夢を見る夢
『時刻は深夜4時、果たして私たちにとって、これは朝だろうか、それともまだ夜だろうか。
「太陽が出るまでは、さ。夜なんじゃない?」
「でも夜明けって言葉もあるよね?」
二人きり、部屋の明かりがついていたなら、結局の所、私たちにとっては朝であったり、昼であったりする。
夕暮れの橙色も、街に星が振っているような夜景も、早朝の澄んだ空気も、私たちにとっては朝の象徴でも、夜の象徴でもない。
――私たちが一緒に光を見ればそれが朝だし、闇を見れば夜だ。
そんな辻褄の合わないようなことを掲げては、二人で笑い合う。
「ジャドはさ。夢って見るほうなんだったっけ?」
私は、彼女の黒髪をそっと撫でながら、何処かの国で『好き』と訳されるらしい彼女の愛称を呼ぶ。
「んー、どうかな……分かんないや、時々戦ってる夢を見てたかも?」
「確かに、手痛いパンチが飛んできたこともあったっけね」
私はいつかの日を思い出して、小さく笑う。彼女が気付いていない浅い呼吸の意味は私だけが知っていた。
「ユウはさ、夢ってよく見るんだっけ……?」
いつもだったなら、撫でようとすると逃げる彼女は、まるで私がそれをしていることに気付いていない様子で、それでもいつものように私に話しかける。
「うん、私はよく見るよ。きっと明日も見てると思う」
「そっかぁ、良いよね。眠っていても何処かにいられるのって」
それが良い夢なら、きっと良い。
だけれど最近の私は、悪夢に苛まれそうになって、ハッと目が覚める。
悪夢の理由は、彼女にはどんなことがあったとしても、内緒にするんだろうと思う。
「そだね、いい夢を見られたら、それは凄く素敵なことだと思う」
「私は、どうしたらいい夢を見られるかなぁ」
「見られるよ」
気づけば、私は考えもせずに、そんな言葉を口にしていた。
「えぇ、ユウらしくもない。なんかもっと、いつもみたいな七面倒臭いこと、言うと思った」
「私もたまには、理屈も何もなく、信じていたい時があるんだよ」
そんな私を「大げさだよ」と笑っている彼女は、肩で息をしている。
少しだけ虚ろな目なのが、悲しかった。
――それでも、笑っていてくれたなら、いい。
「眠い?」
「ちょっと、ね……」
きっと、ちょっとどころじゃない。
彼女はもう、話すことだってやっとのはずだ。
話したいことが、まだまだ沢山あった。
聞きたいことが、いっぱいあった。
彼女も同じ気持ちだったかどうかは、結局分からない。
それでも、結局はどんな関係にだって終わりが来てしまうことを、私は知っている。
彼女の身体を蝕む病は、既に限界を迎えていた。
それを知らぬは彼女のみ。勿論、その辛さや痛み自体は彼女を襲っているのだから、薄々彼女だって気付いているはずだ。時々、懐かしげに家の中を見ていることがある。
私は、それをそっと後ろから見ていた。
家族の誰もが何も言わず、せめて最期くらいは――という家族の想いで、彼女は今、私の隣にいる。
そうして、その生命の最期を迎えようとしている。
家族は、彼女にとっての最期の会話相手を、私に譲ってくれたのだ。
「だったら、眠るといいよ。私が起きてるから」
「ユウは寝ないの?」
彼女は、私のベッドの上で小さく息をしていた。
その度に、少しだけ服が揺れるのを見て、ホッとする。
「君が眠ったら、眠るよ」
「そっかぁ……じゃあ、私は先に寝よっ……かな!」
眠れば、きっと永遠のさよならが待っている。
それでも、彼女の身体の痛みを私は知らない。
だからこそ、一瞬でも早く眠りについて、彼女の痛みが終わって欲しいと、そう願っていた。
「それがいいよ。ね、明日は、何が食べたい?」
なのに、こんな言葉を口にしてしまう。
なのに、彼女は微笑んでこんな返事をしてしまう。
「そだな……あの、ほら。甘いゼリーのやつ。あれならね、私。少し食べられるから、好き」
「せっかくだから、そのうちお腹が空いたら、何か食べに行こうよ」
彼女の大好きなそのゼリーは、言われなくとも、山程買ってある。
だけれど彼女が今日、一生懸命に食べた一本以外は、きっと貰ってくれる人を探すことになる。
「へへ、それもいいね」
「うん、明日じゃなくてもさ。いつか行こうよ」
その言葉が、ちゃんと彼女の耳に届いていたのかは分からない。
細い息を吐く彼女の言葉の一節一節が、少しずつ小さくなっていく。
「ふぁ……眠い、ね」
鎮痛剤が効いてくれているのが、せめてもの救いだったのかもしれない。
奇跡的に、会話も通じるのが、私への救いのようにも思える。
「ゆっくり……眠るといいよ」
彼女の呼吸が、静かに、静かに消えていく。
「いいゆめ、みれるかなぁ……」
「夢で会えたら、何か食べに行こう?」
「ふふ、食べること……ばっかり」
その笑顔は、終わりを理解しながら、それでもしがみついているような顔で、私も負けじと、笑顔で返す。
「でも、でもさぁ? いい夢だと思わない?」
「そ、だね。寝ても……覚めても、ゆめ……ばっかり」
目をつぶった彼女のその顔を、幸せそうだとは、絶対に思いたくなかった。
ただ、それでも私たちは『希望』のような言葉を渡し合っている。
「じゃー……約束、ね? 夢で、もし会えたら……」
「とびっきりの夢にしよう。君が眠ったら、私も夢を見るから」
――理想論だとしても、絵空事だとしても、綺麗事だとしても。
そんな言葉、一つだって信じてなんか、やらない。
君は私の夢を見る。私は君の夢を見る日を、夢に見る。
きっとこれはただの自己満足なのだと、思いながら。それでも私は、彼女を夢に見ていたいと、そう思った。
それが、この先を生きる私が、彼女を想って生きていくということだと思ったから。
これから永遠の眠りにつく彼女だって、夢を見るかもしれない。
これからも生きている私だって、夢を見る。
「それじゃあ、また明日」
「ん……おや……すみ……」
小さな咳が、最期の合図だった。
眠りについた彼女を、私はそっと抱き上げる。
うんと軽くなった彼女は、タオルに包まれて何も言わずに、魂の重さだけを手放した。』
打ちひしがれたまま、打ち込んだ文字を、私は閉じる。
「君がさ、どう思ってくれていたかは分からないんだ。だってさ、人と人だって分かり合えないのに、言葉が通じないんじゃ、ね」
――これは、私が最期に彼女と交わしたかった言葉。
ジャド――彼女は、十九年前に私が拾ってきた野良猫だった。真っ黒い毛並みに、柔らかい触り心地で、いつまでも可愛らしい声を出す。私の大切な家族。
この子は、私に沢山の幸せを与えてくれた。それは断言出来る。
ただ、結局の所、私が彼女を幸せにしてあげられたかなんてことは、どれだけ考えても分からない。
人間相手だって、気持ちを理解するのは難しいのに、物言わぬ猫のことを理解しようだなんて、私にはとても出来なかった。だからこそ、彼女が喉を鳴らした時は、とても嬉しかった。
「もしかすると……夢で逢えたなら、お話も出来るのかもしれないね」
それでも私は、それをみっともないと思いながらも、見えないくらいに小さい希望を呟く。
人は寝ていても起きていても夢を見る。猫がどうだったかは分からない。
でも猫パンチをされた日の事を思い出して、私はふと小さく笑った。
彼女の夢を見られたとしても、それはきっと私の願望でしかないのだと想う。
だけれど、死を眠りと、永眠と誰かが名付けたのならば、その責任を取って、あの子に永遠の夢を見させてあげてほしい。
「ゆっくり、おやすみなさい」
そう呟いて、私は魂の分――四分の三オンスだけ、軽くなったらしい、彼女をそっと持ち上げて、少しだけ、涙を落とした。




