第6譚 - 知
「……?」
朝。ここは鷹野家別邸。
廉はベッドから上体を起こし、やや着崩れた浴衣からすらっと伸びる腕に視線を落としていた。
ピチチ、とスズメの鳴く声がやけに鮮明に耳に届き、カーテンの隙間から漏れる朝日の光が妙に眩しい。
(……何だ?)
書生が戸を叩く前に目覚めるなど、いつぶりかわからない。
あの毎朝起き上がるたびに感じていた、地獄の底から舞い戻ったかのような身体の重苦しさがなく、憑き物が落ちたかのように軽い。
いや実際、憑き物が落ちているようだ。
(何で――)
何か思い当たる節、とそこまで考えて、ぽや、と頭にぽやぽやとした婚約者の顔が浮かぶ。
「…………」
いやいやいや違う違う、と謎の言い訳をして廉は頭からささっと追いやった。
「それは、まごうことなき愛――ぐはぁ!!!」
宗一郎が言い切る前に、目にも留まらぬ速さで奪い取った竹箒を、剣を薙ぐが如く全力で宗一郎の腹目掛けて振り抜く廉。吹っ飛ぶ宗一郎。
くっ……! と崩れ落ちた。
「……っ…………いっそ清々しいほどの傍若無人ぶり……!」
「なんか既に懐かしいな」
「懐かしいって何だ!! 懐かしむな!!」
いつもの拝殿脇で廉、宗一郎、修吾の3人はいつものように顔を合わせていた。
「要はひな嬢の存在が癒しになっていると」
あー痛かった、とあっさりと起き上がる宗一郎に、おお、もう復活した、と驚く修吾。
何回竹箒の奇襲を受けていると思っているんです? と宗一郎はにやっと笑った。
「なわけねーだろ」
「ではなぜ」
にやっと笑ったまま、宗一郎はその顔を廉へ向ける。
「ここへ来たんです?」
「いや……お前に手を合わせてみようかと」
「お前たまに真面目に阿呆だよな」
真面目に阿呆って何だ修吾ぉぉお! と廉が竹箒を振りかぶると、パシ! と扇子で受ける修吾。
ははは、俺には効かん……! とわざとらしくあざ笑う修吾に、真面目に腹立つなお前!!! とイラっとしながら廉が叫んだ。
何してんのこの人たち、と宗一郎がけらけら笑う横で、はわわ……! と聞き覚えのある奇声が3人の耳に届いた。
さっ、と3人は一斉に振り返る。
「今日も……一段と楽しそうですねぇ……!!!」
風呂敷を抱えながら、きらきらきらきらと瞳を全力で輝かせて立つひなに、あ、(参拝がこいつの日課だったこと)忘れてた、と固まる廉。
あ、ほんとに忘れてたんだ、と宗一郎と修吾も固まりながらも視線のみを廉へ向けた。
参拝を終え並んで石段を下りきると、ひなはささっと黒いレースの手袋をはめながら、じ……と廉に視線を向けていた。
(……おかしいですわね……)
ここ最近会った時の廉の様子を思い起こしながら、じと……と廉の纏う気を見つめる。
(金平糖が乗るほどではありませんが……綿菓子が浮くほどには気を纏っていらっしゃる……ここでお会いになった時以外ではそこまで纏っていらっしゃらなかったので、あの日は何か疲れ目か見間違いやもと思っておりましたが…………はっ! もしや、神社という場所が、そもそも気が集まる場所なのでは……!?)
じと……、おや? はっ! ところころと表情を変えるひなを、面白ぇな、とじっと眺めている廉。
きょろきょろ、とひなは辺りを見渡す。
鳥居近くに立つ犬の石像をはっ! と見ると、ぱたぱたと駆けていく。
ばっ! とはめた手袋を勢いよく外すと、いけません! あっちへお行きなさいな! とぱぱっと犬の頭を撫でるように払った。
むぅ……! と赤い顔で石像を睨んでいるひなを、きょとんと面食らったような顔で見ている廉と修吾。
おやおやこれは? と宗一郎は廉を見た。
「……廉さん。ひな嬢は、もしかして……」
「…………」
廉も、じっ、とここ最近の挙動の不審なひなの様子を思い返す。
「……ひな嬢」
廉はひなへ近づくと、声をかけた。
ひなは、はっ! と我に返った。
見られていたことにそこでようやく気がついたひなの顔が、さぁ……とみるみる青ざめる。
ささっ、と犬の石像の裏へと回り込んだと思うと、ちょこんと隠れてしまった。
さーてひな様のご朝食を……とるんるんと軽く跳ねながら屋敷の廊下を歩いていた清香は、先に朝食をいただいている奥方(ひなの母)が女中と話す声が聞こえ、ぴた、と足を止めた。
あらまあヤマボウシが花を咲かせ始めましたねぇ、と庭に目をやりながらわざとらしく歩みを止めると、耳をそばだてる。
「……そうなのよ……また夜会で1人で喋っていたと……もう恥ずかしくて表を歩けませんわ。あの子、よくああも厚かましく外を出歩けますわね……」
すっと目を細める清香。
「それに……あの気持ちの悪い性質が高野家に感づかれ、婚約を破棄にでもされたら……一生あの子がこの家にいるなんて考えただけでも、気が狂いそうですのに」
その言葉を最後まで聞くことなく、清香は台所へ駆けて行った。
「……あ…………す、すみません……いえ、今のは……違うのです……そう! 違うのです!!」
石像の裏にぴたっとくっついたまま、まるで言い訳になっていない言い訳をしどろもどろに紡ぐひな。廉からは、その石像に添えられたひなの華奢な指先しか見えない。
その、かすかに震えた指先をじっと見つめると、廉はさらに近づいた。
びくっ! とひなの身体が強張る。
犬の像を挟んで正面に立つ廉。
『1つ、廉様のことを知るたびに、1歩、距離が縮まるような気がするのです』
ガス灯に照らされて弾けていたぽやぽやとした笑顔を思い浮かべながら、その震える指先を見た。
1度、拳をぐっと握る。
「俺は、生まれつき『陰』の気が身体に宿っているようです」
じっと廉を背後から見ている宗一郎と修吾。
ぴた、とひなの指先の震えが止まった。
「何かよくわからんのですが、何か色々と悪い気を引き寄せるらしいのです」
「…………廉様は……気が……見えるのですか……?」
「いや。見えはしませんが、感じ取れます。まあ感じ取れるって言っても……すっげー身体重いなとかくっそ頭痛ぇなとかそんな感じですが」
「言い方」
「まあ合ってる合ってる」
修吾と宗一郎がちゃちゃを入れると、ひなも可笑しそうにわずかに肩を震わせた。
「生まれてからそんな感じなんで、もうそれが普通っつーか……一生背負っていくもんなんだろうなと思ってました。でも今朝……いや、あんたと関わるようになってから、妙に軽いんですよ、その身体が」
「えっ」
ひなは思わず声を漏らした。
「そんなこと、今まで一度もありませんでした。……ひな嬢」
「……はい……」
「あんた、よく『気』と言ってるよな」
「…………よく……ご存じで」
「最近よく、一緒にいるからな」
はわ……、とひなが明らかに嬉しそうな声を上げる。
あー照れてる顔が目に浮かぶ、と宗一郎と修吾はひなのぽわっとした顔を想像した。
「……何か、思い当たる節はないかと」
「…………」
しばらく、妙な沈黙が4人を包む。
すると、石像の裏で、もじもじそわそわとした空気が動いた。
そこでようやく、ひながぽそりぽそりと話し始めた。
「……これは……誰にも言うなと……墓場へ持って行けと私が幼いころから言われ続けてきたお話ですので……是非皆様にもお墓へ赴く際にはそっと持って行っていただきたいのですが」
(言い方)
(突っ込みたい)
(多分意味わかってないな……)
廉と宗一郎と修吾は喉まで出かかった突っ込みをそっと心の奥底にとどめた。
ごくっ、とひなは1度唾を飲み込んだ。
「……私には……『気』が見えます。そして、その『気』を払うことができます。それは……その……私にも生まれつき、『陽』の気が身体に宿っているからなのだそうです」
廉は、大きく目を見開いた。
「宗様がおっしゃっていたように、この世には『木火土金水陰陽』の気が渦巻いております。昔、我が家の近くの母屋で火事が起こった際、『火』の気を見たと申しましたところ気味悪がられ、お前が火を放ったんだろと言われたことがあります。この私の中に宿った『陽』の気そのものが悪であるかの如く言われたりもしました。それ以来、このことは誰にも申してはいけない、気を払う真似などしてはいけない、この気は気持ち悪いものであると……私は……変わり者であると……言われ……続けて――」
ぽろ……と零れそうになる涙を慌てて拭うかのように、ばばっ! と顔に手を当てるひな。
「――それでも、私はそうは思いません! 私に宿るこの『陽』の気も、廉様に宿る『陰』の気も、周囲に渦巻く気も、宿ったその時にはまだ良しか悪しかは、わからないではないですか!? だから私は悪しき気とならぬよう、見つけた気は払うよう心掛け、悪しき気が寄りつかぬよう毎日こうして手を合わせて――」
「良縁を運ぶのも、気の仕業かもしれねーからな?」
「そうなのです!!! その素敵なお言葉、ちゃんとしたためて壁にしつらえました!」
え? ほんとに書いて壁に張ったの? ときょとんと固まる廉、宗一郎、修吾。
次の瞬間、あはははは! と3人は一斉に笑い出した。
「ほんっとにしつらえたのひな嬢!!!」
「ええっ!?」
「浩瀚無辺、未知未聞……まだまだ世には知らないことがたくさんあるな……」
「それっぽく言うな修吾。要は普通はしねーってことだろうが」
あわあわと慌ててひなは、ばっ! と石像の裏から顔を出した。
「な……何がそんなに可笑しいのです――」
目の周りを赤く染め、困ったような酷い顔をしたひなを見た3人がわずかに動きを止めると、ぷっとまた吹き出した。
「ああっ! 酷いです!!!」
「ごめんごめん、ひな嬢! 酷い顔だなあとか思ってないから!」
「笑いながら言うな、宗」
宗一郎をやや笑いながらたしなめる修吾。
ははっ、と廉も笑って犬の像に寄りかかると、ひなを見下ろした。
「可笑しいな」
「ああっ! 廉様まで……!」
「俺たちを巡り合わせてくださったのも、気なんだろ?」
「そうですよ!」
「可笑しいだろ」
「……そうでしょうか」
「いーんじゃね? 可笑しくて」
「!」
石像にもたれながら口に手を当て、楽しそうに笑う廉を、ひなはきらきらとした瞳で見上げる。
その視線に気付いた廉が、ん? とひなを見た。
「縮まった? 距離」
その言葉に、ひなの頭にも廉に告げた自身の言葉がよみがえる。
ぱあ……! と嬉しさをめいっぱい滲ませて目を大きく見開くひなに、廉は思わず笑みを漏らした。
「はい……!」
そう返事をすると、石像に手を添えながら、ちょい、と半歩廉に近づくひな。
まだまだ遠いな、と笑う廉の顔を見つめながら、どきどきと高鳴る心臓に手を当てた。
(可笑しいと……笑われることが……こんなにも嬉しいなんて……!!)
廉は、真ん丸に見開かれている瞳を丸いなあと可笑しそうに見下ろした。
「どうやって払ってんの?」
「え?」
えーと……と、ひなは手袋を外している方の手を掲げた。
「素手で……というか、私が直接気に触れることで払えるようです」
ぴた、と固まる3人。
「……素手で……」
「直接……?」
そこでひなも、はっ! と固まった。みるみる顔が赤くなる。恐る恐る廉を見た。
真っ赤な顔で見上げられその目が合うと、廉も妙に気恥しくなり、つられて頬を染める。
ぎし、とぎこちなく廉に手を近づけるひな。
「……は……払――」
「いや……大丈夫」
その瞬間、宗一郎は目にも留まらぬ速さで、剣を薙ぐが如く全力で廉の腰目掛けて竹箒を叩きつけた。
「っだあ!!?!」
「触ってもらえよ!!! あんなとことかそんなとこをさぁ!!!」
「どこの変態だお前!!?」
突然どうした!? と叫ぶ廉に、じれったすぎるんですよどこの学生ですかあんたたち!!! とわなわなと竹箒を震わせている宗一郎。
さっ、と咄嗟に修吾に耳を塞がれたひなは、??? と不思議そうな顔で廉と宗一郎のやりとりを目で追っている。
何です先生? と見上げるひなに、はは……と苦笑いをしながら修吾は視線を逸らした。
「まあ……夫婦となったらな」
かすかに耳に届いた修吾の言葉に、まあ! 今日こそ指南書を読みませんとね! と息巻くひな。
修吾てめぇ余計なことをぉぉぉお!!! と再び宗一郎から竹箒を奪い取る廉に、ひなは楽しそうに大きく笑い声を上げた。




