少女病の此岸より
——「僕」が失われるまで、あと何日だろうか。
僕は一人、独白する。
白いベッドの上。カーテンで仕切られた僅かなプライベートスペース。
外は日中。窓から差す太陽光が眩しくて、思わず目を細めた。
「……散歩日和だ」
小さく口にした。その声はか細くて弱々しい高音。僕は目を伏せた。
外に出れれば、散歩にちょうどいい天気だったのに。
今となっては叶わぬ夢だ。
ベッドサイドの引き出しから櫛を取り出す。
母親がどこかで買ってきたらしい、木製の櫛。なんの木でできているかはわからないが、持ち手に赤い椿の絵が彫られている。
それを手に取り、そっと髪を梳いた。
長く伸びた、色素の薄い髪。体が徐々に変わっていくのと合わせるように長く伸びていった髪だ。
看護師には「似合っているよ」などと言われた。正直煩わしくて仕方ないが、自分では髪を切れないので、退院するまではこの髪を維持するしかない。——いや、その頃には切る気をなくしているかもしれないけど。
櫛で髪を梳いて、手鏡を出し、軽く毛先を整える。
その鏡に写った端正な顔立ちは、まさしく少女のそれで。
僕は再び目を伏せた。
昼食のアナウンスが耳朶を打つ。僕はたちあがって、伸びた髪を後ろで無造作に結んだ。
以前から持っていたダボダボのTシャツに、この前差し入れてもらったショートパンツ。下着のサイズも女物……というかジュニア向けのものしか使えないほど、小柄になってしまった。
着替えでパステルカラー主体の可愛らしいデザインを見るたびに少し嫌気が差す。母のセンスを疑いたくなるが、僕のいまのサイズだともうこういうものしか売っていないのだという。
……身長が一五〇センチを切ったのは、つい先週のことである。
諦めて昼食を取りに行った。
ベッドに戻り、引き出しをテーブル代わりにして昼食を食べる。
病院食とはいえ意外と美味しい。療養食ならまた違ったのだろうが、普通の食事は結構美味しい。それが、この入院生活での唯一の救いだ。
もっとも、ジャンクフードを食べたい欲求も日々強まるばかりなのだが。
ハンバーガーやステーキ。いや、ピザも良いな。
食べているのにお腹が空いてきた。それがなんとなく虚しくなって、さっさと米を腹に収め——しかし、手が止まった。
……おなかいっぱい。
満腹中枢が、胃の空き容量不足をお知らせする。まだ半分くらいしか食べてないのに。
毎日毎食のことではない。腹がすごく空いているときならよく食べられる。けれど——日に日に食べられる量が少なくなっているのも事実だ。
少しの逡巡。できれば食べきりたいが……仕方ないか。
デザートとして添えられていたオレンジをゆっくり咀嚼して「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
午後の食事が終わると、また静寂が戻る。
その時間で、僕はいまの身体に少しだけ触れる。
細い足。骨盤は少し開いた形になり、僅かにくびれた腰に対して尻は若干大きい。
薄くて小さな体に、しかし胸部には僅かな膨らみ。
端正な顔立ちに『以前』の面影は薄く、長く伸びた薄めの茶髪はサラサラしていて。
……下腹にあったはずのものは、もはや豆粒大に小さくなっていた。
「んっ……ぅ」
下着越しに触れたそれに、僕の身体は反応する。その小さな突起物はもう本来の役割を忘れているはずなのに。
あるいはもうすでに、女性のそれが作られ始めているのだろうか。
真相はわからないが、僕はただその小柄な身体を、その小さな手で慰めた。
「はぁ……はぁ…………ふぅ……」
息を吐いた僕。僅かに濡れた下着。気持ち悪さと尿意に、慌ててトイレに向かう。
一応向かうのは男子トイレだが、最近は立ちションがうまくできなくなったので個室に入らざるを得ない。
それにしても、射精がほぼできなくなった代わりに、達すると尿意が湧き上がってくるのはなんなんだろう。医者に聞く気にはならないけど。
トイレから出て自室に向かうと、医者が待ち構えていた。
「やあ。最近調子はどう?」
「……ぼちぼちです」
「また背が低くなったね」
「そうですか」
「うん。前よりも女の子らしくなってる」
「…………そう、ですか」
仕草とか、意識してるわけじゃないんだけどな。
自然に内股になってる自分に気づいて、目を逸らす。
「少女病、だいぶ進行してるみたいだね」
「……」
言われて、僕は再び目を伏せた。
「見ればわかるよ。……もう君に残された『男』の部分は僅かだ」
「…………そう、ですよね」
控えめに笑う僕に、医者は目線を合わせるように屈んで。
「女の子になって、気分はどうだい?」
そう笑いかけられ、僕は言葉をつまらせた。
「ああ、別に煽ってるわけじゃないよ。ただ、君の気持ちを聞きたいだけ」
「わ、わかって、ます」
「ゆっくりでいいよ」
そう言われ、僕は緩慢に呼吸し。
「……僕はまだ、女の子じゃないです」
言葉を漏らした。
「別に、プライドがどうこうというわけじゃないです。女の子になること自体には、そこまで抵抗感はないっていうか。
……でも僕はまだ、女になりきれません。中途半端なんです。なにもかもが」
心も身体も、女のそれになりそうでならない。どちらから見ても異常で、中途半端な存在。
きっとどこにでもいるかもしれないそんな存在に、しかし自分がなったことに、虚しさを感じていた。
「けど……だけど」
僕はぽつりと口にした。
「女の子になるのも……なりきってしまうことも、こわいです」
医者は目を見開いた。
「それは、どうしてだい?」
「いままでの自分が、死んでしまうような気がして」
「別に、君は死ぬわけじゃないんだ。ただ、姿形が変わってしまうだけで」
「先生は……自分の慣れ親しんだ姿が徐々に別人のそれへと変貌していく哀しみが、わかりますか」
僕はきっと、泣きそうな声をしていたんだと思う。
「……自分の身体が……髪が、胸が、心が、内臓が、性器が……日に日に、別のものへと変わっていく。まるで代謝するかのように、『以前の僕』という生物は『新たな僕』に置き換えられて排泄されていく。いっそすぐに消えてしまえれば楽なのに……奴は、じわじわと僕を締め上げていく」
「…………」
「きっと、僕は此岸の縁にしがみつく残滓のようなものになっているのかもしれない。奴は笑って、僕に成り代わろうとする。……それが恐怖でなくては、一体何なのでしょうか」
問いかける僕に、医者は少し目を伏せて。
「すまないね。……私にはわかりかねるよ」
逃げるように告げ——「けれど」となにかを出した。
「これが解決法になるかもしれない」
見せられたのは、一枚の紙。
「それ、は」
「少女病に治療法はないのは知っているだろう。……いや、ないわけではないが、いまの君の身体で耐えきれるものではない」
「……そう、ですよね」
「そこで……もういっそ、完全に少女化させてしまったほうがいいのかもしれないと考えた」
「…………え」
なにを言われたのか、一瞬理解が及ばなかった。しかし、次の一言で僕は察した。
「これは、少女病の進行を早める薬だ」
頭が真っ白になった。
——少女病の、進行を、早める。
そんなことができるのか。その疑問に答えるように、医者は原理などを説明する。しかし、言葉は僕の頭に入ってくることはなく、耳から耳へ通り抜けていく。
深呼吸。いや、若干過呼吸気味になる僕を、医者はどこか憐れみを持って見ているようだった。
「同意書、ここに置いておきます。明日までに、考えておいてください」
医者がこの場を去った後、僕は布団に閉じこもっていた。
少女病の進行を早める。それは即ち、僕が「僕」としていられる時間が減るということ。
母さんを始めとした関係者への手回しは済んでいて、あとは僕の意思で決定していいらしい。
ああ、どうしようか。
深呼吸して、布団の中で丸くなった。
*
——この夢は、何度目だろう。
波の音が聞こえた。白い砂が足元をくすぐる。
「ねぇ。聞いてるんでしょ?」
少女の声に、僕は顔を上げた。
ジャンパースカートを着た少女が、目の前に立っていた。
白いブラウスに、紺のジャンパースカート。等間隔にひだの並んだそれは、一目で中学校の制服だとわかる。
そして、すでに直感的に理解していた。
「怖いの? わたしになることが」
彼女は僕のこれからの姿だ。
僕は——白いワイシャツに黒いズボンの僕は、怯えるような声音で口にした。
「ああ、怖いよ。『僕』が、消えてなくなることが」
「そっか。そりゃあそうか。死ぬのはきっと、誰にとっても辛いことだからね」
波の音が、なおも聞こえる。
ざざあ、ざざあ。押しては返す波に、僕はただ黙るばかりで。
「——もう、諦めちゃおうよ」
少女が耳元で囁いた。
「……っ」
ビクリと震える僕に、彼女は告げる。
「だって、辛いんでしょ? 中途半端な身体でいることが。中途半端な心でいることが」
「それ、は」
「手、離しちゃおうよ。この世にしがみつくの、やめちゃおうよ。……きっと、そのほうが楽だよ?」
なにも言えなかった。見透かされたようだった。
「でも——」
少しでも無駄なあがきをしようとした。
しかし——その温かい手は、もはや冷たく冷えてしまった僕の手を握って告げるのだ。
「もう、諦めて——わたしに、あなたを譲ってよ」
白波の立つ音がした。
わかっていたのだ。いつか来る終わりを。
いつか来る終わりが。見えていた終わりが——いま訪れたというだけのことだと。
僕は目を細めた。押し寄せた波が引いて。
「……そうだね。あは。……ありがとう」
もう、時間らしい。
*
外を見た。忌々しいほどの青が僕の目を灼く。
引き出しの上に、書類。新薬投与の同意書。それとボールペン。印鑑は要らないらしい。
震える手でペンを手に取り、一つ呼吸して——それから、名前を書いた。
「あは、あはは」
ガタガタのサイン。乾いた笑い声。その後、息を吐いた。
「……ハッピーバースデー・トゥー・ユー……」
寝転がりながら、小さく声を発した。
「ハッピーバースデー、トゥー・ユー……」
かすれた声。白い天井。ぼやけた景色。
頬を水滴が伝った。——もう二度と目覚めないことを知っていたから。
次目覚めたら——きっとそれは僕じゃなくて。
「ハッピー、バースデー……トゥー、『わたし』」
そのか細い歌声は、きっとカーテンに遮られて、誰に聞こえるでもないだろう。
「……ハッピー……バースデー……トゥ・ユー……」
歌い終わると、「僕」はゆっくりまぶたを下ろした。
Fin.
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