第4話:検索不能の迷宮と、不幸なマルチ商法
1. ノイズまみれの朝
「……おい。聞いてるのか、ゴミ」
朝の食卓。
トーストを齧りながらスマホを凝視していた俺、雨宮湊は、正面から飛んできた鋭利な言葉のナイフに顔を上げた。
「あ、あぁ。聞いてるよ。……ええと、今日の卵焼きの焼き加減が黄金比だって話だろ?」
「違うわよ。あんた、顔色最悪だって言ったの」
義妹の凛が、眉をひそめて俺を見ている。
心配しているわけではない。
腐った生ゴミが視界に入った時の、「処理が面倒だな」という類の眼差しだ。
「目の下のクマ、酷いことになってるわよ。どうせまた夜更かしして、怪しげな海外のアニメフォーラムでも漁ってたんでしょ」
「……まあ、そんなところだ」
俺は苦笑いで誤魔化し、冷めたコーヒーを流し込んだ。
嘘ではない。
確かに俺は昨夜、一睡もしていない。
ただし、見ていたのはアニメフォーラムではなく、脳内の『叡智の図書館』だ。
あの日。
星嶺学園での一件以来、俺の平穏は音を立てて崩れ去っていた。
マリアが解析した『女王蜂』のデータ。
そこに含まれていた微細な霊的波長は、かつて俺が壊滅させたはずの狂信者集団――『新世界の礎』のものと酷似していた。
奴らは5年前、両親と叔父夫婦を「儀式の生贄」として殺害した。
俺はその報復として、当時15歳だった俺の全能力を使い、組織の中枢を物理的・社会的・霊的に消滅させたはずだった。
だが、奴らは生きていた。
あるいは、俺が潰したのはトカゲの尻尾に過ぎなかったのか。
俺は毎晩、脳が焼き切れるほどの頭痛に耐えながら『図書館』にアクセスし、奴らの痕跡を探していた。
だが、結果は散々だ。
「ごちそうさま。……今日は遅くなるから、夕飯いらない」
凛が食器を片付け、鞄を持って立ち上がる。
俺はハッとして顔を上げた。
「遅くなる? どこ行くんだ?」
「予備校の体験授業。沙織も行くって言うから」
「……そうか。気をつけろよ。変な路地には入るな。知らない人に声かけられても無視しろ。あと、防犯ブザー持ったか?」
「うざっ」
凛は心底嫌そうな顔をして、玄関へ向かった。
バタン、とドアが閉まる音。
俺は深いため息をつき、テーブルに突っ伏した。
「……過保護な兄貴だと思われてるうちは、まだ平和か」
ズキン。
こめかみに鈍痛が走る。
『叡智の図書館』の使いすぎだ。脳の血管が悲鳴を上げている。
だが、休んでいる暇はない。
奴らが再び動き出したのなら、凛に手が伸びる前に、今度こそ根絶やしにしなければならない。
俺は残りのトーストを口に押し込み、ふらつく足で立ち上がった。
今日もまた、外れくじを引きに行く一日が始まる。
2. 検索地獄と情報の砂漠
秋葉原。メイドカフェ『ヴァルハラ』の地下、武器庫。
「……で、結果はどうでしたの?」
カウンターの中で優雅にティーカップを拭きながら、マリアが尋ねてきた。
俺はカウンターに突っ伏し、死人のような声で答えた。
「全滅だ。……ヒットしない」
俺はここ数日、『確定事象』を使って「教団の手がかりがありそうな怪しい事件」に片っ端から首を突っ込んでいた。
その結果がこれだ。
ケース1:港区の『秘密結社サークル』
結果:ただの中二病大学生の飲み会だった。俺が潜入したせいで場が凍りつき、気まずくなって撤退。
ケース2:埼玉の『呪いの廃病院』
結果:地元のヤンキーの溜まり場。俺が「亡霊」のフリをして脅かしたら、彼らがパニックになり、警察に通報されて俺も補導されかけた。
ケース3:ネットで噂の『人間消失アパート』
結果:夜逃げ屋の事務所。堂島にタレこんで摘発してもらったが、教団とは無関係。
「……私の『叡智の図書館』も、万能じゃない」
俺は頭を抱えた。
知りたい情報が脳内にダウンロードされる。それは事実だ。
だが、それは「Google検索」と同じで、適切な検索ワードがなければゴミ情報の海に溺れるだけなのだ。
【教団】【復活】【儀式】
こんなワードで検索すれば、世界中のカルト宗教、オカルトサークル、さらにはファンタジー小説の設定資料までが脳内に雪崩れ込んでくる。
その情報量はペタバイト級。
人間の脳で処理できるわけがない。結果、激しい頭痛と鼻血に襲われ、気絶するのがオチだ。
「奴らは……検索避け(SEO対策)をしている」
俺は呻いた。
「重要な情報をデジタル化せず、口伝やアナログな媒体でのみ管理している。あるいは、俺の能力を知っていて、意図的に『ノイズ』となるダミー情報を大量にばら撒いている可能性もある」
「なるほど。……流石は『ウィザード』を追い詰めた組織ですわね」
マリアが新しい紅茶を俺の前に置いた。
香りが良い。アールグレイだ。
「ですが、ご主人様。……アナログな情報なら、アナログな手段で拾うのが一番ですわよ」
「アナログ?」
「ええ。……私の情報網に、少し気になる噂が引っかかりましたの」
マリアがタブレットを取り出し、一枚のチラシ画像を表示した。
派手な極彩色の背景に、金色の文字でデカデカと書かれている。
『あなたの魂、輝いていますか?』
『奇跡のヒーラー、天導ヒカルによる覚醒セミナー!』
『参加費無料! 今なら「幸せの聖水」プレゼント!』
「……なんだこれ。昭和の詐欺か?」
「ところが、このセミナー……最近、若者の間で急速に広まっていますの。特に、生活に不満を持つ学生や、就活に失敗した若者がターゲットです」
マリアが画面をスワイプする。
そこには、セミナー会場の写真があった。
熱狂する若者たち。そして、ステージの中央で両手を広げる、白装束の胡散臭い男。
「問題は、この『天導ヒカル』という男の経歴です。……存在しませんの」
「存在しない?」
「ええ。戸籍も、過去のデータも一切なし。まるで数ヶ月前に突然湧いて出たようですわ。そして……彼のセミナーに参加した者たちの一部が、その後『記憶の欠落』や『性格の変容』を訴えています」
俺の目が光った。
性格の変容。記憶の欠落。
アンブロシアによる憑依の初期症状に似ている。
「……場所は?」
「新宿の雑居ビル。今日の午後から大規模なセミナーがあるそうですわ」
俺は紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「行ってくる。……どうせまた外れかもしれないが、確認しないわけにはいかない」
「お気をつけて。……堂島刑事には?」
「確証が掴めたら呼ぶ。あのおっさんを巻き込んで、また『ただの詐欺でした』じゃ申し訳ないからな」
俺はパーカーのフードを被り、地下室を出た。
これが「当たり」であってほしいような、ほしくないような、複雑な気分を抱えて。
3. 輝きの輪とカオスな勧誘
新宿、歌舞伎町外れの雑居ビル。
その最上階にある貸しホールは、異様な熱気に包まれていた。
「キセキ! キセキ! テンドウ!」
数百人の若者が、トランス状態で叫んでいる。
会場には甘ったるいお香の匂いが充満していた。
俺、雨宮湊は、最後列のパイプ椅子に座り、冷ややかな目でステージを見つめていた。
(……この匂い。成分はジャスミン、サンダルウッド……そして微量のアヘン系合成麻薬か)
俺の鼻と『図書館』が成分を分析する。
違法スレスレの脱法ドラッグをお香に混ぜて、催眠効果を高めているようだ。
だが、アンブロシア特有の「霊的瘴気」は感じられない。
やはり、ただの悪質なカルトか?
「さあ! 迷える子羊たちよ! 私の手を取りなさい!」
ステージ上で、教祖の天導ヒカル(推定30代、金髪ロン毛、やたら歯が白い)が叫んだ。
彼は信者の一人をステージに上げ、その額に手をかざす。
「ハッ!!」
気合と共に、信者がビクンと震え、崩れ落ちた。
「ああ! 体が軽い! 悩みが消えた!」
信者が泣きながら叫ぶ。
会場が割れんばかりの拍手に包まれる。
(……サクラだな。演技が下手すぎる)
俺はあくびを噛み殺した。
典型的な催眠商法だ。
『確定事象』を使って会場に入り込んだ(風で飛んできた招待状が俺の顔面に張り付き、受付のお姉さんが「あら、運命ですね!」と通してくれた)が、どうやら時間の無駄だったらしい。
帰ろうか。
そう思って席を立とうとした時だった。
「そこの君! そう、君だ!」
スポットライトが、俺を直撃した。
天導ヒカルが、ビシッと俺を指差している。
会場中の視線が俺に突き刺さる。
「君からは……強い『迷い』のオーラを感じる! 魂が黒く濁っているぞ!」
大きなお世話だ。俺の魂は萌えとカオスで極彩色だ。
だが、ここで逃げれば怪しまれる。
俺はおどおどした演技で、ステージに近づいた。
「ぼ、僕ですか……?」
「そうだ。上がってきなさい。君の魂を浄化してあげよう」
俺はステージに上げられた。
天導ヒカルが、ねっとりとした笑顔で近づいてくる。
間近で見ると、瞳孔が少し開いているのが分かる。こいつも自分のドラッグでキマってるのか。
「さあ、力を抜いて。……君の悩みは何だね?」
マイクを向けられる。
俺は少し考えて、正直に答えた。
「……探し物が見つからないんです。検索してもノイズばかりで」
「フッ、なるほど! 現代社会の情報の渦に溺れているのだな! だが安心したまえ。私の『聖なる波動』を受ければ、真実の道が見えるだろう!」
天導が大げさなポーズで手を振り上げた。
ここからがショータイムだ。
彼は俺の額に手をかざし、何やら念を送るフリをする。
その隙に、袖口からスタンガンの一種(静電気発生装置)を取り出そうとしているのが『視え』た。
(……なるほど。微弱な電流でショックを与えて、『気』の力だと思わせるトリックか)
くだらない。
俺はため息をついた。
こんな茶番に付き合っている暇はない。
「……『確定事象』」
俺は小声で呟いた。
願うのは、彼のトリックの「不発」と「自爆」。
『静電気は、アース(接地)へ流れるのが道理だ』
天導が俺の額に触れ、装置のスイッチを入れた瞬間。
俺の靴底のゴム(絶縁体)が本来の仕事を果たし、さらに天導自身の衣装(化学繊維の塊)が、乾燥した空気と相まって莫大な静電気を帯電していたことが災いした。
バチィッ!!
「アッーーー!!」
天導が悲鳴を上げて飛び上がった。
俺に流れるはずだった電流が逆流し、彼自身を直撃したのだ。
金髪のロン毛が爆発したように逆立つ。
「きょ、教祖様!?」
信者たちがざわめく。
「ち、違う! これは……この少年の『業』が強すぎて、私の聖なる力が弾かれたのだ!」
天導は必死に言い訳をした。
さすが詐欺師、口だけは達者だ。
彼は顔を引きつらせながら、俺を睨みつけた。
「……少年よ。君のカルマは深い。別室で……『特別研修』が必要だな」
特別研修。
どうやら、ここからが本番らしい。
俺は怯えるフリをして頷いた。
「は、はい……お願いします」
4. 失敗作と暴走する悪意
連れて行かれたのは、ステージ裏の控え室だった。
中には屈強なスタッフ(という名の用心棒)が数人。
そして、部屋の隅にはダンボールが積まれている。
「……さて、クソガキ」
部屋に入った瞬間、天導の態度が豹変した。
「俺のショーに泥を塗りやがって。……金で解決するか、体で払うか選べ」
典型的な恐喝だ。
だが、俺の視線は彼ではなく、部屋の隅のダンボールに向いていた。
箱の隙間から、紫色の小瓶が見える。
『幸せの聖水』の在庫か。
「……おい、聞いてんのか!」
用心棒の一人が俺の胸倉を掴む。
「その『水』」
俺は冷静に指差した。
「成分は? ……ただの水じゃないだろ」
「あぁ? ……ハッ、さすが業が深いガキだ。鼻が利くじゃねぇか」
天導がニヤリと笑い、小瓶を手に取った。
「これはな、ある『組織』から安く仕入れた失敗作(廃棄品)だ。本来の効果は出ねぇが、飲むとトベるし、言いなりになる。最高の商材だよ」
ビンゴだ。
『組織』。
『失敗作』。
やはり、ここは教団の末端――あるいは、教団が切り捨てたゴミ捨て場だったか。
「どこの組織だ?」
俺の問いに、天導の目が鋭くなる。
「……テメェ、何モンだ? 同業者か? それともサツか?」
天導が目配せすると、用心棒たちがナイフや警棒を取り出した。
狭い室内。4対1。
一般人なら絶体絶命だ。
「……サツじゃないよ。ただの通りすがりのオタクだ」
俺はスマホを取り出し、画面をタップした。
送信先は、堂島鋼太郎。
メッセージ:『新宿区歌舞伎町2-XX、雑居ビル7F。詐欺および麻薬取締法違反の現行犯。突入どうぞ』
「なっ……!?」
天導が俺のスマホを奪おうとする。
だが、遅い。
「やってしまえ!!」
天導の号令で、用心棒たちが襲いかかってくる。
俺はため息をついた。
今日は頭痛が酷いんだ。派手なのは勘弁してくれよ。
「『確定事象』」
因果の歯車を回す。
願いはシンプルに。
『全員、自滅しろ』
先頭の男が踏み込んだ瞬間、床に落ちていたアロマキャンドルを踏み抜いた。
「ギャッ!?」
男が体勢を崩し、後ろの男に激突。
その男が持っていた警棒がすっぽ抜け、蛍光灯を直撃。
パリーン!!
ガラスの破片が降り注ぎ、男たちは「目が! 目がぁ!」とパニックになる。
残った最後の一人がナイフを振り回すが、なぜかズボンのベルトが切れ、ズボンが足首まで落下。
「うわっ!?」
そのまま顔から床に倒れ込み、自ら壁に頭を打ち付けて気絶した。
所要時間、5秒。
ピタゴラスイッチ完了。
「ば、バカな……何が起きた!?」
天導が腰を抜かして後ずさる。
「運が悪かったな、教祖様」
俺は彼に歩み寄る。
「さあ、吐いてもらおうか。その薬、どこから仕入れた?」
俺の目が、メガネの奥で冷たく光る。
かつて『怪異殺し』と呼ばれた殺気の一部を、少しだけ漏らす。
「ヒッ……!」
天導が恐怖に顔を歪める。
彼は追い詰められ、震える手で懐から一本のアンプルを取り出した。
それは紫色の聖水ではなく――真っ黒な液体だった。
「く、来るな! ……これを使えば、俺は無敵になるんだ!」
「……おい、よせ」
俺の制止も聞かず、天導はそのアンプルを首筋に突き刺した。
プシューッ!
「グガァァァァァッ!!」
天導の体が膨張する。
筋肉が裂け、骨が軋む音。
彼の目が白目を剥き、口から泡を吹く。
そして、背中から――触手のような黒い影が噴き出した。
(……失敗作じゃない!? 濃縮還元された『汚染源』か!)
俺は舌打ちした。
こいつ、自分が何を売りつけられたかも知らずに、最後の切り札だと思って使いやがったな。
「コロ……ス……!」
暴走した天導(怪物化)が、俺に向かって拳を振り下ろす。
机が紙屑のように粉砕される。
狭い部屋だ。逃げ場がない。
「チッ……『確定事象』!」
俺は叫んだ。
『天井よ、落ちろ!』
ドゴォォォン!!
ビルの老朽化と、上の階に設置されていた巨大な業務用冷蔵庫の重みが、奇跡的なバランス崩壊を起こした。
天井が抜け、数トンの冷蔵庫が天導の真上に落下する。
「グベラッ!?」
天導は冷蔵庫の下敷きになり、カエルのように潰れた――かと思いきや、その異常な筋力で冷蔵庫を持ち上げようとしている。
しぶとい。
その時。
ドアが蹴破られた。
「警察だァァァ!! 動くなァァァ!!」
堂島鋼太郎率いる組対の精鋭たちが、雪崩れ込んでくる。
彼らは異形の怪物(天導)を見て、一瞬怯んだが、すぐにプロの顔に戻った。
「な、なんだあの化け物は!? ……ええい、構わん! 撃てェェ!!」
一斉射撃。
ゴム弾やテーザー銃が天導に降り注ぐ。
さすがに冷蔵庫と警察の集中砲火には勝てず、天導は断末魔を上げて沈黙した。
4. 徒労の果てに
数時間後。
現場検証が行われるビルの下で、俺は堂島から缶コーヒーを受け取っていた。
「……またお前か」
堂島が呆れたように言う。
「お前が行くところ、必ず何かが起きるな。疫病神か?」
「失敬な。善良な市民からの通報ですよ」
俺はコーヒーを開け、苦い液体を喉に流し込む。
「まあ、おかげで大規模な詐欺グループと、違法薬物のルートを一つ潰せた。感謝状もんではある」
堂島がタバコに火をつける。
「だがな、湊。……あの教祖の男。取り調べじゃ『何も知らない』の一点張りだ。薬も『ネットの掲示板で拾った』とかほざいてやがる」
「……そうでしょうね」
俺は予想通りの結果にため息をついた。
トカゲの尻尾切り。
あるいは、本当にただの捨て駒だったのか。
あの黒いアンプルも、入手経路は不明のままだ。
「結局、何も掴めなかったか……」
俺は空を見上げた。
新宿のネオンが滲んで見える。
頭痛がする。
能力を使いすぎた代償と、徒労感。
「おい、顔色が悪いぞ。帰って寝ろ」
堂島が俺の背中を叩く。
「妹さんが心配するぞ」
「……そうですね」
俺はよろめきながら歩き出した。
結局、振り出しに戻っただけだ。
いや、敵が予想以上に深く潜っていることだけは分かった。
それはつまり、俺の手が届かない場所で、確実に何かが進行しているということだ。
「……クソッ」
俺は小さく悪態をついた。
平穏な日常を取り戻すための戦いは、泥沼の様相を呈していた。
幕間:侵食する日常
その夜。雨宮家。
凛はソファに座り、テレビのニュースを見ていた。
『新宿でカルト教団摘発。代表の男が暴れ、警官隊と乱闘に――』
画面の隅に、見覚えのあるパーカー姿の男が一瞬映り込んだ気がした。
野次馬に混じって、よろよろと歩き去る後ろ姿。
兄に似ている。
「……まさかね」
凛は首を振った。
あの兄が、あんな危険な場所にいるはずがない。
彼は今頃、秋葉原のメイドカフェでデレデレしているか、部屋でフィギュアに話しかけているはずだ。
「ただいまー」
玄関のドアが開き、湊が帰ってきた。
その顔色は死人のように白く、足取りも重い。
「……おかえり。あんた、大丈夫? 顔死んでるけど」
「ああ……ちょっと、人混みに酔ってな……」
湊は力なく笑い、ふらふらと自分の部屋へ向かった。
その背中を見て、凛はふと違和感を覚えた。
彼のパーカーの裾。
そこに、微かに白い粉末のようなものが付着していた。
(石膏? それとも……?)
「ねえ、お兄ちゃん」
凛が声をかける。
「……あんた、本当に秋葉原に行ってたの?」
湊の足が止まる。
彼は振り返らず、背中だけで答えた。
「……ああ。メイドさんと話してきたよ」
嘘だ。
凛の直感が告げている。
兄は嘘をついている。
そして、その嘘は――「浮気」とか「借金」とか、そんな生易しいものではない気がした。
「……ふーん。そう」
凛はそれ以上追求しなかった。
兄が部屋に入り、ドアが閉まる。
リビングに残された凛は、スマホを取り出した。
画面には、親友の沙織とのメッセージ履歴。
沙織は元気になったが、あの一件以来、どこか様子がおかしい。
時折、ぼんやりと虚空を見つめていたり、知らない歌を口ずさんだりしている。
『♪ラ~ブ&マジック……』
凛の背筋に、冷たいものが走る。
日常の中に、見えないヒビが入っていく。
そのヒビの向こうから、何かがこちらを覗いているような気がして――凛は強く目を閉じた。
「……早く寝よ」
彼女はテレビを消し、静寂の中に逃げ込んだ。
だが、その静寂こそが、最も恐ろしいものの足音であることを、彼女はまだ知らない。




