第18話 消えゆく光は、傲慢の代償
「はぁっ、はぁっ……ここ、は……どこ?」
暗闇の中、先も見えず、方向もわからず、ただひたすらに伸びていく道を、必死で駆け抜ける。
景色もなければ、人の気配もない。時間という概念すら、本当に存在しているのか疑わしいこの世界で──まるで俺ひとりだけが、当てもなく、彷徨い続けているようだった。
「はぁっ、はぁっ……」
……なぜ、こんなにも焦っている?
……なぜ、こんなにも焦っている?
……なぜ、こんなにも不安に駆られている?
……思い出せない。
けれど、今の俺にわかるのは一つだけ。
……どうしても辿り着かなくちゃいけない。
一秒でも早く、一歩でも先に、他の誰よりも、俺が──そこへ行かなければならない!
……どこへ向かってる?
……思い出せない。
「はぁ……もう少しだ、今度こそ……今度こそ俺は……」
……今度こそ?じゃあ、前は……何をしていた?
……思い出せない。
……何もかもが、思い出せないんだ。
でも、何も見えず、何も思い出せないこの闇の中にあってさえ……得体の知れない恐怖が、後悔から来るような焦燥が、絶え間なく俺を急き立てていた。
まるで、ほんの少しでも気を抜けば、たった一歩でもためらえば、取り返しのつかない『何か』が、手の届かない場所から音もなく遠ざかっていくようで──それが俺にとって何なのかは分からない、けれど、きっと、とても大切なものに違いない。
「……あっ?!」
突然、走っていた地面が、唐突に消えた。
反応する間もなく、俺の体はそのまま無力に落下しようとしていた……
だがその瞬間、上から素早く伸びてきた一本の腕が、ギリギリの距離で、俺を半空中に引き止めた。
「……くっ、た、助かった……」
足元の、まるで奈落のように底知れぬ闇を見下ろしながら、思わず息を呑むだ。
だが……頭上から差し伸べられた助けに、まだ感謝の言葉をかける間もなく。
その真っ白で細い腕から、何か濡れたものが静かに滴り落ちてくるのに気づいた。
まるで、悲しみに濡れた二筋の涙のように……それはひんやりと、迷う俺の頬に落ちる。
……ポタ、ポタ。
時計のようなリズムで響くその音に、無意識のうちに、頬に感じた冷たい感触へと手を伸ばした。
そして……指先に触れたのは、鉄の匂いを纏った、暗い紅の液体だった。
「……これって……血、血!?」
その色にゾッとしながら、慌てて上を見上げるけれど、ほとんど光のないこの空間では、助けてくれた人の顔はまるで見えなかった。
「なあ、そこのキミ……大丈夫か?どこか怪我を──」
「どうして、助けに来てくれなかったの?」
「……え?」
こちらの言葉などまるで聞こえていないかのように、上にいるぼんやりとした人影は、感情のこもっていない問いを、ただ一方的に投げかけてきた。
「助け……?キミは……誰だ?名前を教えてくれ──」
「どうして……私から大切なものを奪ったの……?」
「大切なもの……奪った?それって何?ごめん……本当に、何も思い出せないんだ」
「どうして……死んだのが、あんたじゃなかったの?」
「俺は……」
「ねえ……おじさん……どうして」
「……うっ──」
耳元で囁くように響いたその声が、まるで心臓を殴りつけるかのように強烈な衝撃となって、俺の中に叩き込まれた。
その瞬間、何かを思い出したかのように、俺はとっさに声のする方へと顔を向けた。
「アン……」
だが──
目の前にあったのは、呼びかけようとしたその名を、喉の奥へ押し戻すほどに無惨な……血に染まり、虚ろな瞳に覆われた少女の顔だった。
「あっ……あ……」
息が詰まるほど口を開け、目を限界まで見開いたその瞬間……腕にかかっていた引っ張る力が、ふっと消えた——。
少女は、無情にもその手を離した。
支えを失った俺の体は……空っぽの虚無へと、まるで石のように、なすすべもなく真っ暗な闇の底へとまっすぐ落ちていった。
……止まらない。どこまでも──堕ちていく。
「……アンフィール!!!」
──ドンッ!
「っつ……! いったぁ……!」
叫びながら飛び起きた俺の額は、勢いそのままに、壁へ激突した。
あまりの痛みに、頭を抱えて床を転げ回る。そして、朝の眩しい日差しが、暗闇に慣れきっていた俺の目に容赦なく差し込んできた。
「……そうか、もう朝か……」
あいつを追っていた時は……確か、まだ真夜中だったはずなのに。
「そ、そうだ……!あいつは……一体どこへ……うぐっ」
ようやく記憶の断片が繋がり始めた私は、慌てて立ち上がろうとした。
だが、まるでバラバラになりかけのガラクタのように、身体はまったく言うことを聞かなかった。
……が。どうにか顔を上げたそのとき……水たまりに映った自分の姿に、ようやく気づいた。
──ヒーローの降臨は、すでに強制的に解除されていた。
「……やっぱり、ダメだったか……なんで……なんであの時、止めたんだよ、レイナ……!」
誰も答えてはくれない。
込み上げる悔しさと、ぶつけようのない怒りが爆発し……俺は拳を握りしめて、地面に叩きつけた。
雨上がりの冷たい水たまりが、容赦なく熱を持った顔へと跳ね返る。
動かない身体よりも、張り裂けそうなこの胸の方が、よっぽど耐えがたい。
覚えているのは、あいつにとどめを刺そうとした、あの瞬間まで。
そのあとは……気がつけば、どこか人気のない屋上で泥のように眠っていた。
だが、降臨が強制解除されたときの、あの全身を包む無力感だけは、今も身体に纏わりつくように残っていた。
まるで、夢から目覚めたはずなのに、まだ夢の中に囚われているかのように——。
……分かってる。レイナがそうしたのには、きっとそれなりの理由があるはずだ。
もしかすると──いつも冷静な彼女が、俺が気づけなかった何かを察したのかもしれない。
あるいは──もう遅すぎて、偽善にまみれた俺への、無言の報復だったのかもしれない。
……けど、どちらにせよ。
なんて、みじめなんだ、俺は。
なんて……無力なんだ、俺は。
準備は万全だと思っていた。勝算はあるはずだと、信じていた。
もう二度と誰も帰ってくることのない、復讐という名の帰らぬ道を、迷いなく踏み出したはずだった。
──なのに。結果は……あと一歩のところで、あの憎らしい殺人鬼を取り逃がしてしまい……それどころか、あいつに施しのように、この無様な命を残されてしまった。
……今となっては、追跡に使っていたエーテルの痕跡も、雨に流されて跡形もなく消えてしまった。
あいつが自ら再び目の前に現れない限り、二度とその手がかりにすら辿り着くことはできない。
「ははっ……ははは……結局、俺は一体何をしてたんだよ……」
ごめんな、アンフィール……こんな、何の役にも立たない情けないオッサンに出会ってしまって、大事な端末を奪われただけじゃなく…… 最後、お前の仇も取ってやれなかった……
無力な自分に呆れたのか、あるいは現実の残酷さに、とうとう心が折れたのか。
「……すべては、終わったんだ……」
深くため息を吐きながら、冷えきった地面に力なく崩れ落ちた。
雨上がりの水たまりが、容赦なく身体から体温を奪っていく。
でも心の奥底では、もうどうでもよかった。
まるで、このどうしようもない人生からも、逃げたくてたまらないかのように……腕を目元に乗せて、もう何も見たくないと、その視界を自ら闇で閉ざした。
──その時。
『……いつまで独り言の儀式やってんのよ、そろそろ余をここから出してもらえるかしら?』
「は……」
まさか、こんな状況になってまで……アンフィールの声が幻聴として聞こえてくるなんてな。
まるで、本当に耳元で囁かれたかのように……あまりにも自然すぎて、思わず、短く息を吐いた。
『ちょっとぉ!?聞こえないフリやめてくれる?最近の庶民ってほんっと、耳まで脳みそと一緒に腐ってんのかしら?おーいおーい、そこの左右の穴って空気を入れる飾りか何か?』
──この妙にイラつく耳鳴り、何なんだよ……。