第14譚 - 雪
夢のような一夜が明け――
先にまどろみから覚めた廉は、あまりに静まり返った空気と、カーテンの隙間から漏れる、普段と色の違う光に非日常感を覚え、はっと思わず隣を見た。
そこに、すやすやと小さく寝息を立てるひなの姿があり、安堵する。
昨日の夜会での、驚くほど真っ赤に染まった顔を思い出すと、自然と廉の口元が弛んだ。
「……ひな」
小さく呼び掛けると、浅い眠りの中、無意識に返事をするようにわずかに口が動く。
無意識に笑みを漏らすと、廉はひなの顔の横に手をついた。
「ひな」
まどろみの中呼ぶ声に、ひなはうっすらと目を開く。
音が失われたような普段と違う空気に、あらまだ夢の中ですわね、と再び目を伏せた。
その瞬間、視界に影が落ちたかと思うと、ふわ、と唇にやわらかいものが当たり、おや? とまたゆっくり瞼を開く。
すると、目の前にはだけた廉の胸元が飛び込んできて、ギン……! とひなは目を見開いた。
(――色気)
ひなは秒で目を覚ました。
「おはようございます、ひな様廉様。昨晩はよくお眠りになられましたか?」
「あっ……あらおはよう清香……! 昨晩も、とと……とってもよく眠れましたわ!」
「それは何よりでございます。それはさておき――」
えっ? 何? と、やや覆い被さるように目の前にいる廉の浴衣の襟を、首が締まる勢いで必死に閉じているひなに、清香は視線を向けた。
「――それは一体どのような状況で?」
「えっ? どどど……どのような……――」
ちら……、と恥じらうように廉の顔を覗き見るひな。
ぱち、と目が合うと、廉がにや、と笑みを浮かべる。
そのまま顔を近づける廉に、ここここれは廉様寝惚けておりますね!!? とひなはぎゅううう……! と襟をさらに全力で閉めた。
次の瞬間、清香は飾り棚に置かれた懐中時計を瞬く間に廉へと投げつけた。
「…………てめぇ……――」
割れるような頭を押さえながら、廉は何とか低い声を漏らした。
「――懐中時計投げるなって教わらなかったか?」(←起きた)
「残念ながら、生まれてこのかた教わりませんでした」
「残念だよ」
「そんなことより」
「そんなことって言うな」
さささっと清香はベッドの前を通りすぎると、窓の前で立ち止まり、しゃっ! と勢いよくカーテンを開いた。
その眩しさに、わずかに目を細めるひなと廉。
「ひな様」
えっ? と目を丸くするひなの顔を見て、清香はにや、と口端を上げた。
「見事なまでの、雪景色にございます」
はあ……!!! とひなは感嘆の息を漏らしながら、子供のようにぱあああ……! と瞳を輝かせた。
「積もったのか……」
朝食を終え、居間の1人掛けソファに座り新聞を広げる廉は、ちら、とサンルームから望む庭を横目で見た。
「道理で寒いわけだな」
脚の間におさめるひなで、ぎゅ、と暖を取ると、きゃ! と声が漏れる。
いいいいけません廉様……! とちっちゃく丸まりながら顔を両手で覆うひなに、廉は思わずははっと笑い声を漏らした。
もう……! と困ったような赤い顔で振り返ったひなは、昨日までよりも幾分も甘いような気がするその笑みに、ぽっ、と見惚れる。
なんてかっこよいのでしょう……! と内心きゃわ!!! と恥じらうように身をよじると、廉の顔をじっと見上げた。
「廉様は、寒いから雪があまりお好きでないのですか?」
廉は、驚いたようにひなを見下ろした。
「…………何で……俺が、雪が好きではないと?」
「昨日、私が雪のお話を廉様へした際に、ふと思った次第でございます」
違いましたか? と小首をかしげるひな。思わず廉は目を瞬く。
お前、何かたまに妙に聡い時あるよな……と廉が驚いたように呟くと、たまにとは? とさらにかしげる首が傾いた。
「昨日、好きになりましたよ」
「まあ……! それはなんと素敵なことなのでしょう……!」
自分が好きなものを好きと言われ嬉しいのか、瞳を輝かせて息巻くひなに、ふっと笑みが漏れる。
「それにしても、なぜ昨日――」
そこまで言って、昨日の出来事がひなの脳裏に浮かび、思わず言葉を詰まらせた。
ぽぽぽぽ、とあっという間に頬が染まる。
赤く染まっていく様子をにやにやと楽しそうに眺めていた廉が、ふわっとひなを包むように今度は正面から抱き寄せた。
「――!??」
ひなの額に唇を寄せる。
「ああ、でも確かに寒いのは苦手ですね。暖を取っ――」
「れれれ廉様いけません!!!」
目を固く閉じ、思い切り真っ赤な顔を上げるひなの頭が、ごっ! と鈍い音を立てて廉の目を強打した。
いっ……!!! と目を押さえながら声にならない声を漏らす廉の腕からするっと抜け出すと、ひなは照れをごまかすように、あわあわと早口でまくし立てる。
「えええと……あの、そう! あっ、そうなのです!!! うさぎさん! うさぎさんを作らないといけませんものね! 善は急げ、旨いものは宵に食え、ですわ! お日様が昇って雪の絨毯を溶かされてしまう前にしなければね!」
清香! と照れから見事に脳内が雪遊びにスイッチしたひなが、るんるんと清香を探しに踵を返す。
うさぎさん……? と廉は不思議そうに目を瞬かせた。
2階から、「ひな様、雪遊びの準備は万端にございますゆえ」「まあ、さすが清香ね!」といつもの会話が聞こえてくると、ははっ! と廉は思わず可笑しそうな声を上げたのだった。
「清香! 私はこのうさぎさんをすくすく大きく育てます!」
「それは素晴らしいですな。私は少々玄関前庭および車寄せの雪を掃いて参ります」
「はい、お願いします清香!」
雪が舞う中、寒さで頬を染めながらはしゃぐひなを眺めながら、廉は無意識に目を細める。
(……可愛いな)
何だうさぎさん育てるって、と吹き出した。
昨日、押し殺すように留めていた想いをふっと解いてしまうと、廉の心地が妙に晴れた。
こんな俺なんかと、と押し留めることが、ひなの言動の前にはまるで意味を成さないような気がして考えるのをやめると、悪気が晴れたように視界が開けた。
晴れた視界でひなを見ると、思っていた以上に愛らしく触れたくなり、驚いた。
――が。
『夫婦でああ……愛し合う……行為は、互いのあああ……愛……が必要であると思うのです』
瞬時に、ひなのぷるぷると震えるような声とともに結婚初日のひなの台詞が脳内で再生された。
(……互いの愛ねぇ……)
もくもくとうさぎを育てるひなを見ながら、さてどうしたもんかね、と呟いた。
「……廉様」
それからしばらくまったりと本に視線を落としていた時。
耳に、小さく呟くような声が聞こえ、ぱっと廉は振り返る。
「ん? ……――!?」
居間から続くサンルームの入り口には、雪をめいっぱい頭に乗せたひなが、しゅん……と悲しそうな顔をしてちょんと立っていた。
廉はぎょっと目を見開く。
「廉様……タオルを取ってくださいませ……」
「積もってるぞ!?」
「突然……柚子の木から、山のごとく沢山の雪が……」
「まだ降ってるしな!?」
「寒いです……」
くしゅん! と大きくくしゃみをするひなに、廉は思わず固まった。
廉に放り込まれた湯船につかりながら、はわ……、とひなはまったりとした声を漏らした。
「ぬくいですね……」
「凍えるまで雪遊びとか、子供か」
「童心に返らずんば虎子を得ず、にございます」
「あんたは元から童心だろ」
「さもありなん」
「褒めてません」
「あら」
はあ……と呆れたような息を漏らすと廉は立ち上がった。
「後は適当にやってください。清香さんに服は用意しておいてもらいますので」
「はい、ありがとうございます。廉様、うさぎさんの面倒を見てあげてくださいね」
うさぎさんの面倒? と廉はずっと背を向けていた顔をひなへと向けた。
その視線の先――長襦袢1枚で浸かっているひなは、浴槽の縁に腕を乗せ、その上にちょんと顎を乗せながらにこっと微笑む。
廉はぐっ……と1度息を呑むと、はあああ……! とその場にしゃがみ込んだ。
(……無駄な色気……!!!)
メルヘンな世界の妖精に色気とかいらねーんだよ……!!! と頭を抱える廉に、おや気でも纏いました? とぬくぬくと見当違いな発言を漏らすひな。
廉はむっとひなを見ると、膝をつき、すっと顔を近づける。
そのまま、ちゅ、と軽くキスを落とした。
やや頬を染め、むすっとした顔を上げると、ばっ! と踵を返す。
浴槽の入り口で軽く振り返ると、ふっと笑ってきょとんとした顔のひなを見た。
「のぼせないでくださいよ」
そう言ってにや、と口端を上げた。
浴室を出ると、廉はぱたんと扉を閉める。
とんっ、と扉にもたれると、赤い顔を隠すように思わず口に手を当てた。
「……いや……可愛すぎか……!!!」
はあ……と廉は降参とばかりに深い息を漏らした。
ぱたん、と閉まった扉を見ながら、ぽかん……と固まっていたひな。
暫くしてわなわなと震えると、ばっ!!! と赤くなった顔を勢いよく覆った。
(のぼせました――!!!!)
はっ! とそこで、自身が肌着しか身に纏っていないことに気がついたひな。
恐る恐る自分の身体に視線を落とすと、これ以上ないほどに耳まで真っ赤に染める。
(……色々見られ……!? というかなぜ廉様浴室に……あれ……廉様に脱がされ……――!?!?)
きゃ――――!!! と、脳内がパニックに陥ったひなの叫び声が、洋館中に響き渡ったという。
さく、さく、とふんわりとした雪を踏み鳴らす音が、ピンと静まり返った空気に吸い込まれていく。
一面白銀となった見慣れない庭に傘をさして出た廉は、ふと傘の外に手を出した。
ボタン雪が手の平に舞い降りると、すうっと溶けていく。
(随分と、冷たい綿菓子だな)
ふっと笑うと、ミカンの木の下に、丸く形作られたこんもりとりた雪の山を見つけ、歩み寄る。
ナンテンの赤い実と椿の葉っぱが飾られ、ひならしい可愛らしい雪うさぎを前に、廉はしゃがみ込んだ。
『うさぎさんの面倒を見てあげてくださいね』
「……どう面倒を見ろと?」
身体の芯までほかほかに温まり、すっかり心を落ち着かせたひなが、清香を連れ立って居間に顔を出した。
温かいお飲み物でもご用意いたしましょうか? と清香に問われ、そうですわね……と何を頂こうか思考を巡らせていたその時。
はっ! と何かに気づいたように、ひなは突如ぱたぱたとサンルームへ駆けて行った。
庭へと続くガラス張りのフレンチドアに、ばん! と手を付くと、額がくっつくほどにドアにへばりつく。
少しの間庭を見て固まっていたひなが、ふるふると震えながら、悲しそうにゆっくりと振り返った。
「……うさぎさんが…………ライオンさんになっています……!!!」
ひなの隣でひょいと庭を覗き込んだ清香が、可愛く頭に2つの葉っぱを乗せていた雪うさぎの顔の周りに無数の葉っぱが刺されているのを見て、ぷっ! と思わず吹き出す。
その犯人である、1人掛けソファに腰を落としている廉が、あははは!!! と大声で笑った。
「かわいいだろ?」
「私のうさぎさん……!!!」
廉様ー!!! と叫ぶと、ひなはむきー! と廉に跳び乗った。
「わっ……私が一生懸命……それはそれは大事に育てたうさぎさんを……! 私は面倒を見てあげてくださいと申しましたのに……なぜライオンさんになるのですか!!?」
顔を真っ赤にして怒るひなに、目に涙を浮かべながら笑っている廉。
「また作りゃあいいじゃねーか……!」
「……また……」
あーおかし……! と目の前で楽しそうに笑う廉に、ひなの胸がきゅんと鳴ると、むすっと拗ねたような顔を向けた。
「では……今度は一緒に作ってください……」
その初めて見る拗ねた顔に廉は目を丸くすると、わずかに頬を染めながら目を細めた。
「いいですよ。次大雪が降ったら、ひなさんが乗れるくらい大きなライオンを作ってあげますよ」
「うさぎさんです!!!」
「だめなの? ライオン」
「うさぎさんが食べられてしまいます!」
「脳内がメルヘンですねぇ」
うさぎさんと仲良しのライオンもいますよきっと、と廉が笑うと、ま……それもそうですわね……、とあっさり納得したひなであった。
その日の午後。
清香が焼いた動物ビスケットを、ライオンさん美味しいですわ! さすが清香ね! とはむはむ頬張るひな。その様子を隣で、廉が洋酒のジャムを落とした紅茶を嗜みながら楽しそうに眺めていた。
未だ空からはらりとわずかに粉雪が舞う、温かく明るく、少し艶めいた冬の一日であった。
――そして。
ひなの頭に山のごとく落ちてきた雪が、ただの偶然ではなく、世を無数に巡る『気』の悪戯であったことに、この時は未だ誰も、気づいていなかった。




