第2話「名前はまだ早い」
張り込み二日目。
昨日と同じ車、同じ缶コーヒー、同じ建物。
「先輩、今日も“何も起こらない”任務ですか?」
「うん。何も起こらないのが一番いい」
先輩は相変わらず淡々としている。
俺は相変わらず落ち着かない。
「先輩、あの……ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なんで俺のこと、名前で呼ばないんです?」
先輩の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
でもすぐに、またメモを取り始める。
「後輩だからだよ」
「いや、それはそうなんですけど……名前、ありますよね?」
「あるだろうね」
「“あるだろうね”って!」
先輩は窓の外を見たまま、静かに言った。
「後輩。マル暴は、人の名前を軽々しく呼ぶ場所じゃない」
「……どういう意味ですか?」
「名前を呼ぶということは、相手の素性を晒すということだ。
この仕事では、名前を知られた瞬間に“弱み”になることがある」
先輩の声はいつもより低かった。
「だから俺は、必要になるまで名前を呼ばない。
呼ばないほうが、お前を守れる」
「守る……?」
「そう。お前はまだ、ここがどういう場所か分かってない」
先輩は缶コーヒーを指で軽く叩いた。
「それに、名前を呼ぶのは“信頼”の証だ。
信頼は、時間をかけて積み上げるものだよ」
「じゃあ、いつか呼んでくれるんですか?」
「どうだろうね」
「どうだろうねって!」
先輩は少しだけ笑ったように見えた。
いや、気のせいかもしれない。
「後輩」
「はい」
「名前を呼ばれたいなら、まずは“静かに観察する”ことを覚えなさい」
「またそれですか……」
「またそれだよ。昨日より静かに、昨日よりよく見る。
それができるようになったら、名前を呼ぶかもしれない」
「……先輩、もしかして俺の名前、覚えてないんじゃ……」
「覚えてるよ」
「ほんとですか?」
「たぶんね」
「たぶん!?」
そのとき、建物の前に黒い車が止まった。
「先輩、あれ……」
「後輩、声を落とせ」
先輩の目が鋭くなる。
空気が一瞬で変わった。
「……兆しだ」
昨日と同じ場所なのに、
昨日とはまったく違う緊張が走る。
「後輩」
「はい」
「今日の任務は“何も起こらないこと”だったけど……
どうやら、そうはいかないみたいだ」
先輩は静かにシートベルトを締めた。
「名前を呼ぶのは、まだ早い。
でも――お前には、ちゃんと見ていてほしい」
俺は息を飲んだ。
マル暴の世界が、ようやく動き始めた。




