第10譚 - 始
ひなは、ベッドの上でちょこんと正座をしていた。
向かいのソファに座りながら、廉は頭を抱える。
「本当に……――」
ちらっとひなを見た。
はい? ときらきらした瞳がぱちぱちと可憐に瞬く。
「――……素顔それかよ……!!!」
はい! と微笑み花を散らすひなに、地味令嬢どこ行った……!!!(2回目)と廉はソファに雪崩れ込んだ。
九条邸宅での祝宴を終え、時間は日を跨いだ深夜。夫婦が構えた新居の寝室にて。
廉は、見慣れない可憐なひなの素顔に困惑していた。
(待て待て待て、待て? いやおかしくね? 何で昨日まで地味令嬢だったこいつが、ああ(※神前式の時の華やかなひな)なって、こう(※素顔の可憐なひな)なるの? どんなからくり? 化粧ってやべーな……)
じ――……、とひなを細い目で見つめる廉に、な、なんでしょう……? と恥じらうように頬を染めるひな。
その仕草に、廉の思考がふっとどこかへ消え去る。
「……ま、なんでもいいか……」
廉はテーブルに置かれた水の入ったグラスをぐいっとあおると、立ち上がる。
ぎし、とベッドへ膝をつくと、ひなに顔を近づけた。
「……ひ――」
ぱしーん! といい音を立てて、ひなは反射的に廉の両頬に手を当てていた。
その手がふるふると震える。
(……こ、これは……!!!)
『――……太郎は千代の言葉を遮るように口を塞ぐ。絡む甘い蜜に身体が徐々に熱――』
「ひゃわわわわ!!!」
頭に突如指南書(官能小説)の内容がすらすらすらと蘇ると同時に、ひなは一瞬にして状況を理解した。
「……???」
一方廉は、頬を挟まれたまま、動けず固まっていた。
耳まで真っ赤な顔で俯くひなの顔を覗き込むと、頬に当てられている手を上から触れてみる。
その瞬間、ひなは勢いよく横に転がると、ベッドの端に片膝を立ててすちゃっと着地した。
(……忍者?)
きょとん、と動けず目線だけでひなの動きを追う廉。すると、ひなはすん……と真顔で視線を落としたまま口を開いた。
「……廉様」
その低いトーンに、お、おお……、と廉は反射的に声を漏らす。
「私たちは……夜会での賭け事で偶然にも結婚することとなりました…………謂わば、『景品とその獲得者』のような……何といいますか……たまたまな夫婦、だとお思いになりませんか?」
たまたまな夫婦? と目を丸くする廉。
「そういえば……そうだったな」
「そうなのです。私も今しがた思い出した次第であります」
(報告?)
突っ込むに突っ込めない空気に、廉の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
「……それで……その、夫婦でああ……愛し合う(小声)……行為は、互いのあああ……愛(小声)……が必要であると思うのです」
「…………指南書読みました?」
「……はい」
ああなるほど、と妙に廉は納得した。
はぁ、と小さくため息を吐く。
「ですが、夫婦としての努め――」
「ですが今日この夜も更けに更け酔っ払った今この時でなくてもよいと私は思うのです!!!」
一息でまくし立て、かっ!! と真っ赤な顔を上げ廉に訴えるひなと、動けずにいた廉が見合う。
「………………そうですね?」
廉は勢いに負けて思わずそう口にしていた。
すやすやと安心しきった顔で隣で眠るひなに、はぁ……、と廉は吐息に近いため息を漏らす。
「……そうきたか…………!」
ぴよ、と寝言を漏らすひなに、ぴよって何だよ……! と頭を抱えた。
かくして、ひなと廉の、面白可笑しい(廉的には我慢の)結婚生活が幕を開いたのだった。
その翌朝――
やや笑いを堪えふるふると小さく震える清香が、扉の前で頭を下げる。
「おはようございます、ひな様廉様。昨晩はよくお眠りになられたご様子で」
「ええ!」
「……ああ……お陰様でな……!」
ベッドできらきらと可愛らしい笑顔を弾けさせるひなの横で、若干疲れ果てたように苦笑いして清香を睨んでいる廉。
まあ! と清香はわざとらしく目を見開き口に手を当てた。
「おや廉様! よくお眠りになりませんでした? 抱き枕かのように抱き心地のよろしいひな様が隣におりましたのに」
「てめぇ……こうなるとわかって、こいつにあの本(指南書)読ませたろ……!!」
「あら! もちろんそうでございますけれども、こうとは?」
「こうとは? じゃねーんだよどーしろっつーんだよあの状況……!!!」
くすっ、と笑う清香。
「純に純を極めたひな様……幼そうに思えて案外素顔は華やか、行き遅れなだけに色気もあり、程よい肉付きのふくよかなお身体は大層抱き心地がよろしいかと…………よく、我慢なされましたなご主人……!」
ふふふふ……! と嘲笑うかのような笑みを漏らす清香に、たち悪ぃ……!! と震えながら清香を睨む廉。
悔しそうな廉を見ながら、いい気味だな鷹野廉! 攻めあぐねるがいい!! と楽しそうに笑う清香に、あら清香なんて楽しそうなのかしら……昨日はとっても楽しかったものね! とひなはほっこりしていたという。
朝日がまったりと差し込む、新居の南側に構えた食堂で、ひなたちは洋風のダイニングテーブルを囲んでいた。
朝食を終え、食後の紅茶の香りが食堂全体を包む。
ブドウをほぅ……! と味わいながら紅茶を嗜んでいたひなは、もう1つブドウをつまもうとフォークをお皿に向けるも、からん、と空いたお皿に目を瞬いた。
すん……と空の皿と睨み合うひなは、ふと隣と廉の皿に乗る紫紫としたブドウを見つけ、まあ……! と瞳を輝かせた。
その一連の仕草をじっと見つめていた廉は、思わず吹き出す。
見られていたことに気づいたひなは、きゃわ……と少し恥じらうように頬を染めると、すすっと少し身体を廉に近づける。
廉は笑いながら、ブドウを刺したフォークをひなの口へと運んだ。
ほぅ……! と幸せそうに目を細めるひなに、廉はまた楽しそうな笑い声を上げた。
(……餌付け?)
食卓を片しながら2人の様子をまじまじと眺めていた清香は、あらまあこれほどまでに仲睦まじいにも関わらずお預けを食らう廉様ほんと不憫ですわね……いい気味――いえ、さすがひな様ですわ、と内心ほくそ笑んでいた。
エプロンをすっと外しながら清香は2人に控えめに声をかける。
「失礼をいたします。本日のご予定でありますが」
「はひひよは(はい清香)!」
ブドウを口の中で転がしながら、ひなはぽんと手を合わせる。
先食え、と呆れた顔を向ける廉。
ごくん、とブドウを飲み込み紅茶のカップをゆったりと傾けると、カタ、と丁寧な所作でソーサーへ置いた。
「――はい。本日は鷹野家と森部家へさささっと顔を出し、日高神社様と先生ご夫妻への手土産用銘菓の買いつけ、および家で廉様と清香とまったりと嗜むための幸せなお菓子の買いつけ。その後日高神社へのお参りに参りましてから先生宅ご訪問。ご近所様へのご挨拶は明日でしょうか? あまり予定をお菓子ほど詰め込みすぎては身体に障りますものね!」
「ではそのように」
はい! と笑みを浮かべると、ぴよぴよと言いながら、廉に顔を向けておかわりくださいと口をぱくぱくさせるひな。
廉はきょとん、とそんなひなを驚いたように見つめる。
清香は廉へ目線を向けた。
「廉様は、ひな様がただのぽやぽやしたぽやぽや令嬢だとお思いで?」
「……思ってたよ……」
はっ、と清香は軽く鼻で笑った。
「ひな様は、伊達に家族からの支援も受けず行き遅れてきただけある生活力と主体性、そして意外な頭の回転を持ち合わせておりますゆえ。意外も意外かと思われますが」
えっ、と廉は驚いたように目を瞬かせた。
驚きましたか?? と楽しそうにぴよぴよ言うひなの口にブドウを放ると、驚いたように呟いた。
「……まだまだ世には知らないことがたくさんあるな……」
「ほうはんふへん、みひみもん!」
「浩瀚無辺、未知未聞な」
あらひな様、どこでそのようなお言葉を? と目を丸くする清香に、先生ですわ! とひなは楽しそうに目を細める。
ブドウをごくんと幸せそうに飲み込むと、またぽん! と手を合わせた。
「それでは、参りましょうか? 善は急げ、旨いものは宵に食え、ですわ!」
あははは! と笑い声を上げる宗一郎。
おかしくね? と廉は困惑の色を浮かべながらひなを見やる。
ひなはというと、神社の参道脇に朱の色を添えるドウダンツツジの前でしゃがみながら、いけません! あっちへお行きなさい! と赤い顔をしながら気を払っていた。
「いやぁ、さすがひなさんですなぁ……!」
「さすがなのか?」
「さすがではないですか? 地味令嬢の素顔は美人ながら夜の誘いを即拒否、朝は甘え上手でさらには思わぬ頭の切れを隠し持っていたとは……さすがの一言ですよ。廉さん、どれだけ果報者です?」
「夜の話はしてないけどな?」
「それは僕の予想です」
何でわかるのこいつ……という表情を浮かべている廉に、あーやっぱりねと宗一郎は内心笑みを浮かべる。
新宅のご報告と称し受け取った丸缶の蓋を開け、青や黄のころっとしたボンボンから香るリキュールの香りにぺろっと舌を出しながら、楽しそうに話を続けた。
「でも実際、僕は『陽』の気を持つひなさんが良気を巡らせているような気がしてならないですが」
「本気で言ってんのか? あれだぞ?」
廉がそう言うと、2人は揃ってひなを見る。
ああ……勢いよく叩いてしまって申し訳ありませんでした……! とドウダンツツジをよしよしと撫でているひなに、何とも言えない空気が2人を包む。
「……まあ、言動はあれですが」
「だろ」
「ですが、ひなさんが毎日こうして足しげく通ってくださっておられるからか、周囲の神社が軒並み多岐にわたる騒動に見舞われる中、ここ日高神社のみが未だ平穏無事を貫いておりますからねぇ」
「騒動にございますか!?」
「輝かせんな目を」
さっ! と宗一郎の話を聞きつけて廉の横に素早く飛んでくるひなに、すかさず突っ込む廉。
いやぁ掛け合いの瞬発力が既に夫婦ですなぁと宗一郎は楽しそうに笑う。
すると、まぁ……! と目を細めてすすす……と宗一郎に歩み寄るひな。なんて幸せな香りと色なのでしょう……いえ口にしたいとかではありませんのよ……とうっとりとボンボンを見つめるその姿に、廉は呆れたような目を向けた。
「……買いかぶりすぎじゃねーか? こいつを」
「ですが、ひなさんと関わりを持つようになってから、廉さんも変わりましたよ」
「はぁ? どこが?」
くすっと笑う宗一郎。
「惚れでもしましたか?」
「……――!」
廉はわずかに目を見開いた。




