第12譚 - 憩
食堂の隣に構える、一際大きく光を取り入れ朝の穏やかな空気が包む居間。
未だ手の入れていない庭が望める窓の隣に置かれた、花柄の生地をあしらった1人掛けソファに座り、廉は新聞を広げていた。
すすっと近づいてきたひながテーブルにカチャ、と紅茶を置くと、ひょいと廉の手にある新聞を覗き込む。
「何を読んでいらっしゃるのですか?」
「……新聞といいますが。ご存じですか?」
「新聞くらい、知っていますよ……!」
むうっと口を尖らすひなに、ははっと廉は楽しそうな声を上げる。
「どの欄をと、お聞きしたのです!」
「読みますか?」
ふっと目を細めると、ぐいっとひなの手を引いた。
えっ、と目を丸くしている間にも、ひなは廉の脚の間におさまっていた。
「!?!?」
「ほら、外国より新型の自動車が輸入されたとありますよ。欲しいですか?」
「みみみ見えません……!」
「それは、ひなさんが顔を手で覆っているからでは」
笑いながら廉はひなの片手をすっと取り、ぴっと新聞のとある欄にその手を向けた。
ひゃわわわ……とちっちゃくなっていたひなは、その手が指した先の広告欄を見て、ま……! と思わずため息を漏らす。
「これは……かの有名な……魅惑のキャラメルでは……!」
「随分とキャラメルに夢見ていますね」
「初めて口にいたしました時のあの……うっとりとするような甘さは、今でも思い出せますわ……!」
「また――」
そう言いながら廉は、ちょい、と軽くひなの唇に指を当てた。
「――餌付けしてあげましょうか?」
「……――!?!?」
わなわな……と真っ赤な顔で震えたのち、わあああ……! と再び顔を覆うひなを可笑しそうに眺めている廉。
ふと、食堂から驚いたようにこちらを見ている清香と視線が合う。
にやあ、と悪そうな笑みを向けると、抱き心地が良くなる一方ですねぇとひなの下腹辺りに手を添えた。
れれれ廉様いけません!! と恥じらうように思いきり顔を横に振ったひなの頭が廉の目にごっ! と当たる。
いっ……!!! と声にならない声を上げる廉に、あああすみません……! とひなは慌てて振り返ると、廉の目をさすさすとさすった。
その一連の仲睦まじいやり取り(というか廉のにやあ、とした挑発的な笑み)に、清香はわなわなと肩を震わせていた。
(……鷹野廉…………許すまじ!!!)
めき!! とチョコレートボンボンのブリキ缶を歪ませたという。
「はい、ひなさん。これがお約束のイチゴの苗ですわ」
「まあ……イチゴの苗……なんて素敵な響きなんでしょう……!」
晩秋の良く晴れた小春日和。
手つかずの庭先で、わくわくそわそわと胸を弾ませるひなに、文子は小ぶりな苗を数株手渡した。
うっとりと赤く実ったイチゴを想像するひなを、うふふ、と楽しそうに眺める文子。
その後ろでは清香が、どん! と大きな鉢を並べていた。
「ひな様。こちらがおっしゃっていた苗木にございます。こちらから順にミカン、柚子、金柑、枇杷、桃、でございます」
「まあ、多種多様ですのねぇ」
「すでに幸せな予感しかいたしません……!」
庭を望むサンルームでは、木製の肘置のついた布張りの椅子に座る廉と修吾が、庭を眺めながらコーヒーを嗜んでいた。
ちら、とサンルームに置かれたレモンとブドウの鉢を横目で見ると、廉はひなへ顔を向ける。
「あいつは――」
きゃっきゃと女子同士で楽しそうに声を弾ませるひなに、思わず呆れたような声を漏らした。
「――うちの庭を果樹園か何かにする気か?」
はははっ! と修吾は笑い声を上げた。
珍しく洋装に身を包んだひなが、ふわっとスカートをなびかせ廉に華やいだ笑みを向けた。
「廉様! 植えてもよろしいでしょうか?」
「好きにしてください」
そう微笑む廉に、にこっとひなは嬉しそうに目を細める。
またふわっとスカートを膨らませるひなを、廉は楽しそうに見つめる。
「では、さっそく! 冬を迎える前に、しっかりと根付きますように」
「ではミカン、柚子、金柑を地植えいたしましょうか。枇杷、桃はこのまま温室で育て、温かくなりましたら地植えいたしましょう」
「まあ清香、詳しいのね!」
「多少園芸についての知識を嗜んでおりますゆえ」
すごいわ清香! とぽやっとした返しをするひなに、今日もぽやっとしてんな……と思わず廉の口から笑みが漏れる。
柔らかい空気を纏う廉を、おや? と修吾は横目で窺う。
ふっと口端を上げると、コーヒーカップを手に取った。
「清香さんは……何というか、さすがだな」
「まじ怖ぇよ、あの人」
「そうなのか?」
「こないだなんて、チョコレートボンボンを投げつけられそうになった」
「どんな状況だ、それ」
『的は外しませんのでご安心なさいませ。多少投球術を嗜んでおりますゆえ……!』と廉を睨みながらチョコレートボンボンを構えていた清香を思い出し、ぞわ……と廉はかすかに震えた。
修吾は、はははっ! とまた声を上げて笑うと、楽しそうに廉を見た。
「果樹園の果物も、完璧に実らせそうだな」
「ひなが喜ぶな」
「愛だな」
「うるせーよ」
やんわりと突っ込む廉に、宗がいたら竹箒を振り回しそうだな、と全力で竹箒で薙ぐ宗を思い浮かべる。
あ、とそこで修吾は声を漏らした。
「果物と言えば、宗だな」
「あいつ、すげーミカンとブドウ食うよな……」
「多分実った果物食らいつくすんじゃないか?」
笑う2人。
「……宗が、廉が結婚したことを……というか、独身が自分だけになったことをやや不満がっていたが――」
「……あー……」
「心配無さそうだな」
「ひなあいつ、宗専用の客間用意してたぞこないだ」
うきうきと……と呟く廉に、想像できるな……! と笑う修吾。
「俺の書斎はあるんだろうな?」
「それも用意してたよ……」
「まじか!」
なんでうち書斎2部屋あるんだ? と不満そうな廉に、修吾は腹を抱えて笑った。
まったりと談笑しながら土をゆったりと掘るひなと文子の横では、清香がてきぱきと無駄なく作業を進めていた。
気づけば、庭も形になってきていた。
美味しく美味しくたくさん実をつけてくださいませ、と願望に近い祈りを込めながらぺちぺちとイチゴの苗を植えているひな。
その真剣な表情のひなを、文子は楽しそうに眺めていた。
「……素敵ですわね」
「素敵すぎますわよね……! 明日にでも全部実っていてほしいほどですわ!!」
「早すぎません?」
あはは! と文子は思わず声を上げて笑う。
「そういうことではありませんわ」
「あら……そうですわね。一度に熟してしまっても、食べきれませんものね」
「ではなくて。こんなに広い庭を好きにしていいだなんて」
「!」
はわ……、とひなは無意識に、廉の方に顔を向けた。
修吾と楽しそうに談笑する廉に、ぽ……と思わず見惚れる。
「――ひなさん、愛されてますわね」
「あっ……あああい!?」
文子の言葉に思わず、ひゃわ!!! とひなは奇声を発しながら、ばっ! と顔を両手で覆った。
まぁ! と文子は目を丸くして口の前に手を添える。
「…………ひな様」
「ひゃい清香(はい清香)!!!」
「……土いじりをしました手袋で頬を触りますと、顔が土まみれになります」
「なななんと!?!」
慌てて手を離すひな。
先に言ってください清香! と頬を膨らませるひなに、身を挺して止めようといたしましたが、如何せんシャベルに土がこんもりと乗っておりましたので、とやや笑いを堪えてふるふると震えながら告げる清香。
2人の掛け合いを見ながら、相変わらず楽しいご関係ですこと、と文子はくすくすと笑った。
「冬の始めに夜会があるだろう」
きゃあきゃあと響く高い声を聞きながら、修吾がひょいとクッキーを手に取る。
コーヒーカップに口をつけていた廉は、ちら、と修吾を見た。
「あるな。侯爵家主催のやつだろ」
「夫婦で参加するだろう?」
「……するな」
ふっ、と修吾は含んだ笑みを廉に向ける。
「……何だよ?」
「いや、大変だろうなと思って」
「別に、好き勝手話の種にされて笑われるのには慣れてる」
「じゃなくて」
「あ?」
「地味令嬢を卒業しての夜会は始めてだろう」
「――!」
はた、と廉は動きを止めた。
「……廉様」
その時、小さく呟くような声に、ぱっと廉は振り返る。
「ん? ……――!?」
サンルームの前には、土を頬にめいっぱいつけたひなが、しゅん……と悲しそうな顔をしてちょんと立っていた。
廉と修吾は思わず吹き出した。
「何をどうしたらそうなるんだ!?」
「廉様……タオルを取ってくださいませ……」
あはははは! と大笑いする2人に、すん……と真顔になるひな。その何とも言えない表情に、2人はさらに笑い声を上げた。
廉は笑いを堪えながら、濡らしたタオルで、ひなの顔を優しく拭いた。
「ひなさんは、園芸の才能があるようで」
「……褒めています?」
「どうでしょう」
もう……! と膨れるひなを可笑しそうに見つめる廉。その楽しそうな廉に、ぽわ、とひなは頬を染める。
釘付けになっていると、ふと見上げた廉に、微かに気が渦巻いていることにはたと気がついた。
ひなは、さっと手袋を外すと、おずおずと廉の額に手を当てる。
廉はわずかに目を見開いた。
その廉の表情にひなはきゅっと唇を結ぶと、ささささっ! と荒めに額を撫でた。
「……荒いな」
「そそ……そうでしょうか」
すぐ引き寄せますのね……と呟きながら、ひなはささっと気を払う。
そんなひなを、廉はじっと見つめた。
「そんな頻繁に気を払って……あんたの身体は大丈夫なのか」
「えっ?」
ぱっ、とひなは廉の顔を見た。
やや心配そうな色を浮かべる廉に、ふふっ! とひなは笑みを弾けさせる。
「ええ! 払うと言っても、触れると空に溶けていくような心地でして……何というか――」
ぐ――、とひなの腹が鳴った。
「……お腹が、空くだけでございます」
「そんなことあんのか?」
呆れたように笑いながら、まあ何ともないならいいけど、と廉は頬にまだ残った土をそっと手で拭った。
眉を下げて何ともつかない表情を浮かべる廉に、ひなの胸がきゅっ、と苦しくなる。
「……廉様のせいなのでございます」
ひなは、思わず呟いた。
「何がだよ」
「廉様が――」
そう言って顔を上げた先の笑みを浮かべる、柔らかく甘い表情に、ひなは思わず言葉をつまらせた。
何だよ? とにやにやと笑う廉に、晩秋の澄んだ空気とは裏腹にじわり、とひなに熱が籠る。
「……れ……廉様が…………かっ――」
「か?」
俯いてしまったひなの顔を、ひょいと覗き込む廉。するとその瞬間、ひながばっ! と顔を上げた。
その真っ赤に染まり困ったように眉を下げた顔に、廉は目を丸くする。
「――勝手に私のチョコレートボンボンを食べたからです!!!」
「関係あるかそれ!!?」
食べたけど! と続ける廉に思いきり背を向けると、もう廉様にはイチゴが実ってもあげません!!! と慌てて清香たちの所へ駆けていくひな。
突然の奇行に廉は動けず、ぽかんとした顔でその背を目で追った。
「……何だ……? よくわかんねーな……いつもだけど」
廉の横では、色々と察した修吾が、可笑しそうに笑いを堪えていた。
「……っ……相変わらず……ひなさんは可愛いな」
「……可愛い?」
「いや悪い。怒るな」
「怒ってねーよ」
「そうか。……いやいや……」
修吾はコーヒーを嗜むと、ふー……、と澄んだ秋空を見上げた。
「良かったな」
「何がだ」
通訳してくれ、と修吾を見る廉に、自分で聞け、と修吾は濁す。これは夜会が楽しみだなと内心楽しそうな笑みを漏らした。
(廉様が……かっこよいからなのです……!!!)
ひ――……!!! とひなは真っ赤な顔で清香のすぐ横まで駆けてくると、しゅた! としゃがみこみ、膝に顔を埋めた。
垂れる髪の隙間から覗く真っ赤に染まった耳に、あらあら、と清香は目を細める。
「……お化粧が、落ちてしまいましたね」
「…………それは……困りました……」
あら、と文子は優しく言葉を掛ける。
「お化粧などしなくても、可憐ですわよ」
「……あ……ありがとう、ございます…………あの、ではなくて……」
「はい?」
ひなは恥じらうように、ちょこ、とわずかに顔を上げた。
「……最近、すぐ顔が火照るのでございます……イチゴのように赤くなるのが嫌で……」
ちら、と隣の清香に視線を送ると、赤いですか? と小声で呟く。
はいひな様、熟れたイチゴのように、と頷く清香に、ああまた!!! とひなは再びばっ! と顔を埋めてしまった。
なんと初々しいのかしら、と文子はほっこりと目を細める。
「赤く染まっていた方が、美味しそうに見えるのでは?」
「……私は食べられてしまうのでしょうか?」
「文子様。そのような例えはひな様には通じませんゆえ」
「あら残念」
「……?」
楽しそうに笑う清香と文子に、ひなはきょとんとした顔を上げた。
膝を抱えてちっちゃく丸まりながら、一点を見つめてさくさくと土を掘っていくひな。
ふと、シャベルに乗った土にミミズを見つけ、まあミミズさん……、と目を瞬かせる。
ちょろちょろと動くミミズを見つめながら、ぽーっと雛は廉の甘い表情を思い返し、ぽわ、とまた頬を染めた。
(清香……なぜでしょう……この、廉様をかっこよいと……その柔らかいお顔を見るたびに胸の奥の奥が、感じたことのない痛みのような、小さなもやもやとしたものを感じるということを、廉様には秘密にしておきたいと。そう思うのです。こんな私と夫婦となってくださった廉様に、こんなこと……私が思うなんて、おこがましいのではと……。今のままで十二分に、私は果報者なのですから)
ねえ清香、と呟くひなに、ひな様、それは清香ではなくミミズにございます、と清香は丁寧に突っ込んだ。
庭の果物がゆっくりと根付くように、ひなと廉にも、わずかに恋の火種が根付き始めていた。
そして――
季節は冬。
「――廉様、この髪飾り、いかがでしょう!?」
「いいんじゃないですか、冬らしくて。今日も一段と華麗ですよ」
「…………」
「その椿、庭から採りました?」
「……花令嬢の私も、さすがに生花は身につけません」
あはは……! と楽しそうに笑う廉。
ぽわ、と廉を見つめているひなに向かい合うと、すっと片手を差し出した。
「どうぞ」
「はい……!」
ひなが添えた手を取ると、廉はその手を自分の腕にかけた。
きゃわ!!! と恥じらうひなを楽しそうに見下ろす。
2人はすっと目を合わせた。
「覚悟はいいですか?」
「夜会のお菓子を食べ尽くす覚悟でございましょうか?」
笑う2人。
「後ろ指を指されますよ」
「廉様こそ」
「それも一興です」
「私も、廉様とご一緒ならば、どんな陰口も軽口も笑い飛ばせますわ!」
「頼もしいですね」
笑いながら部屋を出た廊下から見下ろす階段下では、清香がすっと頭を下げていた。
「ひな様廉様。行ってらっしゃいませ」
華やかな化粧に、艶やかなドレスを身に纏ったひなが、ふわっと花を散らしながら微笑んだ。
「行って参ります!」




