第3譚 - 気
すっと黒いレースの手袋へ手を通すと、ひなはゆるやかな所作で指先まで整える。
うっとりと初夏の花を見つめると流れるように立ち上がるその動作を、廉たちはじっと見入っていた。
少しばかり暖かくなってきましたね、と独り言のように呟きながら振り返るひな。その瞳がそこでようやく皆を捉えたのか、ぱちぱちと瞬いた。
にこ、とひなは笑みを浮かべた。
「あら皆さま、ごきげんよ……ひいっ!!!」
「――!!?」
挨拶の途中で廉と目が合った瞬間、突如奇声を発してばっ! と後ろを向いてしまったひなに、3人は驚いて目を見開いた。
ぴし、と固まる廉。
ひいっ? ひいって言ったあの子? と宗一郎と修吾はふるふると笑いを堪える。
少しのあいだ固まっていたひなが、再びくるっと振り向いた。
にこ、とひなは笑みを浮かべた。
「あら皆さま、ごきげんよう」
(やり直した)
(なかったことにした)
(なかったことにしたな……)
宗一郎、廉、修吾はそっと心の中で突っ込んだ。
「これはこれは森部嬢。おはようございます。昨夜ぶりですね」
「まあ昨日の……」
爽やかに手を掲げながらひなに近づく宗一郎に、ひなは目を輝かせる。
「鷹野伯爵子息様のお供の――」
「友人です」
「まあまあ、失礼をいたしました」
食いぎみに訂正する宗一郎に、ふふ、と笑みを浮かべるひな。次の瞬間、じと……、と廉に鋭い目線を向ける。
びくっ! と廉はわずかに目を見開いた。
するとすぐ、さっ、と宗一郎に視線が戻る。
あら……? とひなは不思議そうな顔で宗一郎の服装をまじまじと見た。
「……日高男爵子息様……ここの神主様でいらしたのですか!?」
「神主代理ですが。気づいておられなかったのですか?」
「社交場では服装が違うもので……まるで気づきませんでした……!」
はわわ……! と驚くひなに、いつもご贔屓ありがとうございます、と社交辞令を交わす宗一郎。
すると次の瞬間、またひながじと……と廉に鋭い目線を向けた。
「……???」
何だ……? と廉は動けない。
「…………何かしたか? 俺……」
ふむ、と修吾は腕を組み顎に手を当てた。
「賭けに彼女との婚姻を持ち出した子爵の浅はかな挑発に乗って、挙げ句負け、娶ることとなった矢先に逃げ出したお前がしてないことって逆に何だ?」
「正論やめろ」
じ……と細い目でこちらを睨むように見つめるひなに、廉の胸はざわついた。
ちっ、と舌打ちする。
(何でこんな面倒なこと、いちいち悩まないといけねーんだ!?)
はっ……! と廉は鼻で笑った。
「……まぁ、確かにな。俺以上に嫌だろう」
「今さら気づいたのか」
「お互い嫌ってなら、話が早い」
すっとひなへ近づく廉を、修吾はちら、と横目で窺った。
一方、宗一郎と軽快な会話を続けるひなは、廉が気になって気になって仕方がなかった。
ちらっ、ちらっ、と盗み見しては、目を凝らす。
(……廉様……なぜあんなにも不穏な気を纏わせていらっしゃるのかしら!? 昨夜の夜会では気がつかなかったわ……ここが神社だからかしら……!? どうしましょう……気になって仕方がない……! 金平糖を乗せたら浮きそうなほど渦巻いているわ……!)
ひなには、こう見えていた。
こちらへ向かってくる廉に、ひなにどきどきどきと緊張が走る。
(ちっ……近づいてきていらっしゃる――!?)
ひゃあ……! とひなは思わず頬に手を当てた。
(ああ……払いたい……払って差し上げたいけれども……! 出会ったばかりで、昨日婚約を結んだばかりの女子がいきなり殿方に触れて、なんてあばずれな女なんだと破談にでもされたら……!!)
扇いでみたらどうかしら……? と、手でぱたぱたと風を送ってみるも、廉を纏う気は渦巻いたまま変化はない。
本当に金平糖を乗せてやるわよ……! と睨むひな。
乗せられるものなら乗せてみろ、とひなには気が嘲笑うかのように見え、ぎり……と悔しそうに睨みつけた。
「……???」
なぜかものすごく悔しそうに地団駄を踏んでいるひなに、若干引き気味の廉。
そんなに嫌われてるのか……となぜだか妙にショックを受けていた。
「……森部嬢」
意を決して声をかけると、ひなが我に返ったようにはっ! と大きく目を見開いた。
「廉様!」
わあ……! とひなの表情がぱあっと華やぐ。
廉様? と廉はひなの思いがけないリアクションに思わず固まった。
ひなは地団駄を踏んでいた地面をささっと草履でさりげなく整えると、もじもじと照れたような表情で廉を見上げた。
「し……失礼をいたしました廉様。おはようございます。昨晩はよくお眠りになられましたか?」
「え? ええ、まあ……はい」
よく眠れていないからこんなにも気を纏っているのかしら!? とわくわくしていたひなは、すん……と気に細い目を向ける。
気を取り直して、再びきらきらとした瞳を廉へ向けた。
「朝から出会えるなんて、なんて奇遇なんでしょう! ご、ご一緒に参拝をいたしませんか!?」
「…………」
え、これどうしたらいいの? と宗一郎と修吾に戸惑いの目を向ける廉。
やべー何だこの面白い状況!? とふるふると笑いを堪えながら、行け行け! とジェスチャーで合図を送る2人だった。
さあさあ急ぎましょう! これ以上増えないうちに! と息巻くひなに、はあ? と顔を顰めながらもしぶしぶついて歩く廉。
途中、ぴた、と立ち止まるひな。ん? と廉も同時に立ち止まる。
くるっとひなが振り返った。
「……廉様……なぜそんなにも後ろを歩いておいでですか?」
「……いえ……別に」
「…………」
しゅん、とわずかにひなの表情が曇る。
くるっとひなはまた正面へ向き直った。
(こんなことでしょげていてはいけないわ! 散々変わり者令嬢と煙たがれて来たのだから、当然――)
すると、すっと横に立つ影に、ひなは目を丸く見開いた。
「……毎日来ているのですか」
むすっと正面を見ながらそう呟く廉に、ひなは目を輝かせる。
「はい……! 廉様も、毎日ここへ?」
「なわけないでしょう。何故毎日あいつの顔を見に来なければならないのです」
はっ! とひなは思いついたように廉を見た。
もしやそれで……!? とわなわなと気に睨むような視線を向ける。
「廉様! 毎日ちゃんとありがたいお気持ちで手を合わせなければなりませんよ!!!」
「はぁぁあ!?」
何であいつ(宗)に手を合わせないといけないんだ……! とぞっとする廉に、あいつなんて言っては(気が)大変なことに! と力説するひな。
最高に噛み合ってないなぁ……、と背後から見守る宗一郎と修吾はふるふると笑いを堪えていた。
参拝を終え石段を下りるとひなは、ほう……! と安堵感に思わず胸に手を当てた。
「これで、きっとこれ以上悪い気は寄りつかな……」
え? と目を丸くしてひなを見ている3人にはたと気づくと、あわあわとその場でちょろちょろと挙動不審に慌てふためいた。
「……気?」
廉が、驚いたようにそう口にする。
「え!? いえ!! その! ではなくて! えーっと――」
「ひな嬢は、気の存在を信じておいでですか?」
そう言う宗一郎に、ひなは恥ずかしそうに俯くと、はい……と小さく呟いた。
「あ……その」
「奇遇ですね」
えっ? とひなは顔を上げた。
にこ、と優しくひなに微笑む宗一郎、修吾、そしてわずかに目を丸くしてひなをじっと見つめる廉に、ひなの胸がどきどきと高鳴った。
「……おかしいと……お思いになりませんか?」
「はい。僕はこう見えて神に仕える身ですからね」
宗一郎は笑みを浮かべると、立てた指を1度くるりと回した。
「森羅万象、天地万物。生きとし生けるもの全てに気は宿るとされております。この世に存在する気は様々ですが、『木火土金水陰陽』その全てに良気、悪気が存在し、この世で起こる悪しき物事は全て悪気による仕業であると言われております」
そうさらさらと説くと、楽しそうに廉とひなを見た。
「昨晩の一件……あの場にも、良い気運が巡っていたのかもしれませんよ。人の縁は一期一会。その良縁を運ぶのも、もしかしたら気の仕業であるかもしれませんからね」
「まあ……何て素敵なお言葉……! したためて壁にしつらえておきたいほどですわ!」
したためてかべにしつらえる? なに言ってるのこの子、と笑みを浮かべながら心の中で思わず突っ込む宗一郎と、したためた紙をよいしょよいしょと壁に貼るひなを想像する修吾。
廉様とこうして巡り合わせてくださったのも、気なのですね……! 金平糖を乗せようなどと申し訳ありませんでした……! となぜか廉に拝むように手を合わせるひなに、はあ? と今日何度目かの「はあ?」を発動する廉。
その様子をくすっと笑いながら宗一郎と修吾は眺めていた。
「……想像以上の変わり者令嬢だな」
「そのようですね。突き抜けてますね」
「でも……」
「ええ」
噛み合わないながらもわあわあと掛け合う2人に、思わず可笑しそうな笑みを漏らした。
「悪い子じゃあなさそうですねぇ」
「そうだな」
境内での分かれ道で立ち止まると、くるっと廉の正面に向き直るひな。
その硬い表情に、廉はやや身構えた。
「では――」
そう言いかけてふいとひなから視線を外した廉の服を、頬をほんのりと染めたひなが、きゅ、小さくつまむ。
どき、と廉の心臓がわずかに弾んだ。
ああ言われる、と眉をしかめる。
先に言われるくらいなら、と廉は口を開いた。
「申し訳――」
「ありがとうございます」
思わぬ台詞がひなの口から飛び出し、は? と廉は思わず固まった。
「あの……私……本当に嬉しくて。ずっとお礼をと……」
おや? と宗一郎と修吾も思わず目を丸くした。
ぐっ、と廉はわずかに奥歯を噛み、目を細めた。
「……俺が、社交界で何と呼ばれているか、ご存知ですか?」
「はい。存じております」
それなりに長くおりますゆえ、と笑うひな。
「あのような酒の席での戯言めいた賭けを、本気にされたのですか?」
「廉様にとっては戯れ言であったのだと思いますが、私にとっては一世一代の夢のような出来事でありました」
「俺と夫婦なんかになれば、今以上に社交界で後ろ指を指されることになりますよ」
「それでも、子爵様へ真っ先に『巻き込むな』と言ってくださり、万が一にでも娶ることになるかもしれない相手がこの変わり者と知りながら賭けを受けてくださった。その廉様の妻になれるのなら、それは私は誰よりも幸せであると思います」
ふいとひなは1度、目を伏せる。
「それに――」
ふっとひなは顔を上げた。
その瞬間――ふわりと柔らかく美しい笑みが目の前で花開き、廉は思わず息を呑んだ。
「人の縁は一期一会。この縁が良縁か悪縁かは、縁を紡いだその先――まだ、わからないことではありませんか?」
立ち去ったひなの背中を、ぼー……っと見つめながら立ち尽くす廉。
すると背後から、ぽん、と修吾と宗一郎が次々廉の肩に手を置いた。
「披露宴には呼んでくれ」
「神前式は是非ここ日高神社で」
「おい」
そこで、廉ははたと動きを止めた。
「……あれ?」
あれだけ重いほどに痛かった頭が、わずかに軽くなっていることに、廉はその時初めて気づいたのだった。




