土産を持って来れなくてねー」
「別にいりません。それより仕事、してください」
「うん、そう言うだろうと思って」
窓の外を指差す。
「あちらをどうぞ」
「……見ましたが」
「あのオレンジの花が君へのお土産。手折るの忍びないから、あのまま楽しんでくれる?」
見下ろす空地に、楚々とした可憐な花々が咲いていた。
秋風に吹かれても真っ直ぐ背筋を伸ばす姿に、強い芯が仄見える。
「あれは、大家さんの奥様が世話をしてる花では」
「そう、だから手間いらず。通勤の際に毎朝楽しめるという特典も付くよ」
ソフィアはあきれて溜息をつく。
何て能天気な人だろう、とは口には出さなかったが、視線の先のキバナコスモスも同意するように頭を揺らした。
「……ありがとうございます」
「いえいえどういたしまして。さぁ仕事仕事……ああ面倒だなー」
この上なく適当に手紙を開ける彼の前に、いくつかの封書が置かれる。
顔をあげたレイモンドは、鮮やかに微笑んだ。
「この辺りが所長のお好みかと」
3通の手紙をより分けたソフィアは、卒ない動作で空になった珈琲を下げた。
「あ、ソフィー。珈琲おかわりで」
「存じてます」
「優秀で可憐で可愛いパートナーがいて、俺は幸せ者だねー」
「ただの受付です」
お借りしたお題:秋風五題 Fortune Fate(サイト閉鎖)