第9話「踏み込む覚悟」
昨日見た“逃がされた幹部”の姿が、頭から離れなかった。
あの背中の跡。
あの怯えた目。
あれは、ただの行方不明じゃない。
翌朝、署に入ると、先輩はすでに資料を広げていた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、後輩」
いつも通りの静かな声。
でも、机の上の資料はいつもより多い。
「先輩、何か分かったんですか?」
「分かったというより……“繋がった”」
先輩は一枚の写真を指で押さえた。
「昨日逃げた二人。
どちらも“同じ人物”と接触している」
「同じ人物……?」
「この男だ」
先輩が示したのは、昨日裏口から出てきた“最初のスーツの男”だった。
「彼はフロント企業の外部協力者。
でも、最近は組の内部にも出入りしていた」
「内部にも……?」
「そう。つまり“橋渡し役”だ」
背中が冷たくなる。
「後輩。
暴力団の内部で何かが起きるとき、
真っ先に動くのは“橋渡し役”だ」
「じゃあ……昨日の逃走は……」
「逃走じゃない。
“処理”だよ」
処理。
その言葉が、妙に重かった。
「後輩」
「はい」
「今日、お前は“踏み込む覚悟”を試される」
「踏み込む……?」
「見るだけじゃなく、考える。
考えるだけじゃなく、繋げる。
繋げるだけじゃなく、“踏み込む”」
先輩は淡々と続けた。
「ただし――」
その声が、急に低くなる。
「踏み込むということは、危険の中に入るということだ。
だから俺は、まだお前の名前を呼ばない」
「……まだ、ですか」
「まだだよ。
名前を呼んだ瞬間、お前は俺と同じ場所に立つ。
同じ危険を背負うことになる」
その言葉が、胸に刺さる。
「先輩。
俺……いつか、同じ場所に立てますか?」
先輩は少しだけ目を細めた。
「立てるよ。
でも、今日じゃない」
「また今日じゃないんですか!」
「今日のお前は、踏み込んだら転ぶ」
ひどい。
そのとき、課長がフロアに入ってきた。
「おい、お前ら。
昨日の幹部、裏路地で倒れてたぞ。
意識はあるが、何も話さない」
空気が一瞬で変わった。
「先輩……」
「行くよ」
車に乗り込むと、先輩はシートベルトを締めながら言った。
「後輩。
今日、お前は“踏み込む覚悟”を持て。
でも、踏み込むのは俺だ」
「俺は……?」
「お前は“見る側”でいい。
まだ名前を呼ばれてないんだから」
その言葉が、妙に悔しかった。
「先輩。
俺、いつか名前を呼ばれたいです」
先輩は前を向いたまま、静かに答えた。
「呼ぶよ。
お前が“自分の足で立てるようになったら”」
車は静かに動き出した。
――踏み込む覚悟。
それは、まだ俺には重すぎる言葉だった。
でも、逃げたくなかった。
(名前を呼ばれる日が来るなら……俺は、その場所に立ちたい)
そう思った瞬間、
胸の奥で何かが静かに燃え始めた。




