1
ほおっと吐いた息が白いもやになる。
(うわっ、さーむー)
きーんとはりつめた冬の空気はまるで刃のようだと思う。
寒いは寒いのだが、僕はその寒さがそんなに嫌いではない。
(なんていうか、こう、身が引きしまる感じがするし……)
顔を洗うのにあえて庭の井戸水を使うのはその為だった。
「おや昌文、今朝も早いの」
涼やかな声が響く。しんとした静寂の中、差し込む光の筋……空気がぴんと張り詰めている中をゆっくりと歩みくる姿……姫さまだった。
「はい。……おはようございます、姫さま」
その姿を目にしただけで、自然、笑みが漏れる。
「おはよう」
少女も笑みを浮かべた。玲瓏とした美貌……まるで、人形のように美しい。
僕は姫さまほど美しい存在を他に知らない。
見た目の推定年齢は11、2歳。
今日は、光沢のある白絹の莢綾形綸子に金糸と銀糸で七宝を縫い取った美しい振袖姿。変わり結びの緋色の帯は同色の糸で亀甲柄を刺繍してある。帯締めと帯揚げは白と緋色のグラデーションで、信じられないほど大きな琥珀を帯止めに使っている。とろりとした飴色の琥珀の中には小さなとんぼが綺麗に入っていて、好事家が見たら涎をたらしそうだ。
「……おいで」
姫様が手をさしのべる。
「うん」
うなづいた。あらたまるのは挨拶のときだけ。後はかしこまる必要はないというのがルールだ。姫様は堅苦しい事を好まない。
僕はその手をそっと握った。
脳裏にフラッシュバックするのは、出会ったときの光景だ……もう、十年以上前になる。
あの時のことを僕は、今でも鮮明に覚えていた。
(忘れるはずがない……)
僕の世界が一変した、運命の日。
僕に甘く会社から帰ってきて疲れていてもいつも遊んでくれた父と、同じくらい僕に甘くて料理上手で綺麗好きな母を失ったあの日、僕は姫様と出会った。
たとえそれが、両親の喪失の代償なのだとしても、姫様に出会ったことが僕の最大の幸運だ。この先、何十年生きようとも僕はそう言いきれるだろう。
「手が冷たいの」
「……顔を洗ったから。冬だし」
朝は井戸水で顔を洗う。何となく決めた僕の日課の一つだ。
白い小さな手はひんやりとしていたが、触れ合った手と手からはぬくもりがうまれた。そっと包むようにその小さな手を握り締める。
……あの時、その手は僕より少し大きく、背も見上げるほどだった。
(……けど、今は違う)
今は僕の方がずっと背が高く、姫さまを抱上げることすらできる。
(姫さまは、変わらない……)
10年たった今でもあの頃と寸分変わらない姿をしている。
それも当たり前のことだ・……この家で『姫さま』あるいは『御前様』などと呼ばれている少女は、人ではないからだ。
この御倉神社に祀られている神……それが姫さまだ。
僕がここに来る前はほとんど毎日眠っていたそうだが、姫様は元々気が向けばわりと人前に姿をあらわす方だ。死んだ祖父は幼い頃に姫様に名づけられたと言っていたし、記録にもさまざまな逸話がたくさん残っている。
十歳前後の姿でいることが一番多いが、昔、僕がもっと小さかった頃に二十歳過ぎの女性の姿で授業参観に来てくれてこともあるし、一人で幼稚園に行くのを嫌がった僕に一日だけつきあってくれたこともある。幼くも年長にもなれるらしい。最も、彼女の言葉によれば『神』の姿は意思によりいくらでも変えられるそうだ。
「今日の朝餉は、中華粥じゃ」
「それは、楽しみだね」
世間一般の神様が何を好むのか昌文は知らないが、姫さまは人間の食べ物を殊のほか好んでいる。
昌文の祖父はその為にわざわざ料理上手な妻を娶ったとも聞く。
(最近は、そっちのご利益があるって噂になってるからなぁ……)
この神社の参道沿いの花森商店街は商店街ぐるみで熱心な氏子だ。春の例大祭や、季節ごとの行事も熱心だし、奉納品も多い。商店街のうちの八割は飲食関係の店で、名店と呼ばれる食べ物の店や老舗の豆腐屋や和菓子屋、品質の良い事で知られる乾物屋等が軒を連ねている。最近は、花森グルメ商店街などという名でガイドブックで特集されたりもする。
献上される品でいつも台所は豊富な食材に溢れている。
姫さまはケチな神様ではないので、もらえばもらったなりにちゃんとご利益をさずけてやるからだ。
酒屋が手を抜いていつものとはちがう二級酒を寄越したりすれば姫さまだって適当になる。反面、気に入ればご利益の大盤振る舞いだ。姫さまに納めが叶えばその料理人や職人は一流の折り紙をもらったようなものだ。
(姫さま、グルメだし……)
神社の配膳所を担当しているのは、超有名料亭「吉エ」の板場を三十年預かったという宮下老人とインペリアルホテルの総料理長だった神戸老人だ。二人は戦前にこの付近にすんでいたことがあるそうで引退した後に神社の配膳所に務めている。
「あれ?中華粥って誰が作ったの?」
宮下老人は和食の鬼、神戸老人は洋食の魔術師だ。
「千鳥じゃ。宮下も神戸も風邪をひいての。今日は休みじゃ」
千鳥さんというのは、住み込みで神社の雑用をしている老女だ。夫と死別し、二人の娘はそれぞれ大阪と北海道に嫁に行っているがどちらの世話にもなりたくないと神社の下働きをして暮らしている。
「なるほど……」
千鳥さんの亡き夫は台湾から来ていた男で、二人は花森商店街の一角でずっと中華料理屋を営んでいた。夫が亡くなってからは閉めているが、姫さまはここの中華粥がお気に入りで時々、二人で夜中にふらりと食べに行っていたのだ。
「うむ」
姫様がご機嫌だったので、僕も何となく気分が良かった。