第3話:月下の校舎と確率の英雄
1. 逢魔が時の侵入者
深夜23時。
静寂に包まれた私立星嶺学園。
月明かりが校舎を蒼白く照らし出し、昼間の活気とは無縁の、墓標のような不気味さを漂わせている。
その正門前の植え込みに、俺――雨宮湊は身を潜めていた。
心臓の鼓動が早い。運動不足のせいではない。これから踏み込む場所が、地獄の釜の蓋の上だからだ。
「……マリアさん、聞こえるか?」
『感度良好ですわ、ご主人様。……そちらの映像もクリアに見えています』
耳元のインカムから、マリアの落ち着いた声が響く。
俺が装着しているのは、マリアの店(武器庫)で調達したスマートグラスと、防刃素材が織り込まれた特注の黒パーカー。
見た目はただの不審者だが、装備だけは超一流だ。
「校内の熱源反応はどうなってる?」
『……異常あり、ですわ。校舎全体に微弱な生体反応が散らばっています。まるで徘徊する亡霊のように。そして……』
マリアの声が少し低くなる。
『最上階、視聴覚室付近に多数の反応が集結しています。その数、およそ30。体温が通常より2度ほど高い。……完全に『回って』いますわね』
俺は舌打ちをした。
30人の生徒が、深夜の学校に集まって『儀式』を行っている。
アンブロシアによる集団憑依実験。
最悪のケースだ。
「……行くぞ。プランB開始だ」
俺は植え込みから飛び出し、校舎の壁面に手をかけた。
通常なら、ここで赤外線センサーが作動し、警備会社に通報が行くはずだ。
だが、今の俺には『確定事象』がある。
「俺の侵入ルート上の監視カメラ、および警備センサーを全て無効化しろ」
指を鳴らす。
パチン、という音と共に、校舎の配電盤の隙間に、どこからともなく一匹のヤモリが迷い込んだ。
ヤモリは運悪く高圧端子に触れ――バヂヂッ!!
火花が散り、警備システムのブレーカーだけが物理的に落ちる。
「……南無」
俺はヤモリに黙祷を捧げつつ、裏口の電子ロックが解除された扉を開けた。
校舎の中は、異様な空気に満ちていた。
昼間の澱んだ空気が、夜になって濃縮され、粘りつくような瘴気となって廊下を漂っている。
床を歩くたびに、靴底が何かに張り付くような不快な感触がする。
『……湊、聞こえるか?』
今度はレオンの声が割り込んできた。
『堂島と共に現場へ急行している。到着まであと15分だ。それまで絶対に無理をするなよ』
「無理だ。15分も待ってたら、生徒たちの精神が焼き切れる」
俺は足音を殺して廊下を進む。
目指すは最上階、視聴覚室。
だが、そこへの道は、平坦ではなかった。
2. 物理法則 vs 超常現象
「……グルルッ」
1階の廊下の角から、唸り声が聞こえた。
俺はとっさにロッカーの陰に隠れる。
現れたのは、ジャージ姿の男子生徒だった。陸上部員だろうか、引き締まった体躯をしている。
だが、その歩き方は奇妙だった。関節がカクカクと不自然に動き、首が90度近く傾いている。
瞳は白く濁り、口からは紫色の泡を垂らしている。
『見回り役』だ。
「……マリアさん、あれは?」
『憑依深度・レベル2。身体能力がリミッター解除されていますわ。正面からやり合えば、ご主人様の首なんてポッキリです』
「怖いこと言うなよ」
男子生徒が鼻をヒクつかせた。
嗅覚が強化されているのか? 奴の顔が、俺の隠れているロッカーの方へ向く。
「……ガァッ!!」
発見された。
男子生徒が獣のような速度で突進してくる。
速い。ボルト選手も裸足で逃げ出す加速だ。
俺の動体視力では捉えきれない。
だが、俺には戦う意思はない。
俺はただの「教育実習生の阿久津」であり、ここは神聖な学び舎だ。
廊下を走ってはいけない。それは校則で決まっている。
「……『確定事象』」
俺はロッカーの陰で、小さく呟いた。
願うのは、彼の「停止」だけ。
『校則違反者(彼)に、適切な指導(物理的制裁)を与えろ』
因果が歪む。
男子生徒が俺に飛びかかろうと床を強く踏み込んだ、その瞬間。
キュッ!!
彼の履いていたランニングシューズの靴底が、経年劣化で突然剥がれた。
さらに、彼が踏み込んだ床板のワックスが、なぜかそこだけ異常に厚塗りされており、摩擦係数が限りなくゼロになっていた。
「グベッ!?」
男子生徒の足が空転する。
勢いがついたまま体勢を崩した彼は、まるで漫画のように宙を舞い――
廊下の壁に設置されていた消火器ボックスに、頭から突っ込んだ。
ガシャーン!! プシューッ!!
消火剤が噴出し、男子生徒は真っ白になりながら気絶した。
見事な自爆だ。
「……廊下を走るからだ」
俺は白衣(阿久津用)の襟を正し、気絶した生徒をそっと横切った。
傍から見ればただの事故。
だが、その確率は天文学的数字だ。
階段を上がり、2階へ。
ここは特別教室が並ぶエリアだ。
美術室の前を通りかかった時、俺の『叡智の図書館』が警告を発した。
《警告:霊的反応、至近距離》
「ひっ、ヒヒッ……見つけたァ……」
美術室の扉がひとりでに開き、中から不気味な笑い声が響いた。
中を覗くと、数人の女子生徒が円陣を組み、中央の石膏像に向かって祈りを捧げていた。
すると、石膏像がカタカタと震え出し、ゆっくりと宙に浮き上がったではないか。
ポルターガイスト現象。
アンブロシアの力で、下級霊が物体に憑依したのだ。
「オマエモ……ソザイニ……ナルカァ?」
石膏像が首を回し、俺を見た。
空中に浮いたまま、質量兵器として突っ込んでくる構えだ。
「やれやれ。美術品は大切に扱わないとな」
俺はため息をつき、メガネの位置を直した。
物理攻撃には、物理法則で対抗する。
『万有引力の法則に従え』
俺が指をパチンと鳴らすと同時に、美術室の天井を走っていた配管が「偶然」破裂した。
バシュッ!!
高圧の水蒸気が噴き出し、石膏像を直撃する。
熱と水分。石膏にとってもっとも忌むべき天敵だ。
「アッ、アツッ!? ドロドロニナルゥゥゥ!!」
石膏像は水分を含んで急激に重量を増し、さらに熱で脆くなった。
浮力を維持できずに落下。
床に激突し、粉々に砕け散った。
「キャアアアッ! アグリッパ様がぁぁ!」
祈っていた女子生徒たちがパニックになり、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「……石膏は湿気に弱い。常識だろ」
俺は誰にともなく解説し、先を急いだ。
3階へ上がる階段で、またもや行く手を阻まれた。
今度は科学部員らしき白衣の集団だ。
彼らは手に怪しげなフラスコを持ち、紫色の液体を振り回している。
「侵入者ダ……溶カセ……!」
彼らがフラスコを投げてくる。
中身は強酸か、あるいは呪毒か。
まともに食らえばただでは済まない。
「マリアさん、あれ分析できるか?」
『映像解析中……硫酸と呪術触媒の混合液ですわ。浴びれば骨まで溶けます』
「理科室の備品管理どうなってんだよ!」
俺は毒づきながら、手すりを滑り降りて回避しようとした――フリをして、『確定事象』を発動する。
『化学反応には、正しい手順が必要だ』
投げられたフラスコが空中で互いに衝突する――なんて単純な奇跡は起こさない。
俺が願ったのは、もっと根本的な「手違い」だ。
彼らがフラスコを投げようと腕を振りかぶった瞬間。
天井の蛍光灯がチカチカと明滅し、その不規則な点滅パターン(光過敏性発作を誘発する周波数)が彼らの視神経を直撃した。
「ウグッ!?」
彼らは一瞬眩暈を起こし、手元が狂った。
フラスコは彼らの手からすっぽ抜け――自分たちの足元へ落下。
ガチャン! ジュワアアアア!!
「ギャアアアア! 靴が! 俺の限定スニーカーがぁぁ!」
幸い、中身は靴底を溶かす程度に希釈されていたようだが、彼らはパニックに陥り、足をバタつかせて自滅した。
俺はその隙に、煙を上げる彼らの横を駆け抜けた。
「薬品の扱いは慎重にな。……あと、廊下で実験するな」
俺は阿久津先生としての説教(脳内)を残し、ついに最上階へとたどり着いた。
3. 狂宴の果てに
視聴覚室の前。
重厚な防音扉の向こうから、奇妙な詠唱のような声と、うめき声が漏れ聞こえてくる。
俺はスマートグラスのサーモグラフィーモードを起動した。
扉の向こうに、無数の赤い人型。
そして、その中心に――ひときわ輝く、どす黒い紫色の熱源がある。
「……『女王蜂』か」
俺は『叡智の図書館』を一瞬だけ開き、情報を検索した。
検索ワード:【憑依体】【中枢】【解除コード】……。
ズキン、と脳が軋む。
相変わらずの激痛だ。だが、今は耐えるしかない。
《解除不可能。物理的ショックによる強制剥離、もしくは宿主の意識による拒絶のみ有効》
「……物理で殴るか、説得するか。どっちも俺の苦手分野だな」
俺は苦笑し、深呼吸をした。
ここまで来るのに能力を連発しすぎた。頭痛が酷い。
だが、ここで引くわけにはいかない。中に沙織がいる。そして、彼女を救わなければ、次は凛が狙われる。
「マリアさん、レオンたちの到着は?」
『あと5分。……ですが、中の霊的濃度が限界突破寸前です。5分後には、彼らは人間ではなくなりますわ』
「上等だ。5分間、俺が『授業』をして時間を稼ぐ」
俺は阿久津の仮面を深く被り直した。
そして、扉を蹴り開けた。
「――はい、補習の時間だぞお前ら!!」
俺は大声で叫び、発煙筒を室内に放り込んだ。
プシューッ!!
白煙が充満し、視界を奪う。
「なっ、何だ!?」
「敵襲!?」
詠唱が止まり、生徒たちがパニックになる。
俺はその隙に、部屋の中心へと走った。
そこにいたのは――予想通り、凛の親友、沙織だった。
彼女は教壇の上に立ち、虚ろな目で宙を見つめていた。
その背中には、巨大な蜘蛛のような黒い影がしがみついている。
あれが本体か。実体化した悪意の塊。
「大野さん! 目を覚ませ! 補習だぞ!」
「……あ、くつ、センセ……?」
沙織が俺を見る。
その瞳が一瞬、正気に戻りかけ――すぐに濁った色に塗りつぶされた。
「……センセイ、モ……ホシイ、ノ……?」
沙織の口から、男とも女ともつかない重低音が響く。
背中の蜘蛛が鎌脚を広げ、威嚇するように軋む音を立てた。
周囲の生徒たちが、操り人形のように一斉に俺の方を向く。
30対1。
しかも相手は全員、リミッター解除された超人だ。
「……ジャマ、スルナァ……!!」
沙織が手を振るうと、生徒たちが襲いかかってきた。
男子生徒のタックル。女子生徒の引っ掻き攻撃。
人間離れした膂力だ。まともに食らえば骨など粉々だろう。
「うおっ!?」
俺は必死に回避する。
オタクとしての引きこもり生活で鈍った体にはキツすぎる。
だが、彼らを傷つけるわけにはいかない。
「マリアさん! 制圧用のガジェット!」
『はいな! バックパックの右ポケットですわ!』
俺は走りながらポケットを探り、小さなボールのようなものを取り出した。
閃光音響手榴弾――の、非殺傷改造版。強力な光と音で平衡感覚を奪うやつだ。
「目と耳を塞げ!」
俺は床に叩きつけた。
カッッ!! キィィィン!!
強烈な閃光と高周波音。
強化された聴覚を持つ憑依体たちには効果てきめんだ。生徒たちが頭を抱えて蹲る。
「今のうちに……!」
俺は沙織に駆け寄った。
だが、彼女の背後の「蜘蛛」は、視覚ではなく霊的知覚で動いている。
スタングレネードが効かない。
蜘蛛が鎌のような脚を振り上げるのが見えた。
物理攻撃!? 霊体のくせに実体干渉できるのかよ!
俺は咄嗟にパイプ椅子を盾にした。
ガギィン!
椅子が飴細工のように切り裂かれる。
「ヒッ……!」
俺は尻餅をつき、後ずさる。
沙織がゆっくりと歩み寄ってくる。
その顔には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
「イイ、コエ……モット、ナケ……」
万事休すか。
俺が『確定事象』で天井を落とそうかと覚悟を決めた、その時だった。
「――そこまでよ!」
凛とした声が、スモークを切り裂いた。
4. 妹、戦場に立つ
入り口に立っていたのは、制服姿の雨宮凛だった。
手には、竹刀袋から取り出した木刀が握られている。
肩で息をしている。ここまで走ってきたのだろう。
「……凛!?」
「なんであんたがいるのよ、阿久津!」
凛は俺を睨みつけ、そして変わり果てた親友の姿を見て息を呑んだ。
「沙織……嘘でしょ、あんた何やってんのよ」
「リン……ちゃん……ニゲ、テ……」
沙織が苦しげに呟く。
彼女の自我が、親友の登場によって必死に抵抗している。
だが、背後の蜘蛛がそれを許さない。
「ウルサイ……! オマエガ、オマエガホシカッタ……!!」
蜘蛛が咆哮する。
ターゲットが俺から凛へ変更された。
一番栄養価の高い「エサ」を見つけた捕食者の反応だ。
「ギシャアアアアッ!!」
沙織が獣のような速度で凛に飛びかかる。
その指先が、鋭利な爪のように変形している。
「くっ!」
凛は剣道有段者の腕前で木刀を構える。
一撃目の爪を木刀で受け止めるが、相手は人外だ。
バキィッ!!
衝撃で木刀がへし折られる。
「きゃっ!?」
凛が体勢を崩し、尻餅をつく。
そこへ、蜘蛛の爪が容赦なく振り下ろされる。
死の軌道だ。
「凛ッ!!」
俺は叫んだ。
間に合わない。走っても届かない。
今の俺ができること。
それは、確率という名の神を脅迫することだけだ。
「『確定事象』!!」
頭蓋が焼き切れるような熱量。
俺は願う。
敵を倒すことでも、俺が強くなることでもない。
ただ一つ。
『凛を傷つける全ての攻撃を、物理的に逸らせ!!』
過程は問わない。どんな理不尽でもいい。
凛を守れ!!
その瞬間。
世界がバグった。
ガゴンッ!!
天井の配管が破裂した。本日二度目の配管事故だ。
高圧のスプリンクラーが一斉に作動し、豪雨のような水が室内に降り注ぐ。
水圧に驚いた沙織の動きが一瞬止まる。
さらに、床に転がっていた発煙筒の空き缶が、絶妙な角度で転がり、沙織の踏み込んだ足元へ滑り込んだ。
マリオカートのバナナの皮も真っ青なタイミングだ。
「ギャッ!?」
沙織が足を滑らせる。
爪の軌道がズレる。
凛の頬を数ミリ掠め、背後の黒板を切り裂いた。
それだけではない。
教室のスピーカーから、突如として大音量の音楽が流れ出した。
曲は――『魔法少女マジカル☆ルル』のオープニングテーマ。
俺のスマホが誤作動を起こし、Bluetoothで校内放送にジャックインしたのだ(俺の社会的死を代償にした最強の撹乱だ)。
『♪ラ~ブ&マジック! 奇跡はここにある~☆』
陽気な萌えアニソンが爆音で流れる中、水浸しになり、足を滑らせて転ぶ憑依体たち。
シリアスな殺し合いの場が、一瞬にしてカオスなコント会場と化した。
憑依体たちも、あまりの状況の変化に思考(?)が追いついていない。
だが、この隙が命運を分けた。
ドゴォォォォン!!
視聴覚室の壁が、外側から爆破された。
粉塵と共に飛び込んできたのは、二つの影。
「待たせたな、湊!!」
「突入!!」
スタイリッシュに二丁拳銃を構えるレオン。
そして、ショットガン(非殺傷ゴム弾装填)を構えるスキンヘッドの堂島。
「な、何!? 警察!?」
凛が呆然とする中、堂島が吼える。
「未成年の深夜徘徊および集団暴行の現行犯だ!! おまけに校内での不法レイブパーティたぁ、いい度胸じゃねぇか!!」
堂島のショットガンが火を噴く。
ゴム弾の衝撃で、沙織の背後の蜘蛛が吹き飛ぶ。
レオンが素早く駆け寄り、沙織の額に特殊な護符(マリア特製)を貼り付けた。
「悪霊退散!」
「ギャアアアアアッ!!」
蜘蛛の影が霧散し、沙織が崩れ落ちる。
それを凛が慌てて抱き留めた。
「沙織! しっかりして!」
「……う、ん……凛、ちゃん……?」
沙織の瞳から濁りが消えていた。
それを見て、俺はへたりと座り込んだ。
全身ずぶ濡れ。頭痛で視界が霞む。
そして、大音量で流れる『マジカル☆ルル』のサビ。
「……終わった、か」
俺はフードを目深に被り直し、そっとその場を離れようとした。
だが。
「……阿久津先生?」
凛の声が、俺を呼び止めた。
彼女は沙織を抱きしめたまま、怪訝そうな顔で俺を見ていた。
「先生、ですよね? なんでここに……それに、その動き……」
やばい。
さっきの回避行動や、タイミング良すぎるスプリンクラー。
勘の鋭い彼女なら、何か気づいたかもしれない。
俺が「兄」だとバレるわけにはいかない。
俺はとっさに、阿久津の声色を作った。
「あ、あはは……僕はただ、忘れ物を取りに来たらこんなことになって……いやぁ、腰が抜けちゃって……」
「……」
凛の目が細められる。疑念の光だ。
その時、堂島が俺の背中をバシッと叩いた。
「おう、一般市民! 無事だったか! お前が通報してくれたおかげで助かったぞ!」
「ぐえっ」
「通報?」凛が首を傾げる。
「ああ。この先生が匿名で通報してくれてな。さらにスプリンクラーまで作動させて犯人を撹乱してくれた。……なかなか骨のある教師じゃねぇか」
堂島がニカっと笑い、俺にウインク(サングラス越しだが分かる)した。
彼は俺の正体を知らないが、空気を読んで「勇敢な一般人」に仕立て上げてくれたらしい。
ナイスだ、スキンヘッド。
「そ、そうです! 偶然です! 奇跡です! ヒヒッ!」
俺は必死にピエロを演じた。
凛はしばらく俺をジッと見つめ、そしてふいっと視線を逸らした。
「……ふん。まぐれね。でも……」
彼女は小さく呟いた。
「……ありがと。おかげで沙織が助かったわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭痛は少しだけ和らいだ気がした。
幕間:祝杯と誤解のミルフィーユ
事件から数日後の夜。
雨宮家のリビング。
「カンパーイ!!」
レオンの明るい声が響き渡る。
テーブルには寿司のデリバリー(特上)と、高級ビール。
なぜか我が家で、事件解決の祝勝会が開かれていた。
「なんで……あんたたちがここにいるのよ」
凛は腕を組み、不機嫌オーラ全開でソファに座っていた。
その横には、縮こまっている俺。
そして対面には、満面の笑みのレオンと、渋い顔でお茶を啜る堂島。
「いやぁ、妹さん! 君の兄貴は最高だ! 彼の『通訳』としてのスキルと、あの現場での『幸運』がなければ、事件は解決しなかった!」
レオンが俺の肩をバンバン叩く。
そう、今の設定は以下の通りだ。
俺(湊)は、レオンの**「通訳バイト」**として雇われていた。
事件当日、たまたま現場(六本木や学校)に居合わせ、巻き込まれた。
持ち前の**「悪運」**だけで生き残り、結果的に警察の役に立った。
「……はぁ。通訳ねぇ」
凛は呆れたように俺を見た。
「英語だけは無駄にできるもんね。で、あの教育実習生の阿久津先生は?」
「ああ、彼か!」
レオンが口を開こうとした瞬間、俺はテーブルの下で彼の足を全力で蹴った。
『余計なこと言うな!』と目で合図する。
阿久津=俺 という事実は絶対に隠し通さなければならない。
「い、痛っ! ……ああ、彼はショックで田舎に帰ったよ。『東京は怖いところだ』って言い残してな」
「……ふーん。まあ、あんな陰キャじゃ無理もないわね」
凛は納得したように頷き、寿司のウニに手を伸ばした。
「でも、不思議ね」
凛がポツリと言う。
「あの夜……視聴覚室で。私が襲われそうになった時、誰かが守ってくれた気がしたの」
俺の心臓が跳ねる。
「スプリンクラーの水とか、爆音のアニソンとか……めちゃくちゃだったけど。でも、あのタイミングは完璧だった。まるで、誰かが私のことを見ていて、助けてくれたみたいな……」
凛の瞳が、少しだけ潤んで見えた。
彼女は心の奥底で、誰かの存在を感じ取っている。
それが、目の前にいる「ダメな兄」だとは露知らず。
「……ま、気のせいか。そんなヒーローみたいな人、いるわけないし」
凛は自嘲気味に笑い、俺を見た。
「あんたも、運だけで生きて帰ってこれて良かったわね。……もし死んでたら、この家のローン、私が払わなきゃいけなくなるところだったわ」
「……お気遣いどうも」
俺は苦笑し、ビールを煽った。
憎まれ口の中に隠された、不器用な安堵。
それを聞き取れただけで、十分だ。
「おい湊、次はこっちのトロ食っていいか?」
「堂島さん、それ俺の!」
「ガハハ! 命の恩人への報酬だと思え!」
騒がしい夜が更けていく。
俺の平穏な(?)日常は、こうして守られた。
今のところは、だが。
俺のスマホが震えた。
マリアからのメッセージ。
『お疲れ様でした、ご主人様。……ところで、例の「女王蜂」の解析結果が出ましたわ』
『どうやら今回の事件、ただの実験ではありませんの』
『背後に、もっと大きな組織……かつて貴方が壊滅させたはずの「教団」の影が見えます』
俺は画面を伏せ、ため息をついた。
どうやら、アニメの再放送をゆっくり楽しめる日は、当分来そうにない。




