第6話「朝は静かに来る」
翌朝。
昨日の“ほころび”が頭から離れないまま、俺は署に向かった。
マル暴のフロアは、いつもより静かだった。
いや、静かなんだけど……空気が重い。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、後輩」
先輩はいつも通り淡々としている。
でも、机の上には昨日のメモが広げられたままだった。
「先輩、昨日の“ほころび”……やっぱり何かあるんですか?」
「あるよ」
即答だった。
「今日、動きが出る。
ただし、まだ“事件”とは呼べない」
「じゃあ、何なんですか?」
「“予兆の続き”だよ」
予兆の続き。
そんな言い方があるのか。
「後輩」
「はい」
「今日の任務は、昨日より静かにすること」
「またそれですか……」
「またそれだよ。昨日より静かに、昨日よりよく見る。
それができるようになったら、名前を呼ぶかもしれない」
「“かもしれない”なんですね」
「“かもしれない”だよ」
先輩はコートを羽織りながら続けた。
「後輩。名前を呼ぶというのは、
その人を“現場の中心”に立たせるということだ」
「中心……?」
「名前を呼ばれた人間は、振り向く。
振り向いた瞬間、逃げ道がなくなる」
その言葉が妙に重かった。
「だから俺は、お前が“逃げずに振り向ける人間”になるまで呼ばない」
「……昨日よりハードル上がってません?」
「気のせいだよ」
気のせいじゃない。
そのとき、課長がフロアに入ってきた。
「おい、お前ら。昨日のフロント企業、朝から動きがあるぞ」
先輩は軽く会釈した。
「課長、どんな動きです?」
「幹部の一人が行方不明だ。
家族から“帰ってこない”と通報が入った」
空気が一瞬で変わった。
「……先輩、それって」
「三つ目の“ほころび”の続きだね」
先輩は淡々と答えた。
「後輩、行くよ」
「は、はい!」
署を出て車に乗り込む。
エンジン音がやけに大きく聞こえる。
「先輩、行方不明って……」
「まだ“事件”とは言えない。
でも、昨日の兆しと繋がる可能性が高い」
「繋がる……」
「後輩。マル暴の仕事は“点”を追うんじゃない。
“線”を見るんだ」
先輩はシートベルトを締めながら続けた。
「昨日の外部の男。
急発進した車。
裏口から逃げた幹部。
そして今朝の行方不明」
「全部、線で繋がる……?」
「そう。まだ細い線だけどね」
車が動き出す。
朝の街はいつも通りなのに、胸の奥だけがざわついている。
「後輩」
「はい」
「今日、お前は“見ているだけ”でいい」
「えっ、俺、何も……?」
「何もするな。
昨日より静かに、昨日よりよく見る。
それだけで十分だ」
先輩は前を向いたまま言った。
「お前はまだ名前を呼ばれてない。
つまり、まだ“巻き込む段階じゃない”ということだ」
「……守られてるってことですか?」
「そうだよ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
「でも後輩」
「はい」
「守られてるうちは、名前は呼ばない」
「やっぱり!」
先輩は少しだけ笑ったように見えた。
「今日、何かが見える。
でも、お前はまだ“見る側”でいい」
車は静かにフロント企業の前へ向かっていく。
――朝は静かに来る。
でも、その静けさの裏には、必ず何かが潜んでいる。
俺はシートベルトを握りしめながら思った。
(名前を呼ばれる日は……まだ遠い。でも、近づいてる気もする)
そんな曖昧な期待と不安を抱えたまま、
俺たちは現場へ向かった。




