第16話 埋められた罪は、黒と白の罰 前半
これは、世都のある雨の夜に、ある少女の身に起きた、ある物語――
※フィレーナ視点※
「……振り切れない、か」
耳元をかすめる風の唸り。
足元で流れていく建物たちは、すでに粒のように霞み、
目では捉えきれないほどの加速度では、ただの雨粒さえも、まるで小石のような衝撃を与えてくる──
一つの街灯から、次の屋上へ。
こうして飛び渡る逃走劇を、どれだけ続けてきたのか……もう覚えていない。
ただ一つ確かなのは……追い手はまだ諦める気配がない、ということだ。
この街の影で、日常的に『掃除』をしてきた私にとって、逃げ惑う獲物など見飽きるほど見てきた。
だが──逆に、自分が獲物として追われるのは、これが初めてだ。
「……偶然、ルートが被っただけか?」
なにせ、裏では『埋葬の悪魔』という忌まわしい異名をつけられている私に、普通なら、顔を合わせただけで逃げ出すのが当たり前。
どんなに血の気の多い殺し屋だろうと……こんなバカみたいに、自ら命を差し出す真似はしないはずだ。
「いや……動きから見て、こちらの位置を正確に把握している……つまり、最初から狙いを定めてきたってことか」
だとしても、その執念だけは、素直に賞賛すべきだろう。
まるで、獲物を逃がすまいと、上空から圧をかけ続ける鷹のように……。
賢いハンターほど、直接仕留めようとはせず、 獲物が力尽きる瞬間を、冷酷に待ち続けるものなのだ。
とはいえ……。
速度に差がつきすぎて振り切ってしまえば、それはそれで本末転倒だ。
何度、後ろの影を遠ざけてほっと一息ついたとしても、必ず意外なタイミングで奴は追いついてきた。
……どれだけ足に力を込め、どれだけ入り組んだ路地裏を駆け抜けても、背後の影は、まるでぴったりと張り付いた幽霊のように離れない。
こちらが走り続ける限りは追いつかないくせに、 逆に、一歩でも止まったら——すぐに捕らえられる、そんな執拗な気配だった。
今ここで振り返って迎撃するのが、一番手っ取り早い解決法だろう。
……しかし、師匠に顔を見せる前に、この血の汚れだけはどうにかしておきたい。
このままでは、とてもまともな報告すらできやしない。
「最近、ほんとにろくなことがないな……」
昨日は、うっかり姉さんの剣を汚してしまい…… 今日、ようやくターゲットの単独行動を捉えたというのに……
結局、手に入ったのは、あの子のメモ帳に挟まっていた暗号らしき一枚だけ。
しかも、私が探している『あれ』に繋がるかも、わからない。
「……それにしても、あの子はいったい、なんで——」
──シュンッ!
「……せっかちだな」
──バァン!
夜の静寂を切り裂く、鋭い音。
空から振り下ろされた銀色の刃が、降り注ぐ雨を斬り裂きながら……背後から襲い来る閃光と、雨幕の中で激しくぶつかり合う。
白い蒸気が、熱とともに夜空へと立ち昇った。
「……ここまで追い続けて、まだ諦める気はないのか?」
私はゆっくりと足を止め、静かに振り返って、背後の脅威と正面から向き合った。
だが、私の問いかけに対して──黒い影は何も答えないまま、降りしきる雨の中へと、まるで最初から存在していなかったかのように、その姿を溶かしていった。
「……お前もわかってるだろう。この程度の目くらましなんざ……腕に自信がない奴にしか通じないってことを」
そう、本命は──
「後ろ。六時方向──スヴァファ!」
蒼き光刃が、夜の闇を突き破り、海面を割る舳先のように、跳ね上がる水飛沫を切り裂き──
瞬く間に、背後から振り下ろされかけた杖を叩き落とした。
「……にゃっ?!」
暗がりの中、黒い影が明らかに動揺する。
どうやら、私がもう一本の光刃を隠し持っていたことまでは、想定していなかったらしい。
影は痛めた手首を抱えたまま、慌てて地面を蹴って距離を取ろうとする……が。
残念だったな、ここからは、『狩る側』と『狩られる側』が、きっちり入れ替わる番だ。
圧倒的な格上を相手にしたとき、誰が『獲物』かなんて、火を見るより明らかだ。
「……フン」
すべては、読み通り。
最初に弾き飛ばした白いの光刃──『シグルーン』も、すでに私の手元へ戻ろうとしている。
長年の鍛錬と実戦で鍛えた感覚が、わざわざ目で追わなくても、周囲に漂う微かな気配だけで……刃の位置は、完璧に把握していた。
──パシッ!
地面を軽やかに蹴り、背後に突き立てた『シグルーン』を踏み台に、全身に力を込めて、一気に跳び上がる。
次の瞬間、まるで撃ち出された弾丸のように、影へと一直線に飛び込んだ。
そして、わずか数秒の飛翔の途中、さっき杖を叩き落としたもう一つの光刃『スヴァファ』を、タイミングよく手に取り、滑らかな一連の流れで、鋭い刃先を相手の首筋にピタリと当てた。
「さて、目的を聞かせてもらおうか……名も知らぬ幽霊……さん?」
そうしてようやく気づいた……あれほどまでの執念と策略で私を追い続けた存在が——なんと、小柄で華奢な若い少女だったということに。
長く流れる銀髪に、ぴょこんと目立つ猫耳を乗せ、揺れる尻尾をふわりとなびかせるその姿は、まるで童話から飛び出してきた猫の精霊のように愛らしく、思わず頭を撫でたくなる衝動に駆られた……が。
無骨な鎧に身を包んだ私とは違い、全身から可憐な雰囲気を放つ彼女が、濡れた額を上げた瞬間——私は思わず息を呑んだ。
「お前は……あの魔法少女……?」
薄暗い街灯の下、黙って私を見据えるその幼い顔には、燃えさかる怒りの炎が宿っていた。
「死んだはずなのに……」
「その言葉、そっくりそのまま返すにゃ……なんでこんなことをするにゃ?」
……こんなこと?
私が勝手にメモ帳の中の一ページを持ち出したことを言ってるのか?
でも、それより──
「まずは答えろ、魔法少女!お前は……一体何者?……死んだやつを蘇らせるなんて、ありえないことなんだ」
動揺を隠せない思考の中、珍しくも焦りが混じったせいで、 握りしめた『スヴァファ』がわずかに震えた。
……感情を制御できない戦士に、生き延びる戦場はない。
いかなるときも、相手に心の揺らぎを悟らせるな。
……師匠に、何度も何度も叩き込まれたはずだったのに。
……まだまだ、私は一人前には程遠いらしい。
「ヒーロー同士で争うのは、禁じられてるはずだ、お前は……その掟を破ったんだにゃ」
「……お互い様だろ。それに、私にはどうしても成し遂げなきゃいけないことがある」
深く息を吸い、かすかに波立った心を、無理やり、静かな水面へと戻す。
──ああ、そうだ。焦るな、惑わされるな。
たとえ目の前の彼女が本当に地獄から舞い戻った幽霊だろうと──
この刃が喉元にある限り、彼女の生殺与奪の権は私の手に握られている。
……それが、この世界における『強者』のルールだ。
「それが……罪なき者を手にかけてまで、成すべきことにゃ?」
彼女は、喉元に突きつけられた刃をものともせず、冷たく、刺すような笑みを浮かべた。
まるで牙を剥く獣のように、怒りを宿した瞳で私を睨みつける。
でも……こいつの言い方を聞く限り、まるで本当に私に『殺された』みたい……
……これは一体、どういうことだ?
「……なぜ、そんなふうに言い切れる?」
「今さら、偽善の仮面を被り続けるつもり?ポケットに隠してるそれはなににゃ?」
「……気づいてたか」
別に隠すつもりはなかった。
なにせ、これは『死者』のもとから、勝手に『拝借』したものだ。
とはいえ、まさか、目の前の不審者にあっさり見破られるとは……正直、想定外だった。
「ふん。あれだけ追い回して、まだ気づいてないのかにゃ? 愚かな処刑人にゃ」
「っ!?まさか──」
向かいの彼女の顔に浮かんだ、ゾクリとするような冷たい微笑みが、胸に芽生えた最悪の予感を、ほぼ瞬時に裏付けた。
まさか……たった一枚、微量なエーテルしか残されていない紙片から──ここまで正確に、私の居場所を捕捉し続けたっていうのか?!
そ、そんなバカな……!
これほど精緻なエーテル制御、師匠ですらできるかどうか……。
まさに、神のみが踏み入れることを許された領域……そんなこと、たかがCランクヒーローにできるはずがない!
「……」
背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
最初は、ちょっと頭が切れて、根性もある程度の奴かと思っていたが……
今ならわかる。こいつは、私の想像以上に厄介で、危険な存在だ。
……もしかすると。ここで、始末しなければならないかもしれない。
「まだ手を出さないにゃ?さっきから、また手が震えてるにゃ」
「……黙れ。本来なら、同じヒーロー同士で戦うつもりなんてなかった、だが……これほど危険な力を持ちながら、なお私に牙を剥こうというのなら……黙ってやられる義理はない」
低く声を絞り出し、彼女の雪のように白い首筋に、さらに鋭く刃を押し当てた。
ほんの指一本、ひとつ動かせば、 このか細い喉を容易く断ち切れる距離だ。
「……最後にもう一度だけ聞く。ここで、手を引く気はないか?」
その問いに、彼女は……呆れたように、鼻を鳴らした──
「はっ?手を引く?バカ言わないでほしいにゃ……だって、あんたには、やったことの代償を払ってもらうにゃ!」
「……そうか。ならば……これでお別れだ、魔法少女!たとえ何度蘇ったとしても、私は何度でもお前を——なっ!?」
あらゆる反撃のパターンを想定していたつもりだった。
だが、それでも——目の前の彼女の行動は、完全に私の想像を超えていた。
あいつは……ためらいもなく、自らの白く細い指先を、熱を帯びた光刃へと押し付けたのだ。
──ズシャァッ!
次の瞬間、耳元で弾けた鋭い音と共に、鮮血が噴き出し、呆然とする私の顔に容赦なく降りかかった。
「……何をしている」
声だけは、どうにか冷静さを保っていた。
でも、今の私の顔は、きっと、相当険しかっただろう。
師匠の前に、血まみれじゃない姿で行こうなんて願いは―どうやら、叶いそうにない……。
……正直、こんな行動を取った意図がまるで読めなかった。
視界を奪うため?同情を誘うため?それとも——?
だが、どんな理由があろうと、 敵意を明確にした以上、私がなすべきことに変わりはない。
顔から滴る血と同じように……冷徹に振り下ろされる私の指先は、このくだらない茶番に、いよいよ最後の幕を引こうとしていた。
──が。
「……スヴァファ?」
異様な違和感が、私たちの間を包み込んだ。
いつもなら、まるで意志のままに延び、 自由自在に振るえるはずの光刃。
それが今、鉛でも詰まったかのように重たくなり、どれだけ指示を飛ばしても、彼女の目前から微動だにしなかった。
「どういうことだ……スヴァファ!?どうして動かない?!」
焦りながら、命令を聞かなくなった刃を、必死に引き戻そうとした。
そんな努力など、すべて無駄だった。
完全に私の制御を離れた第一の光刃──『スヴァファ』は、空中でゆっくりと方向を変えはじめる。
かつて──手強い敵を屠り、数え切れない異変者たちの命を断ち切った、その鋭き刃が。
いま、冷たい光を放ちながら、真っ直ぐに……自らが守り続けた、この私自身を狙っていた。
……これも全部、あいつの仕業か?
人とエーテルの繋がりを妨害する技術については、治安局でも似たような研究が進められていると聞いたことがある。
だが、こんなふうに他人のエーテルを自在に操るなんて――そんな話は、私の知る限り一度も耳にしたことがない。
いや、そもそもこの世界の理に照らし合わせれば、本来あり得るはずのない現象だ。
「っ!?」
だが、目の前の衝撃的な光景に驚く暇もなかった。
鋭く、そして危険な冷たい光が、すでに私の顔を照らし始めていた。
それは、天から堕ちる流星か。
あるいは、裂け目から噴き出す蒼き炎か。
間近で迫り来る光刃の圧倒的な存在感に、ただ息を呑むしかなかった。
──どれだけ認めたくなくても、心のどこかではもう分かっていた。
今の『スヴァファ』は……もう、私の命令に従う頼れる『パートナー』ではない。
「……シグルーン!!」
「──させないにゃ!」
「……くっ」
近くにあった第二光刃を何とか回収できればと望みを託したが……
当然、より速く動いた『スヴァファ』が、そんな猶予を与えてくれるはずもなかった。
遠く離れた『シグルーン』を必死に呼び戻し、なんとか迫りくる致命の一撃を防いだだけで……ほとんど全力を使い果たしていた。
──カァン!
雷鳴のような爆音を轟かせながら、高速のエーテル光刃が、激しくぶつかり合う。
太陽にも匹敵するほどのまばゆい火花が散り、飛び散る光の羽と、蒸発した水滴が宙を舞う。
その中で──互いに刃を向け合った、かつて最も信頼していた二本の光刃は、まるで夜空に輝く南十字星みたいだった。
命取りとなる一撃をどうにか防ぐことはできた、だが……私にはわかる。
『スヴァファ』と接触している『シグルーン』も、徐々に制御から外れ始めていることに。
ぐらつく刃先は、すでに不穏な震えを見せ始めている……。
このままじゃ……