第10話「名前の重さ」
裏路地で倒れていた幹部は、意識はあるものの何も話さなかった。
怯えた目だけが、すべてを物語っていた。
俺と先輩は、再びフロント企業の前に戻ってきた。
「先輩……今日で、全部繋がるんですか?」
「繋がるよ。
でも、全部“見える”わけじゃない」
「見えない部分があるんですか?」
「あるよ。
暴力団の世界は、見えない部分のほうが多い」
先輩は双眼鏡を覗きながら続けた。
「後輩。
お前は今日、“踏み込む覚悟”を持ってここに来た。
それは分かってる」
胸が熱くなる。
「でも――」
先輩の声が低くなる。
「覚悟だけで踏み込むと、死ぬ」
背中が冷たくなる。
「だから俺は、お前を名前で呼ばない。
名前を呼んだ瞬間、お前は俺と同じ場所に立つ。
同じ危険を背負うことになる」
「……先輩は、俺を守ってるんですか?」
「守ってるよ」
即答だった。
「でも後輩。
守られてるうちは、名前は呼ばない」
その言葉が、妙に悔しかった。
「先輩……俺、いつか名前を呼ばれたいです」
「知ってるよ」
先輩は双眼鏡を下ろし、俺のほうを向いた。
「後輩。
名前というのは、“覚悟の証”だ。
呼ぶ側にも、呼ばれる側にも覚悟がいる」
「覚悟……」
「お前は今日、覚悟を持ってここに来た。
でも、まだ足りない」
「足りないんですか……」
「足りないよ。
でも――」
先輩は少しだけ笑った。
「昨日よりは、ずっといい」
そのとき、建物の裏口が開いた。
昨日の“橋渡し役”の男が出てきた。
だが、昨日とは違う。
顔色が悪く、手が震えている。
「先輩、あれ……」
「後輩、声を落とせ」
男は周囲を見回し、裏路地へ消えていく。
「……終わったな」
「終わった……?」
「内部で“処理”が終わったということだ。
だから橋渡し役が外に出てきた」
背中が冷たくなる。
「後輩。
今日で“線”は全部繋がった。
でも、俺たちが踏み込む段階じゃない」
「じゃあ、俺たちは……」
「“見届ける”だけだ」
先輩は静かに息を吐いた。
「後輩」
「はい」
「今日、お前はよく見た。
昨日より静かだったし、昨日より冷静だった。
そして、昨日より覚悟があった」
胸が熱くなる。
「でも、まだ名前は呼ばない」
「やっぱり!」
「まだ早い。
名前を呼ぶのは、“同じ場所に立てる”ようになってからだ」
先輩は車のエンジンをかけた。
「後輩。
今日、お前は一歩前に進んだ。
それで十分だよ」
「……先輩」
「名前は、いつか呼ぶ。
でも、それは“お前が自分の足で立てるようになった日”だ」
車は静かに動き出した。
街はいつも通りだった。
でも、胸の奥だけが熱かった。
(名前を呼ばれる日は……必ず来る)
そう思えたのは、
先輩の言葉が、初めて“優しさ”として聞こえたからだった。




