第3話「兆しの正体」
黒い車が止まってから、空気が変わった。
昨日までの張り込みは、ただの退屈だった。
でも今日は違う。
車のドアが開く音ひとつで、背中に汗がにじむ。
「後輩、双眼鏡」
「は、はい!」
俺が渡すと、先輩は静かに覗き込んだ。
その横顔は、いつもの無表情なのに、どこか鋭い。
「……やっぱりだ」
「何が“やっぱり”なんですか?」
「昨日までいなかった顔がいる。
それも、あの組の“外側”の人間だ」
「外側……?」
「暴力団は、内部の人間だけで動くときは静かだ。
外部の人間が混ざるときは、何かが起きる前兆だよ」
先輩は淡々と説明する。
俺はただ、心臓の音がうるさくて仕方ない。
「後輩」
「はい」
「深呼吸」
「……バレてました?」
「バレバレだよ。お前、緊張すると肩が上がる」
そんなところまで見てるのか、この人は。
「でも先輩、もしあれが“兆し”なら……どうするんですか?」
「どうもしないよ」
「えっ」
「観察するだけだ。動くのは、もっと後」
先輩は双眼鏡を下ろし、俺のほうを向いた。
「後輩。マル暴の仕事は“止める”ことじゃない。
“起きる前に気づく”ことだ」
「……止めないんですか?」
「止めるのは、もっと大きな力の仕事だよ。
俺たちは、その前の“気配”を拾う」
その言葉が、妙に胸に残った。
「後輩」
「はい」
「昨日言ったこと、覚えてる?」
「“名前を呼ぶのはまだ早い”ってやつですか?」
「それ」
先輩は少しだけ視線を落とした。
「名前を呼ぶということは、その人を“現場に巻き込む”ということだ。
名前を呼んだ瞬間、俺とお前は同じ場所に立つことになる」
「同じ場所……?」
「責任も、危険も、覚悟も。
全部、同じになる」
先輩の声は静かだったが、重かった。
「だから俺は、お前が“見えるようになる”までは名前を呼ばない。
呼んだら最後、もう守れなくなるから」
守れなくなる――
その言葉が、妙に胸に刺さった。
「……先輩」
「ん?」
「俺、そんなに頼りないですか?」
「頼りないよ」
「即答!」
「でも、伸びしろはある」
先輩は窓の外を見ながら続けた。
「後輩。お前はまだ“表”しか見ていない。
人も、事件も、組織も。
マル暴は“裏”を見る仕事だ」
「裏……」
「裏が見えるようになったら、名前を呼ぶよ」
その瞬間、建物の扉が勢いよく開いた。
「先輩、誰か出てきました!」
「後輩、声を落とせ」
出てきたのは、昨日見た幹部と、
今日初めて見るスーツの男。
「……動くな」
「え?」
「まだ“兆し”だ。
でも、兆しは兆しでも――悪いほうの兆しだ」
先輩はシートに深く座り直し、
まるで嵐の前の静けさみたいに息を整えた。
「後輩」
「はい」
「今日、何かが始まる」
俺はごくりと唾を飲んだ。
マル暴の世界が、
いよいよ本気を出してきた。




