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先輩、コロシです!ver.4 マル暴編  作者: 双鶴


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第5話「ほころび」

 スーツの男が急発進してから三十分。

 建物の前は、嘘みたいに静かになった。


「先輩……あれ、結局なんだったんですかね」

「まだ分からないよ」


 先輩は腕時計をちらりと見て、メモを取る。


「後輩。マル暴の仕事は“分からない”を積み上げる仕事だ」

「積み上げる……?」

「そう。“分からない”が三つ揃ったら、“分かる”に変わる」


 そんな数学みたいな話あるのか。


「昨日の静けさ。

 今日の外部の人間。

 さっきの急発進」


 先輩は指を三本立てた。


「これで“二つ”だ」

「二つ……?」

「昨日の静けさは、まだ“兆し”じゃない。

 今日の二つが、初めて“ほころび”になる」


 ほころび。

 その言葉が妙に怖かった。


「先輩、じゃあ三つ目が来たら……」

「事件になる可能性が高い」


 先輩は淡々と答えた。


「後輩」

「はい」

「お前、さっきから視線が泳いでる」

「えっ、そんなにですか?」

「泳ぎすぎて溺れてるよ」


 そんなにか。


「落ち着け。

 怖いのは分かるけど、怖いときほど“静かに見る”んだ」


「……先輩は怖くないんですか?」

「怖いよ」


 即答だった。


「怖いから、静かにする。

 怖いから、声を落とす。

 怖いから、名前を呼ばない」


 その言葉に、胸がぎゅっとなった。


「後輩。名前を呼ぶということは、

 その人を“自分の恐怖の中に引き込む”ことでもある」


「……引き込む?」

「名前を呼んだ瞬間、相手は振り向く。

 振り向いたら、同じ危険を共有することになる」


 先輩は窓の外を見たまま続けた。


「だから俺は、お前が“振り向いても大丈夫な人間”になるまで呼ばない」


 そんな理由があったのか。


「先輩……」

「ん?」

「俺、いつか振り向けるようになりますかね」

「なるよ」


 先輩は迷いなく言った。


「ただし、今日じゃない」

「今日じゃないんですか!」

「今日のお前は、振り向いたら転ぶ」


 ひどい。


 そのとき、建物の裏手から人影が現れた。


「先輩、あれ……」

「後輩、声を落とせ」


 出てきたのは、昨日も見た幹部のひとり。

 だが、様子がおかしい。


 歩き方が早い。

 肩が上がっている。

 何度も後ろを振り返っている。


「……三つ目だ」

「三つ目……!」


「後輩、よく見ろ。

 あれは“逃げる人間”の歩き方だ」


 幹部は裏路地に消えていった。


「先輩、追いますか!?」

「追わない」


「またですか!」

「追うのは刑事ドラマの中だけだよ」


 先輩はメモを閉じた。


「後輩」

「はい」

「今日で“兆し”は揃った。

 明日、何かが起きる」


 その言葉に、背中が冷たくなる。


「でも安心しろ」

「安心……?」

「お前はまだ名前を呼ばれてない。

 つまり、まだ“巻き込む段階じゃない”ということだ」


 先輩は静かに笑った。


「だから今日は帰れ。

 明日に備えて、よく寝ろ」


 俺は缶コーヒーを握りしめながら思った。


(名前を呼ばれないのって……守られてるってことなのか?)


 少しだけ、胸が熱くなった。


 でも同時に――

 明日が怖くて仕方なかった。


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