第7話「見えてしまったもの」
フロント企業の前に着いたとき、街はいつも通りだった。
通勤の人、開店準備の店、朝の匂い。
でも、建物だけが“違う空気”をまとっていた。
「先輩……なんか、静かすぎません?」
「静かだね。静かすぎる」
先輩は車を少し離れた位置に止め、双眼鏡を覗いた。
「後輩。昨日の幹部、まだ戻ってない」
「行方不明のまま……?」
「そう。家族からの通報は本物だ」
先輩は淡々としているが、声の奥に緊張があった。
「後輩」
「はい」
「今日の任務は“見る”だけだ。絶対に近づくな」
「わ、分かりました」
そう言いながらも、胸の奥がざわつく。
昨日の“ほころび”が、今日“裂ける”気がしてならない。
そのとき――
建物の裏口が、ほんのわずかに開いた。
「先輩、あれ……」
「後輩、声を落とせ」
先輩の目が鋭くなる。
裏口から出てきたのは、昨日の幹部ではなかった。
見たことのない男だ。
スーツは乱れ、ネクタイは外れ、顔色が悪い。
「……逃げてるな」
「逃げてる……?」
「昨日の幹部と同じ歩き方だ。
肩が上がって、視線が泳いでる」
男は周囲を警戒しながら、裏路地へ消えていく。
「先輩、追いますか!?」
「追わない」
「またですか!」
「追うのは刑事ドラマの中だけだよ」
先輩は双眼鏡を下ろし、静かに言った。
「後輩。あれは“逃げる人間”じゃない」
「えっ、じゃあ……」
「“逃がされた人間”だ」
背中が冷たくなる。
「逃がされた……?」
「そう。自分の意思じゃない。
“誰かに外へ出された”歩き方だ」
そんなことまで分かるのか、この人は。
「後輩」
「はい」
「今日、お前は“見てはいけないもの”を見るかもしれない」
「……え?」
「でも、絶対に声を出すな。
名前を呼ばれてないということは、
まだ“巻き込む段階じゃない”ということだ」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
そのとき――
建物の裏口が、もう一度開いた。
今度は、昨日の幹部だった。
ただし、
昨日とはまったく違う顔をしていた。
顔色は土のように白く、
足取りはふらつき、
何度も後ろを振り返っている。
「先輩……あれ……」
「後輩、絶対に声を上げるな」
幹部は裏路地へ向かう。
だが、その背中には――
“誰かに押されたような跡”があった。
「……先輩、これって……」
「言うな」
先輩の声が低く、鋭く、冷たかった。
「後輩。今見たものは“事件の入口”だ。
でも、まだ“事件”とは言えない」
「じゃあ、何なんですか……?」
「“見えてしまったもの”だよ」
幹部は裏路地の奥へ消えていった。
街はいつも通りなのに、
胸の奥だけがざわついている。
「後輩」
「はい」
「今日、お前はよく見た。
昨日より静かだったし、昨日より冷静だった」
「ほんとですか……?」
「ほんとだよ」
先輩は少しだけ笑ったように見えた。
「でも、まだ名前は呼ばない」
「やっぱり!」
「まだ早い。
名前を呼ぶのは、“同じ場所に立てる”ようになってからだ」
先輩はエンジンをかけた。
「後輩。
今日見たものは、忘れるな。
でも、誰にも言うな」
「……はい」
「明日、もっと深いところが見える」
車は静かに動き出した。
――見えてしまったものは、もう戻らない。
俺はシートベルトを握りしめながら思った。
(名前を呼ばれる日は……近いのか、遠いのか)
その答えは、まだ分からなかった。




