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第4譚 - 花

 したためる字がふるふる、とミミズのように歪む。


(……ああ……)


 図らずとも、きゅ、と廉の服をつまんだ瞬間が、何度吹き飛ばそうとしてもひなの脳裏に返ってくる。

 止まった筆から、じわり……と墨が半紙に広がった。


(……私……――)


 カラン、と筆が倒れる音と同時に、がばっ! とひなは耳まで真っ赤な顔を両手で覆った。


(なんてはしたないことを……~~~~!!!)


 ひなは後悔していた。



 あああああ!!! と顔を覆ったまま右へ左へごろごろと床を転げ回るひな。


(お礼を……お礼を言いたかっただけでしたのに……引き留めるために服を引くなどと……し、しかもあの時――)


 手水舎でお清め(※ここで手袋を外した)→参拝→神主代理様からのありがたい説法をいただく→談笑→例のあれ


(…………す…………素手で……!!?!)


 本日から私の呼び名が地味令嬢からあばずれ令嬢へ変わっているのでは……!? と震えるひなの横で、ぱたぱたとほこりを(はた)き落とす清香。


「何かわからないですけど、多分思い込みですからご安心なさいませ」


 え? と動きを止めたひなに、淡々と告げた。


「ひな様の9割は勘違いでできておられますからね」



 

「……そうでしたか……」


 冷静さを取り戻したひなが、よいしょよいしょと壁に半紙を張りつけている。


「すっ……素手で、殿方の服を引くのは……そうはしたないことではない、と……」

「今どき普通どころか奥手も奥手では? がばっ! と抱きつくくらいでも――」


 ビリッ!! がっ!!! という音とともに、真っ赤なひなの顔が壁に叩きつけられた。


「……っ……だっ……だっ…………だっ!!?」

「男性に不慣れすぎですよ、ひな様は」

「ききき清香は殿方に、だっだだだ……抱きついたことがあるのですか!?」

「……え……あー、まぁ……護身術を少々嗜んでおりますので」

「寝技というやつですか?」


 きょとん、と見合うひなと清香。

 

 何で寝技知ってるんですか……? と恐る恐る尋ねると、幼い頃、お姉様に教わりました、とひながにっこりと返す。

 なんてこと教えてくれてんですか……と頭を抱えながらも清香は、広い意味で、とやんわりと返した。


「まあ、鷹野様とご夫婦となられた暁には、あんなことやそんなことをなさるのですから、今のうちに少しでも慣れて――」

「あんなことやそんなこととは、どんなことですか?」


 夫婦とは、何をするものなのかしら!? と期待感のこもる瞳を瞬かせるひなに、えっ、と清香は思わず固まる。


「…………かしこまりました。では、私愛読の指南書(官能小説)を今度お貸しいたします。勉強なさってみては」

「まあ、ありがとう清香!」


 夫婦となるにも勉強が必要なのね! と息巻くひなに、まあ知識として入れておいた方がよいこともあります、とにやりと返した。


 ぽん、と手を軽く叩く清香。


「そうそう。旦那様にひな様たちがお召し上がりになるお菓子の買いつけを言付かっておりました」


 まあ! とひなの瞳が輝く。


「ひな様も参りますか?」




 ぎゃぁああ!! 鷹野あいつ何してくれてんだ!? いっってぇ!!! と複数人の奇声を無視して廉は、バタン! とけたたましい音をたてて扉を叩き閉めた。


 この日は社交界倶楽部の日であったが、案の定、話題は廉とひなの縁談の話でもちきりだった。


(暇だなあいつら……)


 神社で神職のある宗一郎、家業の経営にも携わる修吾とはあまり昼間に顔を会わせることはない。

 理解のある2人以外との会話は苦痛でしかなかった。

 廉を伯爵家と知って近づいてくるどこぞの子息、無益な噂話を嬉々として膨らませる下品な会話は、耳障り以外の何者でもない。

 特に今日は――


(……人の婚約だの結婚だのの話の、どこが面白いんだ?)


 しかも。


『大変だなぁ鷹野、相手はあの変わり者令嬢だって?』

『あんな変な女を毎日拝まないといけないんだもんな』

『あんな地味で変な女の横に立つのも嫌だけどな俺は』


 むかむかむか……となぜだか廉の胸がざわつく。

 笑い混じりに投げられた言葉を思い出しては、いらっ……! と顔を歪める。


(……まあ……変な女なのは間違いなさそうだったが――)


『まあ皆さま、ごきげんよ……ひいっ!!!』

『廉様! 毎日ちゃんとありがたいお気持ちで手を合わせなければなりませんよ!!!』

『したためて壁にしつらえておきたいほどですわ!』


(……まあ……すっっげ――変な女なのは間違いないが……)


『私にとっては一世一代の夢のような出来事でありました』

『万が一にでも娶ることになるかもしれない相手がこの変わり者と知りながら賭けを受けてくださった。その廉様の妻になれるのなら、それは私は誰よりも幸せであると思います』


 ふっとひなが顔を上げた瞬間に花開いた、ふわりと柔らかく美しい笑みが、廉の頭から離れない。


(…………あ――くそ!!!)


 廉は思いきり社交倶楽部のある洋館の扉を蹴り開けた。


「めんどくせ――!!!」

「きゃああああ!!!」


 あ? と洋館から出た廉と、ななな何……!? と隣の和菓子屋から出てきたひなが、きょとん、と見合う。


 

 まぁ……! ときらきらと瞳を輝かせるひなと、うわぁ……と顔をしかめる廉を見て、清香は一瞬にして2人の温度差を悟ったという。



 

 川沿いに続く、藤の屋根の遊歩道をまったりと並んで歩くひなと廉。

 藤の花が満開に咲き誇り頭を垂れ、その隙間からかすかに差し込む午後の日差しが2人を柔らかく照らしている。

 清香はその少し後ろをついて歩いていた。


 延々続く藤の天井を、ほう……! とうっとりと見上げるひな。

 朝も参道の花を見てたな……と、廉はちらっとひなに視線を落とす。


 すると、ひなが見上げていた視線をそのまま隣の背の高い廉へと向けた。


「夏が近づいてきましたね……!」

「……そうですか?」


 まだじゃね? と見下ろす廉とひなが、きょとんと見合う。


「奇遇ですねぇ……! 朝に続いて午後にも出会えるなんて……これは運命――」

「世間は狭いですねぇ」


 あっ、そういう言い方もあるのですね、と目を瞬くひなと廉が、またきょとんと見合った。


 

(……びっっくりするくらい噛み合ってない……)


 2人の様子を後ろから注視していた清香は、びっくりしていた。


 きっ! と清香はひなを睨むように見る。


(ここはもう、がばっ! と抱きつく勢いですよひな様……!!!)


 

 ひなは不穏な気を感じ取り、ふるふる……! と1度身震いした。

 『がばっ! と抱きつくくらいでも』と鋭い目をした清香がひなの脳裏に浮かび、はわわ……! と顔を赤くした。

 清香、それは今ではないと内なる私が言っているわ……! とひなは慌てて脳内清香をささっと追い返す。

 

「れ……廉様は、昨日の事をご家族と話されたりはしましたか?」

「してません」

「そ…………そうですか……」

「…………」


 あからさまに、しゅん……、と小声になるひな。

 はぁ――……! と廉は大きくため息をついた。


「家族と大して会話をしない、ということです」


 えっ、とひなは思わず廉を見上げる。

 すると藤棚の隙間からの光に照らされる廉の整った横顔がぱっと視界に入り、ひなは思わず見入った。


「俺には兄が3人います。俺は野放しというか――」

「野放し!?」

「――!?」


 野に……はっ放たれたのです……!? と恐る恐る見上げるひなに、例えです例え、と思わず口にする廉。ああ例え……、とひなはほっと胸を撫で下ろす。


「私にも姉が2人います。我が家は野に放たれたりとかはないですが、私も……何と言いますか、家族とはあまり折り合いがよくありません」


 ふふ、と笑うひな。


「家族にも変わり者と煙たがれております」

「俺は思ったことはなかったですが」


 えっ? とひなは驚いて見上げた。


「……今朝までは」


 やや目を細めてそう言う廉に、まあ! と口に手を当て頬を染めた。


「今朝はとても楽しかったですね!」

「……楽しかった?」


 どこが? と廉は不思議そうな顔をする。


「はい……! 神主代理様も眼鏡の……えっと九条様も廉様ととても仲がよろしそうで、同じ空間にいるだけで気が払われるような、澄んだ心地になりました。廉様の……」


 そこまで言いかけて、おや……? とひなは廉を見た。


「……あんなにも……金平糖が乗りそうでしたのに……」

「はあ?」

「今なら……金平糖ありましたのに……!」

「だから何なんだ金平糖って……!」

「廉様、食べたことがないのですか!? とっっても美味しいですのよ!?」

「あるよ!!!」


 乗せてみたかったのに……とくやしそうにふるふると震えるひなを見て、廉はなぜだか肩の力が抜けた。

 はぁ、と小さく息を吐くと、軽く天を仰ぐ。


「……あんたは」


 あんた!? 親近感……! と目を輝かせるひな。


「変わってるな」

「はい……よく言われます」

「なぜだか嫌味がない」

「!」

「力も抜けるし……色々どーでもよくなるな」

「それは……褒められているのでしょうか?」

「どうだかな」


 そう言うと、その時初めて廉はかすかにふっと笑った。



 後ろでは、清香はうんうん、と全力でうなずいていた。

 この短時間でひな様の性格を把握されるとは、素質ありますな、とぱちぱちと小さく拍手をする。


 

 あ――……いい天気だな……、と廉は見事に咲き誇る藤の隙間から覗く青々とした空を仰いだ。

 散々通い倒したこの歩道で、季節や天気を肌で感じたり、花を愛でることなどあっただろうかとふと回顧した。


「花が……好きなのか?」


 なんと! とひなが目を見開き見上げるその表情に、廉は思わず吹き出す。

 

「な……なぜそれをご存知で!?」

「いつも花見てないか?」

「……そうでした?」

「簪も花だし」

「……そう言われれば……」

「夜会の時の帽子も花じゃないか?」

「…………花だらけですねぇ……」


 いっそ、ドレスも花柄にしてはどうかしら……? そうすれば明日から地味令嬢ではなく花令嬢へと昇格するのでは? と真剣に考え込むひなに、廉は思わず口に手を当てた。

 

(話せば話すほど……変な女だ)


「……まあ、でも――」


 心地は悪くないかもな、と廉は目を細めた。


「――……確かに、じんわりと夏めいてきたような気もするし、運命と言われればそうかもしれないな」


 えっ? とひなな目を丸くした。清香も、え、と顔を上げる。

 廉は立ち止まると、すっとひなに向き直った。


「森部嬢」

「……はい……!」

「俺は社交界で言われてる通りの人間です。人に興味はないし、喧嘩っ早いし、()()()()()()()()()()。誰かと生活するのなんて、とても向いていないと思います」

「はい」

「それでもあんたが……昨日の出来事を、一世一代の、夢のような出来事だと言うんだとしたら――」


 

 ふわ……と1度、大きく風が吹いた。


 

「――俺と、結婚してみますか?」


 

 ひなは息を呑むようにすうっと1度大きく吸うと、はっと口に手を当てる。

 大きく見開かれた目から溢れ出てしまった涙を慌てて拭うと、はい、と小さく声にならない声を何とか絞り出した。

 

 

 その表情は、今まで見たどの表情よりも(あで)やかで柔らかで、大輪の花を咲かせたように華やかだったという。

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