第5話「ほころび」
スーツの男が急発進してから三十分。
建物の前は、嘘みたいに静かになった。
「先輩……あれ、結局なんだったんですかね」
「まだ分からないよ」
先輩は腕時計をちらりと見て、メモを取る。
「後輩。マル暴の仕事は“分からない”を積み上げる仕事だ」
「積み上げる……?」
「そう。“分からない”が三つ揃ったら、“分かる”に変わる」
そんな数学みたいな話あるのか。
「昨日の静けさ。
今日の外部の人間。
さっきの急発進」
先輩は指を三本立てた。
「これで“二つ”だ」
「二つ……?」
「昨日の静けさは、まだ“兆し”じゃない。
今日の二つが、初めて“ほころび”になる」
ほころび。
その言葉が妙に怖かった。
「先輩、じゃあ三つ目が来たら……」
「事件になる可能性が高い」
先輩は淡々と答えた。
「後輩」
「はい」
「お前、さっきから視線が泳いでる」
「えっ、そんなにですか?」
「泳ぎすぎて溺れてるよ」
そんなにか。
「落ち着け。
怖いのは分かるけど、怖いときほど“静かに見る”んだ」
「……先輩は怖くないんですか?」
「怖いよ」
即答だった。
「怖いから、静かにする。
怖いから、声を落とす。
怖いから、名前を呼ばない」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
「後輩。名前を呼ぶということは、
その人を“自分の恐怖の中に引き込む”ことでもある」
「……引き込む?」
「名前を呼んだ瞬間、相手は振り向く。
振り向いたら、同じ危険を共有することになる」
先輩は窓の外を見たまま続けた。
「だから俺は、お前が“振り向いても大丈夫な人間”になるまで呼ばない」
そんな理由があったのか。
「先輩……」
「ん?」
「俺、いつか振り向けるようになりますかね」
「なるよ」
先輩は迷いなく言った。
「ただし、今日じゃない」
「今日じゃないんですか!」
「今日のお前は、振り向いたら転ぶ」
ひどい。
そのとき、建物の裏手から人影が現れた。
「先輩、あれ……」
「後輩、声を落とせ」
出てきたのは、昨日も見た幹部のひとり。
だが、様子がおかしい。
歩き方が早い。
肩が上がっている。
何度も後ろを振り返っている。
「……三つ目だ」
「三つ目……!」
「後輩、よく見ろ。
あれは“逃げる人間”の歩き方だ」
幹部は裏路地に消えていった。
「先輩、追いますか!?」
「追わない」
「またですか!」
「追うのは刑事ドラマの中だけだよ」
先輩はメモを閉じた。
「後輩」
「はい」
「今日で“兆し”は揃った。
明日、何かが起きる」
その言葉に、背中が冷たくなる。
「でも安心しろ」
「安心……?」
「お前はまだ名前を呼ばれてない。
つまり、まだ“巻き込む段階じゃない”ということだ」
先輩は静かに笑った。
「だから今日は帰れ。
明日に備えて、よく寝ろ」
俺は缶コーヒーを握りしめながら思った。
(名前を呼ばれないのって……守られてるってことなのか?)
少しだけ、胸が熱くなった。
でも同時に――
明日が怖くて仕方なかった。




