第1話 残業の終わりは不幸な始まり
三十歳——
人生にとって、これは微妙な分岐点なんだ。
「……今の話、ちゃんと聞いてたか?!特にお前!ライク!」
目の前で唾を飛ばしながら怒鳴ってる部長が、突然立ち上がって机を叩いた。借金取りみたいな鬼の形相で俺をにらみつけてる。そいつの頭は、横に薄毛が生えてるだけで、てっぺんはツルツル。徹夜続きの俺の目には、まぶしすぎて開けられそうにないよ。
「あ、はい、もちろん聞いてます、耳を澄まして聞いてますよ」
「わかってんのか?会社の業績が上がらないのは、お前みたいなダラダラした奴らがいるからなんだぞ!」
「……それって、部長の失敗じゃないですか?俺みたいな小物に八つ当たりするなんて、ただの無能の暴走でしょ」
「今、何か言ったか?」
「え?何も言ってませんよ。外の野良猫の鳴き声じゃないですか?」
「ふん、とにかく、今週中にプロジェクトが終わらなかったら、全員減給だからな!覚悟しとけ!」
最後の捨て台詞を吐いて、頭も気分もスッカラカンの部長は怒り散らしながら出て行った。後には、長時間説教されてヘトヘトになった俺たち部下が、顔を見合わせるだけ。
「ふぅ〜、やっとあの鬼が去った……さて、仕事するぞ」
「これじゃ、また連続残業地獄だな」
「……」
やっと、戦場みたいな緊張感から解放された。みんな心の底から安堵のため息をついて、次々と席に戻っていく。でも俺は、まだ空っぽの回転椅子をぼーっと見つめたまま。
「……辞めちゃおうかな」
元気のない声で独り言を呟いたけど、すぐにその考えは泡のように消えた。
「冗談じゃない……」
この歳で転職したって、何ができるっていうんだ?
というか、競争がますます激しくなってる『世都』っていう自由都市で、自分の決断に責任を持つことだけが自由なんだ。逃げ道も貯金もない奴は、あっという間に弱肉強食の環境に飲み込まれちゃうよ。
そうなったら、一時の気の迷いで軽はずみな決断をしたことを後悔しても遅いんだ。
あぁ、嫌だな……三十歳になったばかりの俺が、もう中年の人生の危機を味わうなんて。
ちょっと待てよ……このストレスで、俺の頭も早晚あのハゲと同じ髪型になっちゃうんじゃ?!
「やだぁぁぁ!俺まだ若いんだぞ!たまに抜け毛はあるけど、まだまだ生え盛りだって!そうだよ、この前の美容師さんもそう言ってたはず……」
「おい、ライク、。一人で大声出して何やってんだ?外で飲んでこい。それで早く戻って仕事しろよ」
独りで取り乱してたら、同僚が容赦なくコーヒー缶を投げつけてきた……痛っ。次は軽いもの投げてくれよ。
床に落ちたコーヒー缶を拾って、振り返って営業スマイル全開で――
「はいはい、行ってきまーす」
なんて嘘だ——
「ゴクゴク……ふぅ、さっさと逃げるか」
廊下の隅で同僚からタダ同然でもらったコーヒーを一気飲みして、大きくストレッチ。でも足は自然と階段に向かってた。
たまには休息も必要だ。
もう二週間も会社で残業続きだし……襟元の匂いを嗅いでみたら、このままじゃ木の根元で育つキノコになっちゃいそうだ。日光浴しないとマズイ。
「どうせ減給は決まりだし、そんな無理難題のプロジェクト、一週間じゃ絶対に終わらないよ」
それなら早く帰って、ゆっくりお風呂に入って、ぐっすり寝た方がいい。そして暗黒(減給)の到来を待つ。部長の個別説教?……知るかよ、なんとかなるさ。
唯一の問題は貯金だけど——
「へへ、最近ずっと会社に住み込んでて外出する機会がなかったから、今月末まで財布はかなり余裕あるんだよね。まさに無敵状態、ハハハ」
ピンポーン——
腰に手を当てて笑っていたその時、ポケットのスマホからメッセージが届いた——
大家さん——
「ライクさん、生きてますか?生きてますよね、夜中に路上で寝たくなかったら、このメッセージを見たらすぐに滞納分を払ってください」
「……」
さっきまでの得意げな表情も心の余裕も一瞬で消え失せた。震える手でスマホを操作して、なんとか言い訳を絞り出そうとしたけど、突然画面が暗くなった。バッテリー切れの警告の後、指紋だらけの黒い画面に映ったのは、ヒゲだらけの男のボロボロな顔。
そ……そういえば、最後に充電したのいつだっけ?
普段なら絶対忘れないような大事なことも、お風呂と同じで、無限ループの残業地獄の後じゃ、もう記憶のどこかに置き忘れちゃってたんだよね。
「もう、どうでもいいや!こうなったら、今日は絶対にお日様を見に行こう!何が起きても、俺を止められない!」
こんな小さな挫折で、暖かい日差しと爽やかなシャワー、そして柔らかいベッドへの憧れが止められるわけないよね?
そう、俺の人生は俺が決める!
そう思ったら、胸の高鳴りを抑えきれなくて、つい足取りが速くなっちゃった。周りの視線や声なんて気にせず、一気に階段を駆け上がって、会社の玄関を飛び出した。思わず両手を広げて――
「来たぞー!久しぶりのお日様よーーー!」
パタパタ、パタパタ——
ガシャーーン——
「……」
だが、俺を迎えたのは、晴れ渡る日光ではなく、体を瞬く間に濡らす大雨だった……くそっ、さっきは廊下を走ることに夢中で、外の天気に全然気づかなかった。ましてや、電池が切れたスマホから天気予報を確認することすらできなかった。
どうして日差しを浴びたいと思った時に限って雨が降り出すんだろう、本当に最悪だ。
「はぁ、結局雨に濡れて帰るしかないのか……」
目の前の大雨を見つめながら、少し迷っていた。事前に傘を準備するなんて無理だ、今まで一度もできたことない……でも、わざわざ会社に戻って、恥ずかしい思いをしてまで戻るのも絶対嫌だ。
もうこうなったら、雨を浴びながら地下鉄駅まで走って、そこから地下鉄で帰るしかない…。
ほんの少しでも気持ちを楽にするために、外套のボタンを外して頭にかぶり、振り返ることなく雨の中に飛び込んだ。
人影もない、雨が降り注ぐ街路の両側では、ARの広告がまだループしてる。今じゃ、雨の中でますます惨めになってる俺をからかってるみたいだ。
10分後……
「ふぅ……ふぅ……嘘だろ……」
息を切らしながら、両手を膝について地下鉄の入口に着いたのに、目に飛び込んできたのは、あの目障りな黄色い警戒線だった。
「近くを通った時に警報を受け取らなかったのか?下のエーテル濃度が急上昇して、骸骨が活発化してる可能性がある。だからこの区域は一時封鎖されてる。帰りな」
入口で警備してる奴が、びしょ濡れの俺を馬鹿みたいに見て、冷たい口調で言い放った。
「え……えぇ!?」
反射的にスマホを取り出そうとしたけど、電源が切れてるのを思い出して、手を戻した。
最近、もう骸骨の活動期は過ぎてるはずだろ?また陣線のアホどもがまた何かやらかしたのか?!
会社から逃げ出してきた俺が言うのもおかしいけど…治安官と群星協会の連中は何やってんだよ?ちゃんと仕事しろよ!俺のわずかな給料の一部がお前らの税金になってんだぞ!
くそっ、家に帰るだけなのにこんなに苦労しなきゃいけないなんて……運命よ、お願いだから、残業地獄から脱出したばかりで、精神も肉体もボロボロな俺に、もう少し優しくしてくれよ。
「……まだ何かあるのか?」
「あ、ああ、何でもないです。お疲れ様です」
警備員の目つきが怪しくなってきた、これ以上いたら不審者扱いされそうだ……慌ててにっこりと笑って、地下鉄駅を後にした。
30分後……
「ふぅ……はぁ……ふぅ……はぁ……やっと……家に……着いた!」
鉛を詰め込んだみたいに重たい足を引きずって、シャツから靴下まで全部濡れてて、水から上がったばかりの人魚みたいにびしょ濡れの俺。でも、あの質素だけど見慣れたアパートが見えた時、思わず口元が緩んじゃった。
「ふふ……ははは!どうだ!俺様はちゃんと帰ってきたぞ!まだ何か仕掛けてくるのか?かかってこいよ!」
ゴールはもう目の前!会社を出てからの連続した不運を思い出して、今の俺は勝利のシャンパンを振りまくみたいに、まだ水滴るジャケットを高く掲げて、頭上の暗雲に向かって思い切り大笑い――
でも、自分の頑張りを誇らしく思ってる時に限って、さっきまで土砂降りだった空が、あっという間に晴れ上がった……。
「……」
遅ればせながらの日差しを見つめて、笑顔が凍りついた俺は、数分間その場で呆然と立ち尽くした。さっきまで興奮して掲げてたジャケットも、力なく下がった。天気は晴れたのに、今の俺の心は雨の中にいた時より冷え切ってる。
「もう、どうでもいい……今日は本当に何一つ良い事がなかった」
生きる気力を失った俺はため息をついた。さっきまで溜まってた疲れが一気に押し寄せてきた。もう運命の荒波と正面から戦う気もない。手すりに手を掛けて、かすかな安心感を感じながら、小さな避難所に向かってゆっくりと歩を進めた。
「性格が落ち着いてて思いやりがあって、スタイル抜群の大人のお姉さんじゃないと、傷ついた心は癒されないな……うーん、前のお宝はどこに置いたっけ」
でも、すでに巻き起こった運命の嵐の前では、そんな小さな願いも、簡単には叶いそうにない。
「……ん?これ何だ?ペンキ??」
記憶を必死に探ってる時に、ふと靴に気づいた。雨で濡れてるだけじゃなくて、何か暗赤色の液体が付いてる。
「おいおい、またガキのいたずらか?!」
見つけたら絶対説教してやる……いや、これを口実に親から食事代を巻き上げるのもアリかも。今夜は肉が食えるぞ!いろんな算段をしながら、足元のペンキの跡を追っていくと、すぐに廊下のある目立たないドアに辿り着いた。
よし、お前だな、図々しい奴め……303。
えっ?待てよ、これ俺の部屋じゃないか?!
まさか、俺の部屋から流れ出てるのか。あの大家が……
「あ、すみません、ぶつかって……うわっ?!誰だお前!」
目の前のドア番号をぼーっと見てたから、誰かに足を引っかけられたのに全然気づかなかった。でも、思わず謝ろうとした時、自分の部屋の前に誰かが座ってるのに気がついた。
いや、正確に言うと、見知らぬ若い……少女?
俺の部屋の前に座ってる彼女は、新品みたいな薄緑のジャケットを着てて、襟元には黒いリボンの付いた白いブラウス。ウエストには同じピンク色のベルトがついたスカート。おしゃれで活発な印象だけど、なぜか整った顔立ちの長いまつげの瞳は、ずっと閉じたままだった。透明な汗が白い首筋を伝って、艶やかな黒髪を通って、見覚えのある暗赤色の上に落ちていく……そこでは、渦巻きから湧き出るような危険な液体が、少女の背中と足元の地面を徐々に赤く染めていった。
「やっぱり…これは…血か…死んでる?!」
平穏な日常の幻想が一瞬で打ち砕かれ、自分の浅はかさを痛感しながら、一瞬の恐怖と、説明できない興奮が体中を駆け巡り、背中を貫通する電流のように、頭皮に鳥肌が立つ。
雨のせいか、それとも新しく流れ出た汗のせいか分からないけど、シャツが喉にへばりついて、息苦しさまで感じてきた。
その息苦しさが本能的な恐怖からくるのか、それとも眠っていた衝動からなのか、混乱した頭じゃもう答えが出せない。
でも、目の前にあるのが事故だろうが……事件だろうが……
「どう考えても、これからヤバいだろ!?」
どこでもいいのに、よりによって血まみれの見知らぬ女の子が自分の家の前で倒れてるなんて……。
俺は関係ない!知らない子だ!何も知らないよ!
たまたま残業中に会社を抜け出して!たまたまドアの前で出くわしただけ!
こんな薄っぺらい言い訳、自分でも見苦しいと思うよ!
もうダメだ、きっと厳しい取り調べを受けることになる。たとえ最終的に無実が証明されても、その間は無断欠勤で収入はゼロ。おまけに家賃を滞納しているうえに大きなトラブルを起こしたとなれば、大家は絶対に部屋を貸し続けてくれないだろう。ここは近くで唯一安いアパートなのに、この最後の避難所まで失えば、本当に路上生活になってしまう。
「……う……にげ……て……」
「え?まだ生きてる?おい!おいおい!目を覚ませ、死んじゃダメだ!俺の住む場所のためにも、死んじゃいけないんだ!」
頭を抱えてその場にしゃがみ込み、未来に絶望していた時、見知らぬ少女の夢うつつの呻きが、俺の最後の一筋の希望だった。
「もう少し頑張れ!寝ちゃダメだ、すぐに救急車を呼ぶから……そうだ、警察も」
必死に少女を励ましながら、スマホを取り出して、独身三十年で鍛えた片手の超速タイピングで電話しようとした時、ふと思い出した――
こんな大事な時に限って、スマホが充電切れだーーー!
ドンドンドン――おーい?誰かいませんか?家にいる人はいませんか?
廊下の部屋を順番に大声で叩いて回ったけど、誰も応答してくれない。どうしようもなくなって、また少女の側に戻った。
「ねえ……キミのスマホはどこ?おい、聞こえる?目を覚ませ」
かよわい少女の肩を掴んで、優しく揺すってみた……幸いなことに、外からの刺激で、少女はようやく固く閉じていた目を開いた。でも、生気のない目つきで、もうほとんど焦点の合わない濁った灰色の瞳だった。
「……にげ……」
少女は唇を動かしたけど、結局一言も言葉にならないまま、また深い眠りに落ちてしまった。「おい?!」
くそっ……さっきの一単語しか聞き取れなかった言葉が、彼女の最後の言葉になっちゃダメだ。
「仕方ない、俺が探すしかないな。ごめんな」
袖をまくり上げて、長年連れ添ってきたジャケットを脱ぎ捨てて、それでしっかりと少女の出血している傷口を包んで、きつく縛った……こんな応急処置がどれだけ効果があるか怪しいけど、一分でも時間を稼げるなら重要だ。
「次は……」
少女の応急処置が終わったら、彼女の足元にある可愛らしい小さなバッグに目を向けた……中に丸い輪っかのようなものがあったらどうしようとか考える暇もなく、バッグを掴んでひっくり返して、中身を全部ぶちまけた――
「うーん……何でもあるな、これ、あの青ダヌキのポケットか?」
異性に関する乏しい知識でも、外出時に色々準備することは知っていたが、中身の種類は予想以上だった――
化粧ポーチ、小さな手鏡、リップ、ウェットティッシュ、香水、ヘアピン、日焼け止め、制汗スプレーなどなど……まるで小さな武器庫のように何でも揃っているのに、でも何度見返しても、今一番必要なスマホだけが見当たらない!
「ポケットがなさそうだし、一体どこに入れているんだ?」
ま、まさか彼女は挟んでる……?
これは漫画で見たことあるぞ!大人の魔性のボディを持つお姉さんが時々、大事なものを、あの豊満な――
ごくりと唾を飲み込んで少女の胸元を見上げた——
「あー……無理そうだな」
スマホが見つからなかった失望と、意外な収穫もなかった二重のため息をつきながら、諦めきれずにもう一度散らばったものを見渡した時、キラリと光る特殊な物が目に飛び込んできた。
「これは……ウェアラブルデバイス?」
全体の厚さがガムくらいしかない軽やかなものなのに、水晶のように透き通ってなめらかな質感があり、あまりにも透明すぎて、今までの慌ただしい探索では見逃してしまっていた。
「頼むよ、絶対に役立ってくれ……」
あの役立たずのスマホみたいに充電切れだったら、本当にどうしようもなくなる。
最後の希望を抱きながら、不安げにデバイスを装着し、指で軽くタップしてみた……息を止めて待つこと数秒、先ほどの祈りが効いたのか、デバイスが一瞬で明るく光った——
「よかった……ん?」
しかし、胸に溜まっていた歓声を上げる間もなく、デバイスの上に投影された図柄を見た瞬間、心臓が一瞬で締めつけられた。
盾の形をした輪郭の中に、公平を象徴する天秤。左上に昇る交差した二つの月。右下にはアイリスとフェニックスの羽根が重なり合う……厳粛さの中に何とも言えない奇妙さを漂わせるそのデザインは、、何度見ても間違えようがない、記憶と魂の奥深くに刻まれた印——
「群星協会……こいつ、まさかヒーローだったのか?!」