第17話 埋められた罪は、黒と白の罰 後半
「……戻れ!」
最悪の事態……二本の光刃を同時に失うという結末を避けるため、私は覚悟を決めると、制御を失いかけた『シグルーン』を、無理やり引き戻した。
防御を失った次……視界を真っ白に染め上げる閃光が、私のすぐ脇を掠めていった。
そして、背後の地面に深々と突き刺さった瞬間、追い打ちをかけるように吹き荒れた爆風が、容赦なく私の体を吹き飛ばした──。
間一髪で致命傷を逃れた私は、転がりながら、ようやく地面に手をつき、ずぶ濡れの体を起こした。
口いっぱいに流れ込んだ雨水が喉を焼き、激しい咳が止まらない。
精巧な鎧も、純白のマントも、今は泥まみれで……まるで翼を失った鳥が、穢れた沼に真っ逆さまに墜落したようだった。
震えと痛みが、身体の隅々まで突き刺さる。
湧き上がる屈辱に、周囲に降り注ぐ雨音さえも、まるで私を嘲笑う囁きのように聞こえた。
「……スヴァファ……シグルーン……」
常に高みから、無様にもがく弱者たちを見下ろしていた私が。
今やその惨めな立場に堕ち、怪物でも見るかのような目で、ゆっくりと近づいてくる影を、恐怖に震えながら見上げている。
まるで、死神が歩み寄る足音を、ただ待つしかないかのように——
たぶん、これまで私に葬られていった連中も、きっと、こんな顔をしていたんだろう。
「どうだにゃ?無力に殺される側の気分は……」
足を止めた彼女が、高ぶった感情を隠すことなく、私を見下ろした。
すぐ目の前には……見慣れていたはずなのに、けれど、どこか遠い存在に感じられるエーテルの光刃が──
冷たい刃先を、容赦なく私の胸元へと向けられていた。
──勝負は、決した。
そんな恐ろしい結論に辿り着いた同時に、私は、それを必死で否定しようと、唇を噛み締め、滲み出る悔しさを隠すように、顔を泥に伏せた。
「私が……たかがCランクヒーローに負けた……? そんなあり得ない、私はまだ——」
無意識に、私は腰に手を伸ばしていた。
そこには、大切にしてきた……姉さんが唯一遺してくれた宝物——どんなエーテルも断ち切る、神秘の聖剣……『霜落』があるはずだった。
……あれさえ抜ければ、制御を失った光刃を断ち切り、 逆転の目だってまだ、残されている!
そう信じて、手を伸ばしたのに……だが——
「……ない」
空っぽの手には、何も掴めなかった。
……ああ、そうだ。
焦ったあまり、すっかり忘れていた。
本来なら、これから師匠のもとへ向かう途中だった。
少し前に『汚して』しまい、わざわざメンテナンスに出していた、『霜落』を取り戻すために――。
……最悪だ。
……こんな時に限って、想定外の襲撃に遭う。
……こんな時に限って、誇りにしていた光刃すら通じない敵に巡り合う。
ただほんの少し、姉さんの庇護を離れただけで……こんなにも惨めな姿を晒す羽目になるのか……?
……思いもしなかった。
たとえ……名だたるAランクヒーローに数えられる身になったとしても。
たとえ……姉さんの背中に、もうすぐ手が届くと信じたとしても。
現実は、また容赦なく、突きつけた。
結局私は、あの日から何も変わっていない。
誰かの陰に隠れなければ何もできない、無力な、ただのこどものままだったのか。
ふざけるな……。
師匠のもとで、あれほどの修練を積んできた自分が──もう、あの頃の私とは違うはずなんだ!
かすかに震える指先──
私には、わかっている……それは、暗闇の中で何かを探し求めていることを。
……けれど、師匠は、教えてくれなかった……もし戦いの最中に、武器を失ったらどうすべきか。
いや、きっと—— それを教える必要すらないと思っていたのだろう。
だって、それは、すなわち……人生の終わりを意味していたのだから。
これは……運命が、私に突きつけた悪質なジョークか?
それとも──命を軽んじ続けてきた私への、当然の罰だと言うのか?
……私は、これまで、自らの手で葬った連中たちに、同情などしたことがあったか?
──いや。
やつらは全部死ぬべきだった。
……私は、やつらが命乞いをしてきたとき、一度でも躊躇したことがあったか?
──いや。
日々繰り返される『狩り』の中で、『生死』など、ただの変動する数字に過ぎなかった。
……ならば、そんな私が、今度は誰かに裁かれ、命を奪われるのだとしたら……それもまた、仕方のないことなのかもしれない。
──そう。
……本当に、そう思ってるの?
「……え?」
死を受け入れる覚悟など、とっくにできているはずだったのに。
それでもなお、震える身体は、必死に立ち上がろうとしていた。
そのとき……鋭く打ちつけるような重い靴底が、私の体を踏みつけた。
「ふん、人の命を弄んできたお前も……いざ自分が死ぬとなると、怖気づくんだニャ?」
「……怖気づく?」
そうか……これが……本能……死への恐怖なのか……?
どれだけ多くの命が、目の前で消えゆくのを見てきたとしても──
どれだけ自らの手で、それを断ち切ってきたとしても──
いざ、自分自身に死が迫ったとき……ようやく気づいたのだ。
私もまた、脆くて壊れやすく『命』の一部にすぎないのだと。
どれほど否定しようが、どれほど見ないふりをしようが……。
『生きたい!』、『死にたくないっ!』と叫ぶ本能は、絶望の果てで、すべての仮面を引き裂き──ゆりかごの奥に隠れていた『本当の自分』を、容赦なく暴き出すのだ。
……赦されないとしても──生きることに、理由なんて必要か?忘れかけていた何かが……心の片隅で、静かに目を覚ます。
姉さんを失って、 抜け殻のように生きてきた私が──今になって、 初めて、自分の体に染みついた血を『悲しい』と思った。
熱くて、苦しい……視界がにじむ。溢れ出したそれは、冷たい雨とともに──私の頬を静かに流れ落ちた。
……ごめんなさい、師匠。
……ごめんなさい、姉さん。
孤独で、残酷で、冷たくて、無慈悲で、人に恐れられながら、自分もまた、恐れを抱く私だけど……それでも……
──生きたいんだ。
「涙で許しを乞うつもりかにゃ?忘れるな……お前がこの世に一秒でも生き続ける限り、あの子が失った未来を踏みにじっているんだにゃ!消えろッ!」
怒りに震える少女の声が、私に最後の死の鐘を打ち鳴らしていた。
ギロチンのように振り下ろされる光刃は、たとえ痛みがあったとしても、それすら一瞬で終わるのだろう……。
──正義とは何だ?
なぜ人生が尽きようとする最後の瞬間、私は師匠に問われたあの問いを思い出しているのだろう?
……あの日、同じように死と向き合った『ネズミ』たちは、結局、結局答えを出せなかった。
そして私も……いまだに答えを見つけられないまま、こうして終わろうとしている。
きっと、その答えは、まだ見ぬ遥か遠い闇の中に隠れているのだろう。
……長いな。死ぬというのは、こんなにも長いものだっただろうか?
「うぐっ?!な、なんで……なんで邪魔するのにゃ、レイナ!」
「……?」
苦しげな呻き声とともに、胸にかかっていた力がふっと弱くなる。信じられない思いで目を開けると……そこには、冷酷だったはずの魔法少女が、胸元のリボンをきつく握り締め、呼吸すらままならない様子で苦しそうに膝をついていた。
……な、何が起きた?
諦めかけた体をどうにか支えながら……目の前、もう少しで私の鎧を切り裂こうとしていた光刃も、いつの間にか動きを止めていた。
しかも、確かに感じる。ほぼ完全に途切れていた『スヴァファ』との繋がりが……徐々に、私の元へと戻ってきていることを。
……これが、奇跡だと言うのか?
運命とは、かくも残酷で、同時に救いにも似た気まぐれを見せる。
私にとっては奇跡でも、あいつにとっては耐えがたい苦しみだったに違いない。
「レイナ……キミは……なぜにゃ……」
抑えきれない震えながら、額にはびっしりと汗を滲ませた彼女は、血走った片目を必死に開けたまま、震える真っ白な指先をどうにか持ち上げた。そして、ぐらつく光刃を──私の体へと、最後の一撃を届かせようとしていた。
だが……すでに『スヴァファ』の制御をほとんど取り戻した私にとって、それはもはや成し遂げられるはずもなかった。
「くっ……アン……フィ……ル……」
私と光刃を奪い合うことを諦めた彼女は、絶望の中で地面に落ちた杖を拾おうと手を伸ばした。
……しかし、体を傾けたその瞬間、まるで意識を失ったかのように、泥水の中へと崩れ落ち、動かなくなった。
「私…… まだ、生きてるのか?」
目の前で起きた、 信じられない事態に……思考は混乱し、理解が追いつかない。
それでも、耳に響く速まった心拍と変わらず、私を守り続ける光刃の輝きだけは、確かに生き延びた奇跡を、私に静かに語りかけていた。
そうか……私は、生き延びたんだ。
ほんのわずかに胸を撫で下ろしながらも、そこに喜びは一片もなかった。
満たされたのは、ただ苦く、重たい後悔だけ……そして、あの華奢な魔法少女に完膚なきまでに敗北したという、揺るぎない事実だった。
……かつてないほどの、失態。
私の自信も、誇りも、信念も、根っこにあった、誇り高き尊厳さえも──
すべてが、彼女の奪った光刃のもと、無惨に引き裂かれ……冷たい雨とともに地面に溶けて、 静かに消えていった。
思わず、顔を両手で覆った。 涙はもうとっくに枯れていたが、体の震えだけは、まだ止まらなかった。
「……」
ふらつきながら立ち上がった私は、ぐったりと地面に崩れ落ちた彼女へと歩み寄った。
弱りきったあいつを見下ろした瞬間──ふと、胸の奥に、卑劣な考えが過った。
──今なら、抵抗すらできないこの彼女を、簡単に殺せるかもしれない。
……怖かった。
「ぐ……なんで……」
光刃を操る指先は、止まらない震えに支配されていた。
恐怖に囚われた私は、今にも彼女が突然立ち上がり、冷たく嗤いながら、また私の光刃を奪い去るのではないかと、怯えていた。
……これは、もはや惨めに負けたかどうかじゃない。
私は……あいつと向き合う『勇気』すら、失ってしまったのだ。
「う……にゃっ……」
「……な、なんだ?」
心の中で葛藤を繰り返し、なかなか手を下せずにいる間に……悲鳴を上げる彼女の体から、無数の蝶の形をした光が溢れ出した。
ふわりと空へ昇り、やがて消えていく光の粒たち。それに合わせるように、彼女の体の輪郭がだんだんと歪み、ぼやけていき……やがて、すべての光が散り、可愛らしい魔法少女のドレスも消え失せ……そこに残されたのは、シンプルで、派手さはないが、どこか成熟した大人の気配を漂わせる──
「お、おとこ……?!」
信じられない光景に、思わず数歩後ずさりしてしまった。
隣に構えていた光刃さえ、驚きのあまり足元に落としそうになるほどだった。
……これは、一体どういうことなんだ?
やはり──この世界に『復讐の幽霊』なんて存在しない。
最初に推測した通り……『ウィングス・スターライト』は、あの場で命を落とした少女とは別人なのか?
……群星協会のデータに誤りがあるというのか?
いや、そんなことより──
ヒーローに変身すると、降臨システムの影響で身体や外見に、ある程度の変化が起こることは、誰でも知っている。
だが、性別まで変わるなんて──そんな奇妙なケース、今まで一度たりとも聞いたこともなかった。
……この裏には、どうやら人には言えない秘密が隠されているらしい。
でも、これなら説明がつく。
なぜ、たかがCランクヒーローの『彼女』(彼)が、 あの厄介な『セイモン』と、さらにもう一人の主教クラスの陣線幹部を同時に打ち倒せたのか。
……ただ、私が期待していたような、姉さんが失った『アレ』を使っての勝利ではなかったのが、少しだけ……残念だった。
「……エーテルを支配する力、か」
いまだに信じがたい、この世の理すら覆すような能力が、本当に存在するなんて……。
だが……もしも、これほどまでに神に近い、無限の可能性を持つ力だというのなら──
心の奥底に、途方もない計画が静かに芽生えた。
今ここで、衝動のままこいつを殺してより……この男を生かしておく方が、私にとって都合がいい。
「今日のところは、私の完敗だ……だけど、次に私が勝った時には……その常識を超えた力、貸してもらうぞ……魔法少女」
そう告げて、私は鋭い『スヴァファ』を引き連れ、黒い夜の帳へと跳び込んだ——。
細雨はまだ降り続き、震えもまだ消えていなかった。
それでも、私の歩みが止まることはない。
――待っていて、お姉さん。
※フィレーナ視点 完※